ブルガリア旅行記 プロブディフ

8.6月4日(月)1/2 ⑮プロブディフ

起床(0600)朝食(0700)ホテル発(0900)プロブディフ市内観光(0918~1147)昼食(1154~1305)ホテル着(1811)メルニック観光(1838~1955)夕食(2000~2117)就寝(2230)

8-1 朝

起床(0600)

 noriは早く起きたが、junはやや遅め。まあ、それでもモーニングコールは7時30分だから十分に余裕はある。
 今日も朝から太陽が照っている。また暑い一日になりそうだ。

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8-2 朝食(0700)

 朝食は7時からなので、とりあえずそちらを先に済ませることにした。
 noriは朝からケーキを選び、junはいざというときのためにとバナナを持ち帰りように選ぶ。

bulgaria4480 04 1216.jpg朝のプロヴディフ
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8-3 プロブディフ市内観光(0918~1147)

ホテル発(0900)

 プロヴディフはソフィアに次ぐ人口35万人の国内第二の都市で、紀元前にさかのぼる長い歴史がある町だ。古代ローマ遺跡や民族復興期のハウスミュージアムなどがみられる。
 この旧市街の整備には、日本も協力していて(お金を出して)、その記念プレートもどこかにあるらしい。
ホテルを出発してすぐにバスから降りて、歩いて散策となる。
 バスを降りたところがもう遺跡、という感じだった。
 そこから散策スタート。石がゴロゴロしている、それでも一応石畳・・・の道は歩きづらい。杖をついている人には非常に歩きづらい道だ。
 始めに教会が目に飛び込んできた。新しそうな教会で、まだ綺麗だった。

bulgaria4503 04 1518.jpg雑然と並んだ掘り起こされた石
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8-3-1 ヒサール・カピヤ要塞跡(ヒサルの門)

 ここは旧市街を囲む城壁の東門であった。ローマ、ビザンチンなど各時代に改修を繰り返した。
 この門に続く城壁の上に家が建てられている。2階が倉庫で、3階が住居になっているのだとか。横道を見ると家がジグザグになっているが、城壁が曲面になっているので、それに合わせて造ったせいだそうだ。
 向かい側の赤い家は後で造られた物。これが歴史博物館だと思う。(当館では、たくさんのホールにて、1876年の4月蜂起や1877-1878年のロシア・トルコ戦争などの闘争の最終局面に関する展示を行っています。:歴史博物館のページ)
 が、ガイドさんが話してくれたのはこれにまつわる話。このガイドさんこういう裏情報というか、そういう話が好きだ。
 実は、この両家の若い2人が愛し合うようになり、結婚の許しをもらうために、男は頑張って働きやがてこの赤い家を建てたのだそうだ。ために装飾も頑張ってこのように美しい物になったとか。結局許してもらえたそうだ。
 それから、門を入って右側にある、今は民俗博物館になっている昔の商人の家を覗いた。あいにくと今日は休みということなので、庭にも入ることが出来ず、門から覗いたのだ。1847年に建築された家は、黒い壁に花のような模様が華やかで、3つに分かれた波打つような屋根が美しい。

bulgaria4530 04 1526.jpg歴史博物館
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8-3-2 聖エレナ教会(0930~0947)

 民俗博物館の隣に道を挟んで白い鐘楼が目印の聖コンスタンティン・エレナ教会がある。現在の教会は1832年に建てられたものだが、元々は、4世紀にはあった。
 コンスタンティヌス帝の時代になってキリスト教が公認されたため、その皇帝と母親に敬意を表して教会の名前とした。
 庭にはあじさいの花が綺麗に咲いていた。
 入り口の壁には壁画が描かれていた。
 中に入ると、外見とは違って見事に装飾もなされていて、これまで見てきた教会にひけは取らなかった。
 イコノスタスも立派だった。十字架の下は3段になっている。一番下の右には天国、左には地獄が。2番目にはヨハネやキリスト、マリア、創設者などが描かれている。そして一番上の段には寄贈者達の肖像画がある。商業で発展していた時期なので、かなり豪華な造りになっているのだそうだ。
 特にキリストの椅子は、金がふんだんに使われている。

bulgaria4574 04 1538.jpg外観も美しい
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8-3-4 住宅1 (0948~1005)

 この辺りには豪華な家が多いが、これは、19世紀の民族復興期に建てられたもの。二階や三階が道に向かって突き出しているのが特徴になっている。
 長いトルコの支配から脱して、ブルガリア人の中で国家復興の気運が高まろうとしていた時代の中でこうした建物が造られていったそうだ。
 そんな中に幼稚園まであった。
ボヤジエフハウスは、元々は石の家だったが、その後画家の手に渡った。その画家は、後半右半身不随となったが、左手で描く練習を積んだという人だそうだ。
 その人が、額縁を持っている像があった。
 他にも印象に残るような家が建ち並び、キョロキョロと目を奪われた。
 少し先にやはりスグラフィートという壁を削った絵もあった。

bulgaria4604 04 1549.jpg二階部分が飛び出している
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8-3-5 聖母教会

