2008年4月29日(火)

▲起床(0500)−朝食(0600)−出発(0855)−ピサク村(0940〜1102)−昼食(1210〜1300)−オリャンタイタンボ遺跡(1340〜1440)−電車(1508〜1640)−ホテル着(1650)−夕食(1900)
                                          マチュピチュ・イン泊

4−1 朝
 夕べははしゃぎすぎたが、ぐっすり休んだせいか朝の目覚めは悪くない。
 朝靄がかかっているようで外も気持ちがよかった。朝食を済ませてから少し中庭を散歩し、その後そこでインターネットがつながることを知ってパソコンを持ち出して遊んでいた。するとやはり今時は皆パソコンを操るのか、数人が集まってしばしパソコン談義。旅の記録を作っているという二人にアドレスを教えてもらった。
 こんな閑静なホテルなのだが、教会(この教会はたぶん日本風に言えば結婚式場付属のようなものか?ホテルの中にあった。)の前にはしっかりとお土産物を売る店が出されていた。ホテルの店も既に開けられていて、皆働き者だ。

4−2 ピサク村へ
 今日は移動距離の長い1日になる。下に今日の主な移動地点をgoogle mapで示した。大きな地図を出して、拡大してゆくとそれぞれの詳細がわかる。またこの画面では掲載していない写真もあわせてみることが出来る。
  頂上に雪を抱いたベロニカ山(5700m)を見ながらホテルを出て、しばらく走ると道の両側には、とうもろこしやキビチャ(赤い色をしていて稗のような物・・・前日昼食のフライの周りにまぶしてあったもの)が植えられていた。特にここは、トウモロコシの大産地だそうだ。 大きな地図で見る

4−3 ピサク村 0940〜1102
 ここは火・木・日に市が立てられるというのだが、最近は観光客相手の店が殆どで、昔ながらの素朴な店は減っているという。
バスはようやく1台が通れるだけの狭い道を人を押しのけるようにして走った。ようやく到着した駐車場は既に何台かの車が止まっており、ある程度の広さは確保されていた。
その目の前が地元の市。屋台があったり野菜や香辛料があったりで活気があった。品数も豊富で興味を惹かれたが、とりあえずはガイドさんの後についてパン屋へ。
 美味しいという1件目はまだ開いてなかったので次のパン屋へ。他の人たちはエンパンダという中にチーズや野菜の入っているパンを買って食べていた。そこにクイも飼われていた。クイというのはモルモットなのだそうで、見た目とても可愛い。これが食べると美味しいというのだ。レストランでは注文があってからまる焼きにするとか。考えただけでも可愛そうな気がするが、一度は食してみたい気もある。
 その後自由時間になった。ただこの辺りは土産物ばかりで、しかもきちんと店を構えているので、市とは関係ない。そう思ってまたさっきの広場へ戻った。
そこでチリモヤという果物と香辛料を2つ買い込んだ。合計4ソル也。それからお土産を求めてふらついた。一つ可愛いのがあったので購入しようとしたが値段が折り合わず止めた。ここでは、じゃあいらないという手法はあまり通用しなかった。
 その後安い水があるというのでそれを購入してバスに戻った。高地順応の水は必須アイテムだからだ。
途中バスの中から、インカトレッキングの人たちの出発地の近くを通った。戻ってきたのかこれから行くのか、トレッキングスタッフたちはその仕事にに余念がないようだった。我々はちょっともうトレッキングは無理だが、インカ古道という言葉の響きは十分魅力的だ。

4−4 トウモロコシ
 丁度この時期はトウモロコシの収穫時らしく、あちこちの畑で働いている人を見かけた。こちらは近所の共同作業で、収穫するらしい。そういえば、昔、田舎の稲の収穫時にもそうだった。今日は隣の手伝いに行き、明日はうちのを手伝ってもらうというように協力して稲刈りをやっていた。
このトウモロコシ、チチャというお酒に変えられる。トウモロコシを発酵させてつくる白濁酒、つまりドブロクのようなもの。アルコール度はそう高くはなく、農作業の合間にも飲んだりするのだそうだ。その時には、大地の恵みに感謝して、必ず1滴大地にこぼす。
チチャは昔の日本の酒の作り方と同じで、女性が歯でトウモロコシをつぶした上で発酵させる。以前は各家庭でもこしらえていたが、最近はチチャ屋で飲んだり、容器持参で買いに来る人が多いという。そのチチャ屋さん、目印には竹の先に赤い布やビニールをかけて家の前に出しているのですぐに分かる。昼食後の道沿いに沢山見つけた。

4−5 昼食 アルハンブラ 1210〜1300
 オープンテラスのような感じの場所での食事。ケーナなどの生演奏を聴きながらのバイキング(ビュッフェ)。この国ではこうした演奏がよく行われている。
緑の中での昼食で、気持ちよかった。内容的にも充実していたスイーツも充実していた。ここでは本来ならワインをまた一本開けたいところだが、高地のため我慢でビールそれぞれ一本でやめた。

