第二次世界大戦以降の日本における最大の危機
3.11
noriは未だ仕事をしていた3月11日にそれは起こった。いわゆる帰宅難民の保護を行いながら、思ったのは、「自分の人生の中で今日のような日が訪れることを想像できなかった」ということだった。
不眠での保護活動の中でも気になったのは、原子力発電所の動向だった。地震と津波は日本人にとっては経験のある災害である。もちろん未曾有の規模にそれは達したが、そして今なお混乱は続いており、今年度中に被災者が自宅へ戻れるという保証もない。ただ、日本という国にとって全くの未知数のモノではなく、未知数という意味ではその甚大さにおいて未知数なのだという点であろう。
しかし、今回の原発事故は過去の原発事故とは全く性格を異にしていた。いやこれまでの世界の原発事故とも異なっていた。自然災害による原発の停止破壊というのは、全くの未知数分野のことだった。もちろん耐震設計がいい加減であったと言うこと、それを許諾した湯治の政府の責任は免れまい。また現政府の出し惜しみの情報、そしてマスコミの大本営発表しかしない態度、非難されつぃかるべきだろう。このように輻輳した、今なお進行している事態は、より深刻で、より憂慮すべき事態を招いている。
さまざまな経済活動に大打撃
日本中が節約志向に一気に入ったのも事実だった。観光産業にとってもそれは手痛い事態だった。統計的なモノを知り得ないが、直接あるいは間接、つまり破壊をあるいは原発被害を受けてしまった地域や風評被害の広まっている地域をのぞいても、その状況は深刻なモノであるに違いなかった。
それを今回の旅行は強く印象づけた。
急に日本中で標準語になった、シーベルトだが、甲府の測定値は震災以前も以降もほとんど変わりは無い(ちなみに今回の旅行は3月には決めていたのでこのこととは無関係)。しかしながら、ひとつは自粛ムードで、自ら減速を招いていることも要素となって、観光客とおもわれる人々がほとんどいなかった。ホテルでも、大型観光バスはいなかった。
しかしながら、その一方で立ち直りつつあるとも感じられる部分もあった。それは石和→新宿の高速バスに乗って帰ってきたが、石和のバス停でバス会社に連絡した際、残数は16という答えをもらったときだ。もちろん石和でも、あるいはその先のいくつかの停留所でも、予約していない客は何人か乗車したので、まぁまぁの乗車率であった。底流で、全く人の動きが止まっているわけではないとも感じた。
特に産業の復興なくして、再建はない。着実に事態を改善しつつ、復興への足がかりをつかんでもらいたいものだ。