12月28日(金) ミラノ、ベローナ観光
今日の出発は7時。国内観光でもこの時間はあまり設定されない時間帯。その理由は急遽入った「最後の晩餐」の見学。8時30分からの予約だが、8時までには到着してなければならないと言うことで、かなり余裕を持った出発。「最後の晩餐」のある教会はサンタマリア・デレ・グラッツェ教会で、その付属の食堂に描かれたキリストの最後のゴルゴダの丘の絵と対をなしている構造になっている。部屋の中は保存の為に完全空調で、埃と湿度から守る為に、何度か調整室を通らされる。ちょうど高松塚古墳の中に入り込む感じ。「最後の晩餐」はそれは見事で、構図的にも相当練られたもので、キリストの背後から後光が差しているような感じの構図は、その遠近法の構成とともによく知られている。また人物の大きさが前後関係とは切り離して同じ程度の大きさに描くことによって、画面から浮き出る感じというか飛び出しているような印象を与えるような構成にもなっている。この絵八かずいても見ることは可能だが、少し遠目に見ると全体がわっと浮き上がって見える効果がある。少し離れてみたときの感動も忘れられない。
イエスの表情が、何とももの悲しく哀愁を帯びていて、引きつけられた。レオナルド・ダ・ビンチの最高傑作と言うことが、納得できる作品。ところでこの絵はフレスコ画を工夫してさらに持ちが良くなるようにしたものであったが、この点についてはレオナルド・ダ・ビンチは失敗しており、わずか50年ほどでほとんどシミのようになってしまったということだ。その後何度も何度も修復が行われ、最近も近代科学の英知を集め行われ、カプセル状態の部屋、つまりは教会の食堂が完全空調の展示室となったわけ。ここのチケットは変わっていて、最後の晩餐のキリストと12使徒の図柄を切り取ったもので、我々は交換してもらってキリストとユダの図柄部分を手に入れた。この絵を見ることが出来たのは、旅行社側の粋な配慮によるものだが、深い感動を味わうことが出来た。(写真の右側がサンタマリア・デレ・グラッツェ教会で、その後ろが祭壇部分。左の修復中の建物の奥がかつての食堂で最後の晩餐が保存されているところ。)
次に向かったのはスフォルツェスコ城。城門はドゥオモの方向を向いており、また城壁には大きな窓もある。これはこの城が備えだけの城ではなく、執政上の意味合いであろうか人民に対して胸襟を開いているという姿勢をも示している城であるということだった。城門にはこの町の守護聖人の像などがあり、またこの地の統治者だった家の紋章である十字と蛇が描かれている。この紋章の意匠は、それを反対にして、つまり紋章自体は向かって左に蛇があり右に十字があるが、その逆の形にしたのが某自動車メーカーのマーク。創業者がこの町の出身であったことを示している。城門の中は何千人もの人が入れるくらいの大きな空間になっており、ここで為政者の結婚式から裁判死刑執行まで、様々な儀式が行われたと言うことだ。
城の一部は内部にはいることが出来る。その内部は博物館になっていて、レオナルド・ダ・ビンチの天井画とミケランジェロ80歳を越えての遺作「ピエタ像」などがある。他にも細かなものがあるが、なんと言ってもこの二つ。天井画はやはりくすんでいるが、ほんの一部だけ再現している部分がありその見事だったろう往事の姿がしのばれた。ピエタ像は刑死後のイエスを抱きかかえている聖母マリアが彫刻されている未完成のもの。ミケランジェロは死の三日前まで、もはやほとんど目なども見えなくなっている頃に制作をしていたという、彼の最晩年の傑作。どこが未完なのか、荒々しいタッチが残る部分あのだろうか、私にはそれこそがこの像のえも知らぬ深い悲しみと脱落感を現しているように見えた。(写真はスフォルツェスコ城の正面入り口で、この先に広場がありその先の建物の右側が博物館。噴水には偶然虹が・・・。もう一つはピエタ像。)
