2008年5月2日(金)

▲起床(0430)−朝食(0500)−ホテル発(0630)−ララヤ峠(0945)−昼食(1112〜1200)−シュスタニ遺跡(1350〜1450)−ホテル着(1550)−ティティカカ湖(1605〜1735)−夕食(1830)
                                       プーノ/リベルタドール泊

7−1 朝 0430
 昨日遅かったのだが、朝は普通に起きた。と言っても、4時30分。いや、昨日の疲れがあるのに、さっと目が覚めるということは、まだまだこういう旅行が続けられるということだろう。
 順は足が痛いと言い始めたが、則は、全く感じないという。まだ年寄りのせいで出ないのか、若いので堪えていないのか。
 5時から朝食、これもきちんと食べた。
 この日の行程は下記の通り。 大きな地図で見る

7−2 バス発 0630〜
 バスが出発するとすぐにおじさんが乗り込んできた。このおじさん、実は地図を売り込みに来たのだ。バスはお構いなく発車。この地図、ここからウロス等周辺までの地図ということで、我が家はすぐに買い込んだ。他にもこの地図は何名か買っていた。一あたり売り終わるとおじさんは降りた。
 さて今日は移動距離が長く、約380km。ひたすら走るだけなのだ。最初にクスコの飛行場脇を通り、いくつもの村々を通過していった。
 いくつかの村をすぎ、パンで有名というオロペサ村と言うところでバスはちょっと停まった。そこで大きなパンを購入した。顔よりも大きいそのパンは美味しいですよ、と言うお勧めのパンで、現地ガイドさんが購入し、みんなで分け合って味見した。まあ、普通のパンだ。蜂蜜か何かが練り込んであるのかほのかに甘いものだった。
 それからまたひたすら走り続けた。

7−3 休憩 サンパブロ 0835〜0855
 トイレ休憩の場所はお土産屋さん。門が閉まっていたのだが、バスが行くとそこを開けて中に入れてくれた。中には他の日本のツアーも来ていたことから見ても、ここはそういう人たち用の店のようだ。品数は多かったが、値段は高くて我が家の貨幣価値では手が出なかった。 
 中庭ではアルパカやビクーニャ(左写真)、リャマなどが飼われていた。

7−4 ララヤ峠 4335m  0945
 ビクーニャの本物(といってもバンビ)を見てから再びバスは走り出した。
 バスは高原地帯を走って次第に高度を上げてゆく。程なくして我々の視界の中に村のあちらこちらに鮮やかな水色の小屋が入ってきた。家々の数と同じだけ、いやそれ以上にある感じ。のどかな田舎の村の風景を描いていたのだが、そこに水色のペンキを誤ってポタポタと落としてしまったような感じでそれは点在していた。それはトイレだという。フジモリ政権下で、農村の衛生状況の改善のために設けられた施策だという。今も鮮やかな色をしているところを見ると、利用は行われているように思われた。
 まもなくララヤ峠。高度4335(別の表記では4338)メートル地点。今回の旅の最高地点だ。写真の指で、その高度を表現しているのが見て取れるだろうか?だが、そう息切れ動悸などは感じなかった。もう高度になれたということか。
 そこで記念撮影。ここは観光ポイントになっているらしく、お土産屋さんが出ていた。遠くには氷河も望むことが出来た。
 そこを出ると、しばらくアルティプラノというパンパ(平原)を走る。水場があったり、アルパカなどの放牧があったり、のどかな風景が広がっていた。道は舗装されており、バスも快調に走る。しかしまだまだだ200キロは残しているという感じ。

7−5 昼食 1112〜1200
 レストランの一角を借りておにぎり弁当を食べた。おにぎりは、日本人のコックさんが作ってくれたという触れ込みのお弁当だ。それはそれなりに美味しかったが、レストランを借りて食べるのならそこでも良かったのに、日本食にこだわる、これも旅行社のサービスの一環なのかな。ただ、このレストランの借り賃として一人一人が飲み物を注文するように促された。何か変。

