2010年11月14日(日)
2-1 朝
朝食(0700) ホテル発(0900)
5時頃に目を覚まし、すぐに風呂に行った。既に人がいた。が、ここの浴場はとても広いので、窮屈になることはない。ただ、洗い場の数が少ないのが難点。なぜか皆洗髪するので、一人の占領時間が長いので、そこにだけ人のかたまりが出来る。
今度はやや明るくなってきていたので、露天にも出てみる。こちらの方が温泉っぽい色をしている。温度もやや高めだが、空気が冷たいので気持ちがいい。目の前には檜原湖が広がって見える。
これで他に人がいなければ写真でも撮るのだが、さすがにそうはいかない。
それからいったん部屋に戻ってゆっくりした。
その後また入浴。出発がゆっくりなので、こういうことが出来る。
その時、junはガラスにへばりつくようにして外を眺めてみると男湯の露天が見えたのでびっくりして戻るときに滑って転んでしまった。確かに滑りやすいので注意、という注意書きはしてあったが、誰も滑ることなく自分もそういうことがなかったので油断した。確かに滑る床だった。やや膝を痛めた。
それから部屋には戻らずに朝食へ行った。既にほぼ満席の状態だったが、端の方に席を見つけて食事することが出来た。
部屋に戻ってから荷物をまとめて、会計を済まし、少し散歩に出た。
磐梯山が綺麗に見えた。
目の前に五色沼の入り口があるので、そちらへも行ってみた。柳沼へ行ったが、紅葉は既に終わったようで、あまり綺麗ではなかったので、先へ行くことはせずに戻った。
2-3-3 第三会場
第三会場は、「安達ヶ原」の二本松に伝わる話。
「昔、京の都に、いわてと呼ぶ老女がいて、可愛いお姫様のお世話をしていた。ところが、お姫様は、大きくなっても口をきくことができなかったので、医者にみてもらったがどうしても治らなかった。今度は、占師にみてもらったところ「お腹の中にいる子どもの生肝を飲めば治る」 と教えられた。
いわては、生肝をとるために、京都を出て、奥州まで下って来た。
阿武隈川のほとりまで来て、いわては、生肝をとるのにちょうどよい場所を見つけ、そこに棲みついた。
或る晩秋の寒い日のこと、若い二人の男女が、宿をこうて訪ねて来た。この二人は、生駒之助、恋衣という夫婦で、「泊まる所がなく、この寒さで困っております。それに、恋衣の腹には、子がおりますので・・・」とのことであった。いわては、この話を聞いて、喜んで、泊めてやることとした。
その夜のこと、恋衣が、急に腹痛をうったえだしたので、生駒之助は、急いで薬を求めに出かけていった。
いわては好機とばかり、台所から出刃包丁を取り出して、恋衣の腹をさいた。
恋衣は苦しい息の下から「私は、母を尋ねて歩いております。心当りの旅人がありましたらお話し下さい」と語って、息絶えた。恋衣は、いわての娘であった。
知らなかったとはいえ、自分の娘を殺し、孫を殺したので、苦しみに苦しみ続けたいわては、遂に発狂して、鬼婆となったのだという。
しばらくたって、熊野那智の東光坊の阿闍梨祐慶という僧が、この鬼婆の住む一軒家に宿を乞うた。
その夜は寒い夜だったので、鬼婆は薪を採りに出かけることになったが、その時「ここをあけてはいけないよ」といって出かけていった。見てならないと言われれば見たいのが人情で、祐慶は、そこを覗いて見て驚いた。そこには、血に染った屍や、朽ちはてた人骨が山をなしていた。「ここに泊まったのでは殺されてしまう。婆の帰らぬうちに逃げよう」と思った祐慶は、旅支度もそこそこに、一軒家からとび出した。
そのあとに、帰って来た鬼婆は、祐慶が逃げ出したことを知り、「逃がしてなるものか」と、追いかけた。
祐慶は、だんだん追いついてくる鬼婆をふり返ってみて、「叶わじ」と心を決めて、一心に如意輪観音に祈ったところ、不思議や、如意輪観音の尊像が天空にあらわれて、破魔の真弓に金剛の矢をつがえ、鬼婆を射たので、鬼婆は、その矢のために命を失った。この鬼婆を葬った塚が黒塚である」
という話を場面ごとに菊人形が出てきて進めていく。10分ほどの話にまとめられているのだが、引き込まれるものがあった。
