2008年5月3日(土)
▲起床(0400)−朝食(0500)−ホテル発(0550)−フリアカ空港着(0655)−離陸(0813)−クスコ空港着陸(0843)−離陸(0932)−リマ空港着陸(1033)−リマ市内観光(1108〜1235)−昼食(1330〜1500)−黄金博物館(1537〜1655)−スーパー買い物(1700〜1730)−ホテル着(1815)−ホテル発(2100)−空港着(2140)−出国(2330)−離陸(0044)
8−1 朝
4時に起床。相変わらず早いが、よく目が覚めるものだ。
他のメンバーも具合の悪い人を除いては皆普通に起きてくる。
朝食の頃、徐々に夜が明けてきていたので、すぐに部屋へ戻って日の出を待つことにした。昨日は何処でもいいやと思っていたが、今朝は、湖側の部屋で良かった。
8−2 日の出 0553
出発時刻が迫ってきたが、まだ日は昇ってこない。ギリギリまで粘っていたが、点呼が始まったので仕方なくみんなと合流した。
バスが出発して間もなく、ガイドさんが解説を始めた途中で、それを遮るようにみんなの歓声が上がった。ちょうど太陽がが昇ってきたのだ。
そこでバスは一時停止。日の出の撮影タイムとなった。
8−3 フリアカ空港着 0655 LP 115便 16K・L
リマへ行くにはまたまた飛行機を使うので、チチカカ湖に一番近いフリアカ空港へ向かった。
利用する便はアキレバ空港からの乗り継ぎ便なので、X線チェックの後すぐに搭乗となった。右はフリアカ空港での順さん。飛行機の座席配列は3−3の配列で16番目。窓側だった。
8時5分発の便は、8時13分に離陸して30分ほどでもうおなじみの風景となったクスコに到着。我々はリマまで行くので機内待機。どっと降りたので空いた!と思ったらまたどっと乗ってきた。かなりの人が入れかわった感じだった。
それから室内を簡単に清掃して、50分ほどで離陸。すぐに軽食が出た。1時間ほどで着くというのに、何とも慌ただしいこと。
1033にはリマに着いた。左は飛行機から降りてくる則。
8−4 リマ 1108〜
リマはペルー共和国の首都並びに政治、文化、金融、商業、工業の中心地で、人口約800万人で同共和国最大。リマは植民地時代に建てられた建物が多く残るセントロ地区(1988年12月9日〜1991年12月13日 世界文化遺産に登録)と海岸沿いの新市街に二分される。リマは1535年1月18日にインカ帝国を征服したスペイン人のコンキスタドール、フランシスコ・ピサロによって築かれた。
リマで観光した場所の地図を下に示す。ちょと大きい地図でごめんなさい。それでも空港はこのエリア外です。
大きな地図で見る
8−4−1 サンマルティン広場 1154
ペルー独立運動の英雄(というか南米各国独立の大恩人)サン・マルティンの銅像が立つ。
ドン・ホセ・デ・マルティンはアルゼンチンの将軍だったが、ペルーの独立の時に助っ人に来て独立を助けたのだった。この人の人生は非常に波瀾万丈で、死後南米で再評価されている。
我々はこれを車窓から見学した。
8−4−2 マヨール(旧アルマス)広場 1204〜1235
昼時のせいか、道路はものすごい渋滞で、なかなか進まなかった。
ようやく着いたマヨール広場では、丁度ペルー政庁の前で衛兵の交替式が行われていた。すぐにその音を聞きつけて我が家と数人がそちらへ向かった。
政庁の前の道路は封鎖されて、道路の向こうの柵の中で交替式は行われていた。
楽隊は柵の前に整列して演奏を続け、その前に右と左と両側から衛兵が出てきて交代する。衛兵の隊長は、90度くらいまで足を上げて歩くのが特徴的だ。
それを見ていると、他の人たちが来ないので、しぶしぶ広場の中央に戻ると、そこで人数の点検をしていた。どうしてそんなことをしているのだろう。丁度交替式の行われる時間に着いたのだから、それを紹介してみせるのが観光だろうに。
そんな不満もあったが、人数の確認後自由時間にしてくれたので、また交替式を見に行った。
今度は楽隊も衛兵達も柵の外、つまり道路に出てきたので見やすくなった。が、それもつかの間、自由時間の終わりが来てしまったので、後ろ髪を引かれる思いでその場を去った。
その後周りについて簡単な説明があった。
大聖堂とその隣の事務官の館。大聖堂は、1625年に完成されたもので、寺院内にピサロの祭壇が作られ、フランシスコ・ピサロのミイラが安置されているとのこと。内部はかなり豪華な装飾で飾られているようだが、外観だけ。
サンペドロ教会というところには、ザビエルの遺骨の一部があるという。
8−5 新市街 1255〜
旧市街から30分ほどのところに離れた海岸沿いにある高級住宅地。カジノ、高級ブティック、ホテル、レストラン等が建ち並ぶ。マックもあったりした。