 更に行くとピンクの鐘楼がある聖母教会が見えた。この教会は、1844年に造られたものだが、民族復興期に、この街には8つの教会が建立、改修された。これもそのうちの一つ。

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8-3-6 ジュマヤ広場 (1008~)

 次に着いたのは、ジュマヤ広場。
 広場の真ん中に大きな穴が空き、カーブした石の階段が地下に見える。3万人は収容できたという、古代ローマ時代の競技場跡だ。ただ、遺跡のほとんどは町の下に埋まっているという。これは、2世紀に建てられたものでデルポイの競技場をモデルにしている。
 広場に面して高い尖塔を持つジュマヤ・モスクが立っている。1371年にプロヴディフはオスマントルコの支配下に入り、モスクは教会の跡地に14世紀に建てられたもの。この街では一番大きな物になる。ついでに言うと、イスタンブールのブルーモスクを造った人はこの町の出身なのだと話してくれたが、それを設計した建築家メフメト・アーはカッパドキア出身なので、誰を指しているのかは分からなかった。

bulgaria4658 04 1609.jpg競技場の端っこ部分
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8-3-7 自由時間 (1020~1100)

 一通りの説明を聞いてから自由時間となった。
 どこへ行こうかしばらくウロウロしていたが、これといった当てもないので、メーン通りを歩いて行った。
 道の両側には像や商店が並んでいるのだけれど、その建物は、洗練された感じで、ようやくヨーロッパの町並み、といった印象を受けた。
 更に行くとガイドさんと添乗員に会った。2人は、郵便局へ行きたいという人を案内していったのだが、結局その近くまで行って解放してしまったらしい。
 が、我々にはこれが幸いして、ガイドさんが日本から送られた像がある公園(多分中央広場だと思う)へ連れて行ってくれるという。先日写真をあげてからこのガイドさんはnoriのことがお気に入りになったらしく、何かと便宜を図ってくれたり話しかけてきたりしていたのだ。
 有り難く付いていくと、郵便局の前の広い公園だった。これまでもいくつか、バスの中から見た公園も広いと思ったが、歩いてみるとそれを実感する。その奥の方にその像はあった。ガイドさんは大阪から、といっていたので全く想像が付かなかったのだが、それは桃太郎だった。ここは岡山と姉妹都市を結んでいるので、納得した。ガイドさんにも岡山であると教えてあげた。
 顔だけの奇妙な彫刻があったのだが、これは、オスマン・トルコから独立した時の首相スタンホロフのレリーフ。

bulgaria4698 04 1639.jpg岡山市が贈った像
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8-3-8 ローマ時代のフォロ跡

 集合場所へ戻る前に、ガイドさんがこの近くにローマ遺跡があると教えてくれたのでそこへ行った。郵便局の裏側辺りだ。
 ローマ時代には、政治・宗教の中心としてフォルム(英:フォーラムの語源)と呼ばれる広場が造られた。現在の郵便局の下にも、実はそのフォロ跡なのだそうだ。
 1世紀のウェスパシアヌス帝時代に整備された空間には、数軒の建物、図書館、硬貨の鋳造所、オデウム(奏楽堂)などが揃っていた。
 始め目にしたところは石がゴロゴロして雑草が生い茂った所だったので、まあこんな物かとガッカリもしたが、更に奥の方を見ると全く様相が違っていた。
 まだ発掘中で、作業している人たちが見かけられたそこは、かなり元の様相が分かる程度になっている。あの柱の辺りには神殿があったのだろうか、などと勝手に空想を膨らませて見とれていたが、集合時刻が迫っているので大急ぎの見学となった。

bulgaria4723 04 1649.jpgローマ遺跡
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8-3-9 集合場所まで

 そこから小走りで集合場所まで急ぐ。
 が、やはり目に付く物は捨てられない。とにかくシャッターを押してみる。
 と、建物の中にちょっと面白い物を発見。
 白い像が建物を支えていた。中に入ってよく見るとその地下が遺跡だった。階段があるところを見るとここも競技場だったところかも知れない。そういえば、ガイドさんが、メーン通りをずっと行ったところにも見えるところがあります。と言っていたが、ここだったのか。
 junは急いでいるので上から見ただけだったが、noriはしたまで行って写してきた。

bulgaria4739 04 1656.jpgこうしたオブジェが至る所に
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8-3-10 再び聖母教会(1106~)