そこからバスに少し乗ってスカラ座へ。スカラ座は町の中心部に位置する。スカラ座のスカラとは、イタリアの名家の名称。そこから嫁にきた婦人の菩提寺のようなものとして建てられた教会の跡地に建てられたのがその由来。当時はオーストリアの支配下にあったので、著名な名称の割には地味な建築様式であり、また思っていたよりは小さな劇場であった。スカラ座の正面の通りを隔てたところにあるのがスカラ座広場。ここにはレオナルドダビンチと4人の弟子の像が建ち、スカラ座全体を納めるのにはちょうど良い場所で、そこのスカラ座とは反対方向の一角からエマニュエル2世アーケードが続く。
エマニュエル2世アーケードはそれこそ世界のアーケードの元祖ともいえるもので、当時としては画期的な、鉄の枠組みにガラスをはめ込んだもので、残念ながらその制作者は完成式の数日前に自身の最後になったこの枠組みの足場から落下して、若くして帰らぬ人となったという。スカラ座方向の入り口からドゥーモ広場へアーケードは続くが、その途中に一カ所十字路がある。ここにはPRADA本店やその向かい角にはマクドナルドなどがあるが、その上部の東西南北にこのアーケードの出来上がった時期を象徴しているように、ヨーロッパ・アフリカ・新大陸そしてアジア(中国)が描かれている。足下には、それぞれの方向へのモザイク画があった。また、獅子もあって、そこで1回転すると運が向いて来るというので、二人とも真剣に挑戦。旨くいった。
そのまま折れずに直進すると、スカラ座広場の十倍ほどもあろうかと思われるドゥオモ広場に出る。出口のすぐ左側にはこの町の象徴とも言うべき、もっともこの時代のすべての町がその町々でこうした大聖堂を建てており象徴としていたと思われるけれども、その中でも一番巨大な制作に実に500年を要したという、ドゥーモがある。林立するおびただしい数の尖塔それぞれを含みすばらしくかつ繊細な彫塑が施されており、その全体はレースの織物にもたとえられているようで、長さ100数十メートル幅100メートル足らずという巨大な建物でありながら、威圧感を全く感じさせない見事さには感動を覚えずにはいられない、ゴシック様式の最高傑作の一つ。広場の中心部には騎馬像があり、そのあたりまでこないと全体像を眺めるのは難しい。
しばしの写真タイムの後、中にはいる。ちょうどこの時期は、ペストの流行などがあったときに奇跡を起こしたという、この町の守護聖人の誕生日(12月7日)から間もないと言うことで、その業績をたたえたおびただしい数の絵やタペストリーが、堂内の巨大な空間のかなりを占めていた。この時期だけの特別な展示なのだそうだ。ここには2基のパイプオルガンが備えられており、また巨大な柱柱のうちの壁面を構成する部分には美しいステンドグラスがはめ込まれている。少し実際にはそこに座っていたいものだけれども、このツアーは実際はかなりの強行軍で、次のステップが待っているので、後ろ髪を引かれながら後にせざるをえなかった。そこから途中免税店でトイレ休憩をとった後、ベローナへ向かう。
ベローナについて最初に遅めの昼食。我々のツアーは現地のGTA(ガリバー・ツアー・アソシエイション)が扱っていると言うことだが、この時期はレストランにも変更があるようで、途中にローマのコロッセオに次ぐ保存状態の良い円形劇場であるアレーナを見るなどしながら彷徨しつつ、クリスマス直後の雑踏を味わいながら街角を歩き、エルベ広場から少し戻ったレストランへ遭難直前でたどりつく。このレストランではミラノ名物の子牛の肉をたたいて平べったくしてから衣をつけてあげるという、ミラノ風カツレツを味わった。しかしどうも衣を食べているようで、その店の調理方法なのだろうが、あげていると言うよりは衣をつけて多めの油で炒めているようなものであった。肉自体の味がなく、名物には申し訳ないが、そうどうという感激のするものではなかった。しかしながら、店店でそれぞれ独自のパスタを作っているということだけれども、この店のパスタ料理は美味しかった。ほうれん草を練り込んだパスタで、マカロニ程度の大きさの固まりで、餅のようなグルテンを含んだ食感があり、それにチーズがまぶされているもので、我々にはこの日の夕食を含めて一番の料理だった。