4−6 山に塩田?
 しばらく走っていくと、突然ガイドさんが向こうの山を見てください、と言う。山の斜面に白い部分が見える。あれは塩田ですというのだ。海もないのに?と思っていたら、塩分を多く含んだ水が流れてくるのだという。それを段々畑に流すことで乾燥させ、塩として取り出すのだそうだ。
  マラス塩田といい、1500年くらい前から作っているという。ただし、雨期の4〜12月にかけては作っていないとのことだ。後日日本に帰って調べてみると、なんとこの塩、はるばる日本まで輸入されているくらい有名なものらしい。「マラス 塩田」で検索すると直ぐに見つかった。

4−7 オリャンタイタンボ遺跡 1340〜1440
 インカ帝国は生産の管理と分配の手段の一つとしてインカ道と呼ばれる道路網を整備した。道はクスコを中心に四つの方向(東西南北)に造られ、国中に網のように巡らされ、道にそってタンボという宿泊所が設けられた。そこには旅行者や軍隊など多くの人が泊まり、また食料や武器なども貯蔵されていた。また、支配者が情報を得るためにも利用され、チャスキ(ケチュア語で飛脚)がタンボに待機していた。チャスキは縄で編まれた手紙(4月27日の「2−4−2 考古学博物館」の記述の中にあるミイラの写真の左に掲載した写真を参照されたい)や、王の言葉(これはチャスキが伝言ゲームのようにして伝えた)を携えて往来した。インカ時代チャスキは1日に約280kmを走破したといわれる。これはもちろん一人ではなく、何人ものチャスキがリレーをして伝えたのだろう。このタンボと呼ばれる食泊施設は貢献の人々などもここを利用した。したがって荷物を背負ったリャマが一日に進める距離20q毎に設けられたという。それ故だろうか、1000以上もあったと言われる。
 ところでもう一方のオリャンタイというのは人の名前からついている。それにはこんな話が残されている。
 オリャンタイは、インカの優秀な将軍だったが、時の皇帝の娘と許されるはずのない恋に落ち、ついにはここに立て籠もって反乱のを起こしたという話。何故反逆者の名が付けられているのかは聞き損ねた。ただ、村の入口にこのオリャンタイの像が建っているところを見ると、人民から見ると英雄の一人なのだろう。
 ここは、そういう戦いにも適したところだったのだろう。第15代皇帝マンコ・インカ・ユパンキ(在位1533年〜1536年)もサクサイワマンからこのオリャンタイタンボに退いて立て籠もって戦ったのだ。結局は1538年、ビルカバンバに退却したのだが。

4−7−1 上へ
 まずは見上げるような階段を上る。段々畑(今は芝生のようになっている)が両側に広がるが、ガイドさんによると単なる土留めではないかということだ。何れにせよ、インカの石組み文化が過去にあるぞと言うような遺跡ではある。標高2750mにある遺跡なので、空気が薄い分、一気に上る事はかなりきつかったので、休み休み上る事になったが、則はここでも元気だ。
振り返って向かいの山を見ると、やはりかなり上にも同じように段々になったところや建物が見える。穀物倉庫や見張り台だというが、狭い土地を上手に使っていると言うべきか、わざわざ別の山にそういうものを作るとは用心深いというのか。この山の一部が人の顔に見えるでしょ、ビラコチャという全能の神の横顔なのですよ、とのことだ。
また平地には人の住居があり、カンチャコードという中庭のある家の造りの様子が見て取れた。こういう家の造りはスペインよりもこちらの方が早かったんですよ、とガイドさんは言っていた。スペイン人はこの形を見てどのように感じたのだろうか。

4−7−2 月の神殿
まず10の窓(壁がん)のある神殿、太陽の神殿の入口にあたり、月の神殿とも言う。ここも巨石群の積み石だ。とにかく下から運んできたのだろうが、すごい。と、ここで驚いてはいけなかった。
前は切り立った崖になっているので石によりかかるようにして周りの景色を見る。今上ってきた段々がとてもきれいに整備されている様子がよく分かる。一段一段、一つ一つの石を組み合わせて崩れない様に組んでいる技術に、改めて凄さを感じるが、これがマチュピチュへつながっているのだと思うと、マチュピチュへの期待感が益々高まっていく。

4−7−3 太陽の神殿
 更に上って、太陽の神殿へ行く。こちらは一枚岩で6枚が立ち並んでいる。これは赤色灰岩というのだそうで、右から2番目の物が一番大きく40トンもあるのだそうだ。ここでは、カミソリの刃を通さない構造ではなく隙間に小さな石が詰め込まれていた。これは耐震用では無いかという。
この石には、彫り物がなされていた。といっても説明を聞きながらよく見ないと分からないのだが、一つはインカクロスと言われるチャカナの形。3つもある。これは聖なる紋章なのだ。他にもピューマが3体。多分これは、第9代パチャクテク(Pacha Kutiq、英:Pachacuti、在位1438年〜1471年)の時代の物ではないかという。
インカの壁は更に上へと続いていたが、我々はそこから下りることとした。下りは別の道を歩いていったが、こちらもかなりの急坂だった。皆、黙々と足下に注意をしながら下りてきた。