8−5−1 公園
ここはこの地域の観光ポイント。仲よくキスしている像が売り物で、その前で同じポーズで写真を取るのが通例なのだそうだ。ガイジンはそのようにしていたが、なかなか日本人はそこまでは・・・。
8−5−2 昼食 Rosa Nautica 1330〜1500
太平洋につきだした桟橋にある有名なシーフードレストラン。
不時着事故のお詫びとかで、一人1杯ずつ飲み物がサービスされた。我が家は赤ワインを当然のように頼んだ。グラスだが。
ここも美味しかった。シーフードを扱う店は、食材もいいのだろうが料理の仕方も上手だた。
8−6 黄金博物館 1537〜1655
ミゲール・ムカヒという人が個人的に集めたものを展示してある博物館だ。考古学的な知識はなかったので、金に任せてとにかく集められるだけ集めたらしい。その中にはかなりの偽物もあったというが、それでもこれだけのコレクションが残されているのはすごい。
入ってすぐの1階には武器が沢山並べられていた。ピサロのオリジナルの剣や日本の兜鎧もたくさんあった。
地下へ行くと、プレインカのそれこそ黄金の羅列。ランバイエケ金の冠とマスク、プレインカの服、装飾品などがあり、ミイラや骸骨等も並べられている。
ここは撮影禁止なので、写真はない。
8−7 スーパーで買い物 Vivanda 1700〜1730
ここは基本的にお土産屋さんにはつれていかない旅行社なのだが、何故か最近はスーパーには必ずといってい良いほど立ち寄る。
客が喜ぶからだろう。当然我が家も大好きだ。我が家はたいていこうしたスーパーで、みんなに配るお土産を購入する。
ということで、いくつかのチョコレートを購入した。
おまけでワインも購入。いや、こちらが本命だったかも。
8−8 ホテル シェラトン リマ ホテル 1815〜2100
とうとう帰るときになった。まだ飛行機が飛び立つまで時間があるので、始めに泊まったシェラトンホテルで休憩することになった。本当ならもっと時間がとれただろうけど、何しろ道路がものすごい渋滞で、いつ着くのか分からない不安を持たせたほどだ。ただ、運転手がよく道を知っていて、かなり裏道をぬうようにしてどうにかたどり着いた。
着がえやら荷物の整理やらをして時間をつぶした。また昨日則がせっせと作った絵はがきも、文面を二人で書いて完成させた。ちなみに今回の絵はがきは、およそ一週間かかって我が家に出し数全部が無事に到着した。
その間、夕食も自由に摂ることができた。当然のようにウエルカムドリンクもついていたので、ピスコサワー。係の人ももう心得たもので、こちらが言う前に、「ピスコサワー?」と聞いてきた。
8−9 空港で
空港までは30分で着いた。この頃になると車も大分スムーズに走るようになった。
空港についてまず個人でチェックイン。スーツケースの重さはくれぐれも超過しないようにといわれていたが、我が家はどうも心配だ。並んでいる間、あいているカウンターがあったので、みんなそこへ行って自分の重さを量ってみた。我が家は二つとも重量オーバー。事前にかなり厳しいことを添乗員さんに言われていたので、どの荷物を出そうかと話したりしたが、とりあえずはこのまま行ってみようということにした。
ところが、カウンターでは重量など見もせずにどんどん送り出してしまった。さっきまでの不安は何だったのだ。帰りも荷物は成田までスルーなので、良かった。
さて、席の方は、通路側を希望したのだが、アトランタからの便は窓際になってしまった。違うと係員に言ったのだが、それはアトランタの空港で交渉してくれとのことだったので、事実上トランジット時間がない我々にはあきらめるしかなかった。(アトランタからの便では夫婦者は殆ど窓際だったことから、そういう座席の取り方をしていたようだった。)
8−10 リマ〜アトランタ DL 350 31A・B 0044〜
出国審査のカウンターは相変わらずものすごい列。杖をついていた則は、親切な係員にこの長蛇の列ではなく障害者用の短い列に並ぶように誘われたのだが、残念ながら会話が成立せずに、意味が分からないままで終わってしまった。
ようやく23時30分に出国手続きを終えてすぐに機内に入った。その時にも何故か則はほぼ一番くらいに入ったのが、順は拒否されてしまった。大声でそのことを則に伝えていると、係員が一緒かと聞いてどうにか入れてくれた。杖の効果だろうか。乗るときに小さい袋に入った水と軽食を手渡された。
0時44分に離陸。22分発だからほぼぴったりと言って良いだろう。
1時50分頃に簡単に飲み物サービスがあって、就寝となった。
この路線にも日本人乗務員がおり、日本語の案内も行われた。