これは歌舞伎などの演目にもなっている。
2-4-1 蛇の鼻御殿
ここにある蛇の鼻御殿(登録有形文化財)は、豪農伊藤家の別荘として、明治末期に十年の歳月をかけて造られたもの。建築に用いられた材質は現在では入手困難と言われているほど貴重なもので、よく見てくださいとのことだ。他にも伊藤博文の書や狩野常信の絵などが全6室にわたり残されている。
ここだけは玄関先まで案内されて説明があった。その玄関の彫り物も見事だった。昇り龍と下り龍との説明があったが、これはどっちがどっちか分からなかった。また、横に眠り猫があって、この人にとっては東照宮のものよりもよいとのことだった。
後は自由見学。写真は無断撮影禁止と書かれていたので、断ればいいのかとjunが聞いてみると、よいとのことだった。
そこで、ゆっくりと御殿の中を見学した。ここには、名だたる人の書がある。また床の間に使われている床柱や床板など、珍しいものが使われているという。
玄関を入るとまずは、観音様にお参りをしてから中に入った。
その隣が鷺の間。そこに伊藤博文の「雲物寄遊観」と書かれた書が掲げられている。
次の部屋は鹿の間。ここの床の間は、床柱が白檀、床板は黒柿、落としがけはザクロが使われている。ここの書は、三条実美の「親仁善隣」。
続いて2階へ行こうと思ったが、他の人がそちらへ向かったので、我が家は蔵の方へ行った。
この2階部分には2部屋があり、黒柿の階段を上がっていった部屋が黒柿の間。部屋のあちこちに黒柿が使われている。ただ天井は白柿。これが一般的な柿なのだそうだ。床の間の富嶽の図は下村観山によるもの。
その隣は、襖の絵が梅模様であることから梅の間と名付けられている。四季の梅を表している。ここでは、黒柿、白柿、床柱の花梨、床板の桑など狭いながらも、造りは贅沢な建材を使っていた。また、床の間の落としがけは山葡萄のツタで、推定樹齢が600年と言われる大変貴重な物だそうだ。
それから本館の2階へ行った。こちらも2室ある。
老松の間の襖絵は狩野派による物で、老松が描かれている。ここの床柱は枇杷。落としがけは黒柿。この部屋には木戸孝允の書がある。
隣が千鳥の間。老松に比べると天井が一段低くなっている。上座と下座を区別するためだ。この部屋の襖に描かれた千鳥も狩野派の手による。この図柄は皇居と同じであるため、そちらより千鳥の数は1羽少なくなって99羽。
2-4-2 サザンカの道
一通り見て回ってから、庭の方へでる。何種類もの木々が手入れされて植えられていたが、気持ちとしては紅葉を見に来たのに・・・というものが強かったので、素通りした。
庭を出るところにようやく真っ赤なモミジがあった。鮮やかな赤色でちょうど見頃だった。日が差していればもっと色鮮やかになるのだろうにと思いながらも何枚か写真を撮った。思うような色には撮れなかった。
更に矢印に従っていくと、サザンカの道に出た。
東京で生け垣に見るのとは違って、大木だった。こんなにも大きく育つとは知らなかった。花もピンクや白が混じっていて綺麗だったが、あまりにも大きすぎて下の幹ばかりが目に付いてしまった。
が、それは一部しか見ていないせいで、サザンカ展望所という所から全体を見ると、ちょうど見下ろす形になるので、花が前面に押し出されて見栄えがした。
2-4-3 紅葉道
更に先へ進むと、バラ園があった。こんなに寒いのにバラの花が沢山咲いていた。
その手前辺りから真っ赤な紅葉が目に付くようになった。こちらへ来なければいけなかったようだ。途中で寄り道をしすぎた、と思いながら、目に付く赤の中へ入り込んでいった。
池があってその周りが赤で染まっていた。しかもその道のりが結構ある。すごい、を連発しながら見て回った。
最後の方には時間が足りなくなって、やや急ぎ足になった。時間の配分を間違った。
はじめに1時間半もあると思ったのが間違いだった。我が家はお昼も食べずにいてこれだから、昼食を注文して食べた人たちにとってはもっと短いと思ったかも知れない。
が、しかし、バスに戻ったのは、またもや最後の方だった。