7−6 村の祭り 1330
 シュスタニ遺跡の手前の村で、丁度お祭りにぶつかった。道をふさがれてしばらくバスはのろのろ運転になった。
 きれいに着飾った大勢のおばちゃん達が同じ方向に向かって走っていたのが、気持ちの高ぶりを伝えているようだった。こちらは秋から冬への時期、おそらくは終アックを祝う祭りの時期なのではないだろうか。ともかくこんなに人がいたの?と思うくらいの人出だった。

7−7 シュスタニ遺跡  1350〜1450 約4,000m
 アイマラ語でシユス=爪 タニ=滑るという意味。インカ帝国より古いプレインカ文明からインカ時代に造られた石塔墳墓(チュルパ)。王の墓地なので住居跡はない。

7−7−1 チュルパ
 原型を留めているのは6基のみ。全てのチュルパには東側に出入り口があり、冬至の日に日が差し込み、死者が蘇ると信じられている。
 中には(プレ)インカの石積み技術を駆使した高さ12m、円周7.2mの大きな石塔墳墓もある。ただ、これは雷に打たれて約半分になってしまっていたが、残された部分にトカゲ(雨の象徴)の彫り物が施されていた。
 これらの墓には、王と共に、リャマや金・銀・装飾品などの埋葬品、召使い(生贄)なども収められた。つまり、王が次の世でも困らないだけのものを一緒に埋葬したということだ。ただ埋葬品の中の金銀など高価なものは、やはりここでも全部スペイン人に持ち去られてしまったとのこと。ここでもスペインの爪痕を感じずにはいられない。
 足下にある沢山のかけらの中から、白いものは骨、ガラス片のものはセラミックで、当時のものかも知れないと説明があった。我々は人骨の上を歩いている?

7−7−2 太陽の神殿と月の神殿
 やはりここにもこれらの神殿があった。 太陽の神殿は、北東35度に向いている。今は円を作っている小さな石のみが残されているが、当時は大きな石と屋根で覆われていたそうで、やはり冬至の日には太陽が差し込むようになっていたそうだ。
 生贄の台もあり、主にリャマなどの動物を捧げていた。
 入り口の階段は3段になっており、上から空(コンドル)・地上(ピューマ)・魂の世界(蛇)を表している。 写真右は入り口で、冬至の日の太陽の方角を向いている。三段になっているのもわかる。
 隣にある月の神殿はやや小振りで、同じような作りになっていた。水を張って水に映った天空を見たという。写真左は、手前が太陽の神殿で後方が月の神殿。

7−7−3 ウマヨ湖
 目の前に見える湖は、ウマヨ湖という。チチカカ湖よりも10mほど高い位置にあるが、その成立過程や性質は同じようなものだという。そこにテーブルマウンテンのような島があり自然保護地域に指定されている。野生のビクーニャがいるからだとのこと。それを保護するために二家族が住んでいて、密猟者は撃っても良いという許可もある。対岸からその家族の家も確認できた。

7−7−4 当時の階段
 見学を終えてバスへ戻る階段は、インカ当時のものだという。丸くステップは削られており、かなり注意して歩かないと特に下りなので危ない。
  その途中に大きな渦と三角の先のような絵が彫られていた。三角はシュスタニ半島(ウマヨ湖につきだしている半島)、渦はへび(雷の象徴)だという。自然の驚異のシンボルなのだろう。

7−8 ホテル Libertador Lago Titicaca Puno Hotel 328号室
 再びバスは同じ道を少し引き返す。我々が引き返す頃には、さっきの祭りは終わってしまったらしく、たいして今度は渋滞することなく祭りのあった町を通過した。しばらくするとチチカカ湖が見えてきた。遠望すると白亜の建物が半島上に突き出た土地に建っており、そこがホテルだった。町を横断して、ようやくホテルに着いた。と言ってもこの後すぐにウロス島観光へ出かけるので、部屋へは入らずに荷物だけ置いて外に出た。太陽とのかけっこの観光だ。
 ホテルの目の前が船着き場ですといわれて、すぐかと思ったらかなり階段を下っていく。昨日の名残りの足の痛みがかなりつらかった。

