心がすさんでいる?
−といってもうちのクラスのことではなくートイレの便器にトイレットペーパーを丸ごと押し込んだり、トイレのドアを内側から締めて使えなくしたり、あちこちに落書きをしたり、人目を盗んでするいたずらがあるんです。いたずらと言っていいのか、時にはそんな言葉では済まされないようなことも。
うちのクラスでも、物がなくなる事件が2度ありました。いずれも女子のものです。みんなに探してもらったのですがとうとう見つかりません。こういうことがいつおこるのか、わかりません。その時を見つけようと注意していても、うまく隙をつかれます。
いつの頃からか、学校ではこういうことが増えてきました。(ですから、疑われないためにも、下校時刻を守って、その後の忘れ物は取りに来ないことにして下さい。また、学校はいつも解放されていて、保護者と不審者の区別が付かないのも困りものです。)ものを大事にするとか、自分と人の物を区別するとかができなくなってきているようで、教室にも鍵を、とお願いしていますが、そんなことまでしなければならないとは。本当に嘆かわしいことです。
まるで黄河のよう
うちのクラスの子を例えてみると、そう、黄河のよう(といっても実際には見たことがないのだけれど)。ゆったりと大きく流れている・・・とにかく素直。人を疑うということを知らないような純粋さ。そして、友達すべてを受け入れる大きさ。
荒れ狂う激しさはないけれど、ゆったりとゆったりと、まわりと一緒に流れていく。時に石を投げて波紋を起こそうとするのですが、いっこうに動じません。
勝手に飛び散るしぶきを流れに戻そうとする私の注意を、「厳しいよ。」と注文を付けて友達をかばう優しさは天下一品です。
でも、目に余るわがままを言う友達には、私の代わりにお説教して私を助けてくれることもあります。
こういうとき、私はこの子達の素晴らしさに感動しています。また、この子達、別のものに例えてみると、宮沢賢治の「雨にも負けず」のようです。
アメニモマケズ カゼニモマケズという例のアレです。
あわてず騒がず、マイペース。風に身を任せる柳のように自然に逆らわず、ひょうひょうと生きている感じです。そんな子どもたちに、今学習している詩「われは草なり」がぴったりかも知れません。
「自分は自分である。自分は自分らしく生きていく。」ということ、まだ自覚はないのかも知れませんが、徐々に感じていって欲しいと願っています。そのためにも、繰り返しになりますが、
この事を しつこく しつこく 話していきたいと思っています。
自分で考えること。自分で判断すること。
自分で実行すること。
簡単に言えば、言われなくてもやるということ。
決して操り人形にはなるなということ。
高東スポーツ大会の練習もいよいよ佳境に入りました。
子どもたちの盛り上がりはどうでしょう。いろいろと話を聞いてみて下さい。