4−7−4 聖職者の居住区
こちらには、聖職者が住んでいたと言うが、土台の石が少し残されている程度でその面影はない。発掘すればたくさん出てくるだろうとのことだが、今のところそうした予定はないそうだ。
ここには、沐浴場がいくつもある。水が豊富なのだ。その中でも、王女の沐浴場がきれいということでそこへ行った。現地ガイドさんが指をちょっと添えて流れを変える(壁面を伝わって落ちるようになる)という手品を見せてくれた。

4−8 オリャンタイボ駅
 5分ほどバスに乗り、オリャンタイタンボ遺跡のすぐ近くにあるオリャンタイタンボ駅へ行った。実は遺跡にいる間も列車の音が聞こえていた程度の距離だ。ただ、駅の前までバスでは行けないというので、近くの駐車場から歩いた。
 スーツケースとはここでお別れ。マチュピチュにはスーツケースを制限する動きもあると聞く。バスに残したスーツケースだけは先にクスコのホテルへ行くこととなり(2日後に対面する)、我々はいよいよ列車に乗ってマチュピチュへ向かう。やはり高鳴る機体を押さえることは出来ない。まぼろしの空中都市に向かっていざ出発である。
列車はオリャンタイタンボ〜マチュピチュ間乗車距離約35qを約1時間30分かけて走る。駅の入口を通るとすでに少し先の方に列車が止まっていた。な、なんと一両編成!だった。改札があるわけではないので、すぐに近くに行って写真を撮った。なかなかきれいな列車だ。

4−9 列車名:「ビスタドーム号」  A号車23,24 1508〜1640
 ビスタドーム号は、天井の一部がガラスになっていて上が見えるようになっている。狭い道になると山が迫ってくるようで迫力がありますよと言われた。
乗るときに切符とパスポートを示す。座席は最初くじ引きというようなことを行っていたが、時間もなかったので、手配会社が勝手に決めた席をくじとしてそのまま座ると言うことになった。左側の席がよいと聞いていたのだがどんぴしゃり。でも、空席があったので、則は右側の座席に動いた。
のどかな田園風景の中を走り続ける。少しするとパンと飲み物の軽食が出た。あまりお腹がすいていなかったので、順は飲み物だけにした。
しばらくすると川沿いに走るようになる。川の流れを見ると上流から下流に向かっている。かなり激しい流れだ。
また、何度も列車とすれ違うのだが、すれ違う所以外は単線なので、双方の列車が出合うまで待ち、その都度係員が下りて先に到着した乗務員が手動でレールの切り替えをする。その後再び切り替えて、やおら発車する。なかなか大変だ。
いつの間にか眠くなってしまって、一休みした後目を覚ますとダムが見えてきた。もうすぐ到着とのことだ。

4−10 ホテル Machu Picchu Inn Hotel 205号室
 駅前はお一大お土産物マーケットになっている。そのお土産屋さんの中を通り抜けてメーン通りに出るとすぐにホテルだ。この道はかなりの坂道。階段も多く、伊香保のような感じだ。それだけではなく、川に面して建っている建物の様子など、本当に日本の温泉町にそっくりだ。ホテルは駅から一番近いホテルだった。
ここにもロビーにお茶類がおいてある。勿論コカ茶を飲む。
 ここのホテルも2階建ての建物が何棟かある。ただ、昨日のように広い敷地の中に分散しているのではなく、階段を上がると次の建物につながっているという山にへばりついている土地柄を利用した構造になっている。左の写真の黄色い建物がホテル。こんな構造になっている。
 夕食までしばらく時間があったので、温泉の下検分を兼ねてそちらへ行ってみようとしたのだが、地図の読み取りがうまくできなくて行き着くことができずに結局大回りをしてホテルへ戻ってきた。途中(ホテルから直ぐ)でインフォメーションに寄ってマチュピチュの地図をもらったが、モノクロだった。食事の時、カラーを持っている人がいたので尋ねると、同じ所にあったという。食事のサービスに時間がかかっていたので、再度行って見ると、それは国の方で出しているので後ろに回れとのこと。指示されたところに行くと、机の上に最後の一枚が置いてあった。(こうして手に入れた地図だったが、実は遺跡の入り口にで配布されていた。)

4−11 夕食
 今夜の夕食はチョイスできるようになっている。ということで、
 則・・キヌアスープ、チキンステーキ  順・・コーンスープ、ビーフストロガノフ
を選んだ。


2008年5月31日追記:
 オリャンタイボからマチュピチュへの列車からのスナップを作成しました。