5.6月1日(金)2/3 ⑨ネセバル旧市街(快晴)
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5-7 旧市街観光その2 昼食まで(1047~1240)
ここでは、昼食までの聖ステファン聖堂を筆頭に、旧市街の教会めぐりをした記録を載せる。
●5-7-1-1 前廊
ここは、元々はマリアの教会と言われたそうで、礼拝堂の入り口にはマリアが手を広げてイエスを抱いている姿が見られる。
この聖母教会が何故ステファン教会になったのかというと、元々別のところにあったステファン教会が壊れたので新しく造ろうという事になったときに、そちらに新しく聖母教会を造ろうと言うことになったからだそうだ。つまりは交換したのです、と言うことだそうだ。
ここの木造の屋根は、後にトルコから守るために付け加えられたのだそうだ。
礼拝堂の方の壁一面フレスコ画で埋め尽くされている。
右側には、キリストがおり、天国と地獄に分けて描かれている。最後の審判の場面も見られる。フレスコ画の顔は大分壊されてしまっているが、これはオスマントルコによるものだそうだ。
●5-7-1-2 聖堂内部
中に入るとここもフレスコ画で溢れている。
キリストの座る椅子もある。いわゆる説教壇とは違って、イエスのために用意された椅子だそうだ。
ここのイコノスタシスも立派な物だ。10世紀には天井に届く高さまであったそうだが、今はその三分の二くらいまでの高さになっているので、奥の壁の上部が見られる。そこにもイエスを抱くマリアが見られる。
イコノスタシスにはイエスやマリア、軍服を着た大天使ミカエルなどいる。
周りの壁には、最後の晩餐やイエスの洗礼、十字架にかけられる場面、奇跡の場面、イエスの生涯などが描かれている。
他にも多くの聖人が描かれているが、聖パノリエスという人は珍しいそうで、こことギリシアの教会にある物と2枚しか存在しないのだそうだ。が、帰ってから調べてもこの人の名前にはぶつからなかったので、どういう人なのかは不明(ギリシャのそことは、アトス自治修道士共和国のことと考えられる)。
面白いのは、逆さまになった柱。6世紀の初期ビザンチン時代の大理石の柱を再利用したからだそうだが、天井を支えるためにはこの方が強いと判断したのだろうということだ。
また、足下に墓標があるが、これはここに埋葬されているのではない。生前の懺悔のためだそうだ。人に足蹴にされることで罪が消されていくのだそうだ。死んでからも罪にさいなまれるとは、気の毒なこと。やはり最後の審判の考えなのだろう。
また、双頭の鷲も見られる。その頭には王冠を乗せているが、ガイドさんによるとキリスト教が二つに分かれたがそれでも根は一つであるということを表しているのだとか。
でも、ウィキペディアによれば、「元々は東ローマ帝国の紋章であり、それが、神聖ローマ帝国とハプスブルク家の紋章となり、更にオーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ国などに継承され、やがてはロシア帝国もこれを採用した。」とあるから・・・その辺りではないかと思うのですが。
5-7-2 聖ヨハネ・アリトゥルゲトス教会(1128~1138)
14~15世紀に造られた教会は、ガイドさんによるとオスマントルコの攻撃を受けて未完成で終わってしまったとのこと。
旅名人ブックスによると「建設されてすぐに十字軍の襲撃を受け屋根が焼け落ちた」とある。確かに14世紀には十字軍に征服された歴史がある。
ブルガリアのオフィシャルサイトには「1913年の地震で大きな被害を受けた」とあるから、それによって更に破壊が進んだのであろう。
いずれかははっきりしないが、とにかく元の形がないほど崩れてしまっているのに変わりはない。屋根の上にはぺんぺん草ならぬ、可憐な花も咲いていて、歴史の長さを感じさせられる。
一部ではあるが、外壁の装飾は綺麗に残されているので、往時を偲ぶことは出来る。
その装飾は、刺繍のステッチのようだ。船の絵も見られることから、船乗りのために造ったのではないかとも考えられるのだそうだ。確かに海に面している。
目の前には長く伸びる海岸線を臨むことも出来る。下では水着で日光浴をしている人もいた。
ガイドさんによると、「ここは昔は陸続きだったが、あるとき黒海に囲まれた島になってしまった。そのことから、ここがノアの箱舟の舞台ではないかという説もある」のだそうだ。
また、この日はブルガリアの子供の日とかで、ステージの方では催し物が行われていた。このステージは、ローマ時代の円形競技場だったところだそうだ。剣闘士による競技が禁止されたあとは劇場になったそうだ。
大音量と共に子供による踊りが披露されていた。
5-7-5 キリスト・パントクラトール教会(全能者ハリストス聖堂)(1149~1152)
第二次ブルガリア帝国の皇帝アレクサンダル治世下の14世紀に建設された教会だ。
石と煉瓦を組み合わせた横縞模様が美しい。ここでも陶器が装飾としてふんだんに使われている。これは黒海沿岸のビザンチン建築の特徴で、ネセバルでも多くの教会にこの飾りが使われている。
赤煉瓦模様の中に卍の模様がある。これは太陽の力を表すシンボルとして用いられてきたという。
現在教会内部はアートギャラリーとして使われ、教会の役割は果たしていない。無料で見られるというので、自由時間にでも入ってみてくださいということで通過。
5-7-8 聖スパス教会(1205~1212)
入り口におばあさんがいてガイドさんと何か話していると思ったら、中に入りましょう、ということになった。
撮影料は4レバ。noriのみとした。
1609年に裕福な市民の寄付により建設された。1611年にキリストの生涯を描いたフレスコ画が施された。
正面のキリストは、明るく描かれているが、それは、キリストが我々を守るという事を表しているのだそうだ。が、その辺りのことは良く分からない。照明が暗いせいかもしれない。
ここは一時モスクとして使用されたために、ミハラブがあり、今ではその中に手を広げたマリアがいる。
また、スペースシャトルの様と表現された絵もある。
5-7-12 聖ソフィア教会(1227~1230)
ネセバル最古の教会で、5世紀後半~6世紀前半のビザンチン帝国時代に建設された。
元々はギリシア時代に造られたアポロン神殿があった。この教会はそのアポロン神殿の跡地に箱形のバシリカ教会として建てられた。
コンスタンチノープルに倣い、聖ソフィアという名がついている。ユスティニアヌス帝はコンスタンチノープルやソフィア同様、ここにも同名の教会を建立したというわけだ。
中央に祭壇があり、その両側に対称となったアーチがある。
かつては内部には壁画が施され、床は色鮮やかな小さなモザイクが敷き詰めていたそうだが、今は外壁が残るのみだ。
そのそばに、5世紀頃のプライベート教会跡と水飲み場が残されていた。ここは王族の水飲み場だそうで、そのことが書かれた碑文もある。