 素通りしようとしたのだが、誰かが見たいとでも言ったのだろうか、5分ほど自由にご覧ください、と言うことになったので、ここがどういう教会なのか良く分からないままに、とりあえず写真を撮った。
 ここでも子供の団体とすれ違った。今がそのシーズンなのだろう、あちこちでこうした子供達と出会う。
 ここから香港の学生だという二人連れが一緒に歩き始めた。

bulgaria4760 04 1708.jpg特徴的なピンクの塔
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8-3-11 劇場へ

 そこからこの町のローマ遺跡のメーン、ローマ劇場跡へ向かう。入り口が見え始める辺りに有名なバイオリニストだという人の像があった。そう言われるとすぐにカメラを向けるのはもう習性と言ってもいいだろう。記録を忘れたが、有名な人らしい。

bulgaria4772 04 1714.jpg遺跡と民家が・・・
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8-3-12 ローマ劇場(1115~1128)

 皇帝マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス(在位98年~117年)によって2世紀に創建された頃は28段あったという観客席は、4世紀の終わりごろ、建物の大部分は火事もしくは地震で失われ、現在残っているのは20段ほどになっている。当時は5000人から7000人の観客が観劇できたと言う。
 ステージ後ろのスケネ(舞台背景)にはイオニア式の列柱が多数残っている。
 現在でもここでは毎年5月から9月までオペラや演劇など様々な催しが行われている。
 暑くてたまらないので、いつもなら舞台まで下りて行ってみるのだが、今回はパス。
劇場の入り口でパンフレットとお土産を販売しているとの情報があったが、全くそれらしい物は無かった。と言うより、店らしき物も見当たらなかった。

bulgaria4782 04 1717.jpg劇場は今も使われている
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8-3-13 住宅2(1129~4453)

 今度は昼食場所を目指して歩く。やはり独特な家のオンパレードだ。
 19世紀の民族復興期の建物だが、かなりの部分は復元された物だそうだ。中には現在はホテルとして使われている家もある。
 「ラマルティーヌハウス」という家がある。この家は、出発前に調べた資料にも必ず登場する家なのですぐに分かった。1833年にフランスの詩人ラマルティーヌが滞在したため、持ち主ではなくこの人の名前で呼ばれている。
 元メブラーナ教団の本部だったという建物もあった。元はフィリップ2世時代の建物だった、17世紀に金持ちの手に渡ったのだとか。現在はレストランになっている。
 それから、コンスタンティヌス帝と母エレナのための教会跡が残っていた。その前の円形の所は見張り塔だったそうだ。鉄の門の後ろに兵がいたのだそうだ。(最後の写真)
 レストランの手間で、グループの人たちから、「香港の学生がずうっと一緒に付いてくるのはおかしい。さっきのローマ劇場だって入場料を払わずに我がグループのような顔をして入ってるし、ガイドさんも彼らのために別に説明している。そのため余計に時間もかかる。」と不満が出て、ようやく離れていった。
 ガイドさんによると道が分からないというので親切にしてあげた、ということだったが、二人で観光に来ているのにそんなことはあり得ない、うまくやられたのだという声の方が多かった。
 この辺りも、このガイドさん、まだプロになりきれてないなあと思う。

bulgaria4819 04 1730.jpgラマルティーヌハウス
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8-4 昼食 ALAFRANGITEにて (1154~1305)

 入り口なかなか小洒落な店だった。
 門を入ると中庭形式の庭にテーブルが並んでいた。かなり混雑していたが、そのすべてが日本人の団体。要するに日本人御用達の店だった。JTB、阪急、クラツーなども利用していた。
 メニューはトマトスープ、ムサカ、イチゴのデザート。ムサカとは、挽肉とじゃがいものグラタンのような食べ物。結構口に合って美味しかった。デザートは、イチゴアイスクリームだと言うことだったが、口にしたときにこれは違うと思ったが、また添乗員が間違えたのだろう程度に考えていたら、他のテーブルは違う物が出てきていた。そこで間違えて配膳されたことを知った。
 その後正しいデザートが出てきたので、得した。
 ビール大5レバ×2。
 このとき、気温が30度になってると教えられた。身体がまだこの気温になれていないので、グダグダだ。

bulgaria4861 04 1801.jpgレストラン入口
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8-5 名残は尽きねど (1305~)

 食事を終えて、いよいよこの街ともお別れだ。
 古い住宅がなかなか見応えがあった。同じような建物はこれまでにもいくつも目にしてきたのだが、やはりここは復元したりしてかなり人の手が加えられていると言うこともあるのだろう。観光地として、それなりの整えられ、観光客の鑑賞に応えられるような町並みになっていた。

bulgaria4886 04 1914.jpgモニュメント
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