7−9 チチカカ湖  1605〜1735
 まずは小さな船に乗ってチチカカ湖を島に向かってこぎ出した。我々の団体で貸し切りだ。
 中にも部屋はあるのだが、我々は当然上に行く。トトラが群生している中に水路はきちんとできていて、船はそこを行き交う様になっており、戻ってくる何隻かとすれ違った。
 ここには、ととらを積み重ねた島が42ほどある。90%が観光で、10%が魚釣り、鴨などのハンティングなどで生計を立てている。
 いつ頃からこのように住み始めたかは不明。元々は山に住んでいた人々が、他民族に追いやられて、始めは船を造って住んでいたという。1545年には、もう今のようにして生活をしていたようで、このことはスペインの記録に残っている。

7−9−1 上陸
 船を待つように一つの島から民族衣装を着てきれいに着飾った女性達が手を振って呼び込んでいた。と、我々の船はその島へ着いた。
 ウロス島へ行くというのでもっと大きな島かと思っていたが、6家族十数人が住んでいるだけの島だった。というか、こうした島々を総称してどうもウロス島と呼んでいるらしい。でも、この先ボートで行った島には1000人、他にこの辺りの島に住んでいる人も合わせると、約3000人の人がいるのだという。
 船から下りて一歩目、ふわふわしているが、足下がおぼつかないというほど不安ではない。が、歩きにくい。
 すぐにトトラで作られたベンチに腰をかけて、ここでの生活についての説明があった。
 まずこういう島の作り方。トトラの根をユーカリの杭とロープでつなげ、その上にトトラを重ねていく。2〜3mの暑さになる。更に碇のように杭を打って島が動かないように固定している。これを作るのに6〜8ヶ月はかかり、20〜25年は持つ。
 島を作るのは村長に申し出れば自由なのだそうだ。古くなったものはそのまま放置してしまうが、いずれ朽ち果てるのでそれで構わないとのことだった。
 電気はバッテリーを使用してまかなう。ただ、テレビ用にはソーラーパネルを使っている。飲み水もトイレも島周辺の水を使う。水は常に流れているので不潔ではないという。
 学校は別の島にある。郵便なども届く。要するに我々の生活と変わらない。
 家もトトラで造られており、一つの家を見せてもらったのだが、トトラのベッドが一つあるだけの簡単なものだった。煮炊きは外のキッチン(と言っても簡単な竈があるだけだが)で行う。火を使うが、火事などは起こったことがないそうだ。魚やドライポテト、インカライス、豆などが主な食材となる。
 この全ての材料となっているトトラは皮をむくと食べることもできる。
 その後、お土産を購入してこの島を離れた。別れに女性達が、「チューリップ」の歌を歌って見送ってくれた。歌詞はうろ覚えだったが。

7−9−2 次の島へ
 次の島への移動はトトラ船に乗って行った。期待したのは小さなカヌーのような船だったのだが、2階建ての大きな船でややガッカリ。そこでも、子どもがチューリップの歌を歌って愛嬌を振りまいていた。おかげでチップを取られたが。そうそうこの船に乗るには乗船代が必要で、一人2$だった。
 この島にはホテルがあった。勿論トトラで造ってあるのだが、何棟かが合った。中は、先ほどの島の部屋よりも少し広めで、ベッドもダブルの大きい物だった。他には何もない。
 レストランもあった。営業の店もあり、先ほどの島に比べると島全体が営業用の感じだ。 
こうして観光が終わる頃、日が落ち始めた。
 帰りの船は、夕日を見ながら、夕日観光船となった。うっすらと残る赤い輝きが湖面を照らしてきれいだった。しかしホテルの到着する頃は真っ暗になってしまった。今日はたっぷり移動も含めて観光した感じだ。

7−10 ホテル Libertador Lago Titicaca Puno Hotel 328号室
 部屋は湖に面した部屋になった。と言っても、既に真っ暗で外の様子は伺い知れなかった。夕食は二人だけの席だった。のんびり食べたが、高地なのでビールでまたもや我慢であった。今朝も早かったが、明日も早いので、夕食の後は熟睡。