さて食事の後はベローナの観光。マリノというおじいさんの現地のライセンスガイドが我々に付く。この人、相当の日本語をしゃべり、また英語も話す。しかしけっこう齢を重ねているようで、私の耳にも英語で何度も出発時間を添乗員さんに尋ねるなど、大丈夫なのかとも時に感じさせる人ではあったが、要点は漏らさずしかも狭い道筋を闊達に歩き回る。最初にエルベ広場まで戻る。エルベとは野菜の広場、つまりはかつてここでは野菜を中心とした市が開かれていた、いわば庶民の広場。観光名所になっており、ファーストフードの屋台とか、観光用の店店が並ぶ。周りを囲むようにいくつかの建物が建っているが、そのうちの一つには壁にフレスコ画があり、それは当時のものではないが、その雰囲気を出す為に今日もなお保存に力を入れているものなのだそうだ。この脇に建つ塔は時代時代の三つの様式を併せ持つものと言うことだったが、三層に形式が分かれていることは理解できたが、それがどのものなのかは、どうもマリノじいさんの説明では判別しかねるところがあった。
野菜の広場の脇を進むと、シニョール広場に出る。中央にはダンテの像がある。ここは治めていたスカラ家などの為政者側の建物、今で言えば行政官庁のある場所であったらしい。全体としては落ち着いて雰囲気の広場で、その脇にはローマ時代の道が見えるようになっている。つまり、この町の現在の主立った建物は中世から近世にかけてのものではあるが、この町の下には、かつての川が水脈になっていることを含めて、ローマ時代の町の後が地下数メートルのところになお眠っているのだと言うことだ。この紀元前のローマ時代や、それから後の紀元後直後のコリント様式が生まれたころの姿が、時に町のあちらこちらで顔を見せている。そればかりではなく、さらに時代はさかのぼって、敷石となっている大理石のなかにはアンモナイトも見られ、有史以前まで思いを及ぼすことがこの町では可能だ。そのほか、この町を流れるアデージェ川の河畔やなどを含めて、まるで古い少しゆっくりとした動きのジェットコースターに乗っているような感じで、町々を見て回った。(写真でサンマリノ公国の旗を持っているのがマリノさん。順さんが立ってイルしたにあるのが地下に埋まっているローマ時代のグランド。ここには井戸の跡もあった。)
最後に、思い出したようにとも言うべきか、この町の今ひとつのシンボルである、ロミオとジュリエットの悲劇のモチーフになった二つの家を見に行く。ロミオの家は町の道筋のところにプレートがはめられているだけのものであったが、ジュリエットの家は「ロミオロミオ何故あなたはロミオなの」という名ぜりふを後年シェークスピアをして語らしめたバルコニーシーンのそのバルコニーとともに残っており、またその横にはジュリエットの像も置かれている。この像の右の乳をさわると幸せな結婚が出来るという、どこにもありそうな言い伝えの為に右乳は異常に光っている。ここで、マルコじいさんの力が発揮された。彼は並んでいる多くは日本人の観光客の順番を無視して、さっとその場を締めて記念撮影をしてやがて風のようにその場を立ち去った。恐るべし。書き忘れたが、途中でこの地を支配していたスカラ家の廟所のようなところにも立ち寄った。スカラ家の紋章のテーマは、スカラすなわち階段(ステップということだろう)であり、それがはめられた格子の中にある。感じとしては、バリ島のお墓に近いものがった。(写真はくだんのバルコニー。)
こうして、ベローナの観光を終えて、日本人がやっている観光物産店のようなところでトイレ休憩の後(ここで土産にするパスタをかったが荷物になりその後結構これで苦労する)、一路ベネチアの郊外の今日のホテルを目指す。ホテルには1時間半あまりで到着し、少し早き時間だったので我々は荷物の整理などして、夕食に向かう。夕食の前に添乗員さんからプレゼント。我々が「キッズサプライズ」という欧州版グリコ(正確にはそのおまけ)ともいうべき卵形のチョコレートを探しているというリクエストに応えてくれたものだ。ともかく、彼はベローナでも探したようで、本当にありがたくいただいた(後のローマの時のガイドさんからの情報ではこのお菓子はおよそ30年前からあるものだということだった)。さて夕食の料理はサーモンのグリルがメーンであったが、まぁ普通のもので特徴的なものを語るものはない。しばらく歓談をしてからホテルへ戻る。風呂に入り、10時頃であっただろうか、いつの間にか寝てしまった。