第8日目(2004年4月1日)
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《ペトラ クラウンプラザホテル》
○出発(0830) |
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○オベりスクの墓(0845) エジプトの影響というオベリスクの墳墓。かなり風化しているが、2階建ての岩窟遺跡だ。 こんな所にどうやって造ったのだろうと思ったが、この程度のことで驚くのは早すぎる。 |
○シーク入り口の門(0850) いよいよシークにはいる。ここでチケットをチェックされる。シークは岩山の裂け目というので人がようやく歩ける程度かと思ったら、思ったよりも広くて、馬車も通っている。 |
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右の写真は、シーク入り口の右方向のものだが、人がいる位置が現在のグラウンド。中央部に見えるのが保護するために掘られた水路で、かつてはこの位置がグラウンドであったという。 つまり、我々が歩いたシークの道というのは、古代から比べると約6メートル高い位置に存在したことになる。 |
左の写真は旧約聖書の聖書の十戒を表すという。日本の道祖神のような感じでおもしろい。それぞれがどれかという質問には、例えば「汝殺すなかれ」がどれだというようなことではなく、単なる象徴のようなものだという、返事であった。 | |
両側の切り立った壁は面白い模様をしていた。ミネラル分の異なるためにいろいろな色があるのだという。ガイド氏はそれを発見したのは自分だと何度も自慢をしていた。また、自慢の一つにとんがって飛び出している岩を、「これはイルカだ。それを発見したのも自分だ。」ということがあった。そう見ればイルカに見えないこともない。 |
もう少し行くと、ラクダを連れた隊商の列の彫り物がある。といっても、かすかにそれとわかる程度しか残っていないが、そう思って見るので、ラクダの足も、その主のナバテア人も見える。写真の上部のふくらみは、ラクダのお腹の部分だと解説された。この部分は、結構有名な箇所なので、いろいろな写真でおなじみのことだろう。 | |
また右の写真は、ナバテア人の足の部分の拡大したものだが、今日のサンダルのような履き物を履いていたことがわかる。裸足ではなかったわけだ。 | ここで重要な点は、これらは約六メートルの高さにあった言うことだ。この道の下にも何かあるのかもしれない。 こうしてシークの奥へ、奥へと我々は進んでいった。いつ見えてくるのか、もうすぐでは・・・でも、結構エルカズネまでの道は遠かった。 |
○エルカズネ(0920〜0953) そしてとうとうメーン会場に到着。細い隙間からそれが見えたときには、興奮して、これまで何度も目にしたのと全く同じ角度からの写し方をしていた。やはり黒い中にそれが浮かび上がる姿は、感動的だ。幾人もの人がその写し方をする気持ちがよくわかる。 そのオレンジ色をした全体像を目にしたときはしばし立ちすくんでそこからのオーラを受け止めていた。 とにかく大きい。高さが41mもあるそうだ。岩に彫りつけられているこの建物、装飾はどうやって施したのだろう。昔の人の知恵というのはすごい。 |
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中は映画のように奥が深いのではなく、ただだらんとした暗い部屋があるだけ。しかし縞模様は不思議な感じ。 | |||
また、最近(六ヶ月前?考古学生によって?)更に下に部屋が見つかった。今は発掘途中で、網がかぶせられているが、このことからも、ペトラのシークの本当の道はまだ埋まっている下にあることがわかる。発掘してその全貌が明らかになるのは、これから先を待つことになる。ここはやはり外から全景を見て、そのスケールの大きさを想像してみるのが一番だ。 | 埋まっていた地下部分。 つまりこの遺跡は二階建てではなく、三階建てだったということになる。 |
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ここで引き返す人たちが多いというが、我々は更に奥を目指す。アウターシークというのだが、先のシークのように閉ざされた感じはなく、開けている。 |
○一般の人の家(1000頃) 始めはたくさんのお墓?家?。たくさんの穴が開いている。 また時代時代によって、家の入り口の高さが微妙に異なる。 |
○砂のボトル注文(1005〜1015) それから期待していたお土産用の砂絵ボトルの店に行った。名前入りを頼むには、行くときでないとできないというので、妹の分と合わせて3つ頼んで行った。(シールに名前を書いてボトルに張っておくと、その文字を書いてくれるという、寸法だ。) それにしても、起用にやるものだ。細い針のようなものを使って形や字を作っていく。ここのは混ぜもののない本物の砂を使っているので、色は自然のものの上に、しっかりと閉まるので、形が崩れることはないのだそうだ。仕上がりを楽しみに先へ行く。 |
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○一般住居と円形劇場を見る(1022〜) そこから少し上って、まず一般の人の住居を見る。といっても岩をくりぬいた岩窟。 |
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ここは一層縞模様がはっきりとしていて素晴らしかった。自然の色でこんな模様ができるなんて、人の知恵以上に自然は感動させる。 そこでガイド氏のパフォーマンス。壁の一部を削って盛んにさわってみろと言う。こすると肌がすべすべしてくるという。つまりそれくらいきめの細かい砂で造られているというのを主張しているのだ。(本人はこれはだから砂岩ではなく、ミネラルそうなのだ。だから色も様々あるのだ。細かくなって手に吸い込まれるようになる。・・・本人はオイリー、つまりオイルのようだと主張していた。) |
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そこから見下ろす感じで円形劇場が見える。どこにでもある劇場がここにもしっかりと造られていた。ローマはすごい。 |
○レストハウスにて休憩(1050〜1110) トイレ休憩。きれいだった。ここでさっきの油のように手に染みこんだ岩の残骸を洗った。チップはどうしようかと思っていたら、外人の団体さんがどっと来たのでその騒ぎの中で退散。 写真はその後に言った、レストハウスの前で写真を撮ったもの。この頃は、トイレの数が少ないというので、飲み水は可能な限り我慢していた。 |
○王宮墳墓を見る(1113〜) そこから小高い丘に登る。ガイドによると、普通の観光コースとは違うとのことで、向かい側に王宮墳墓が見えた。 4つ並んでいるが、その境目がいまいちはっきりしない。ただ、道路側から、壺の墳墓、シルクの墳墓、コリント式墳墓、宮殿墳墓ということが、説明からはわかった。宮殿墳墓が一番大きい。 内部の壁はやはり縞模様のきれいなものらしいが、我々は行かなかった。(ガイドが行っても同じだし、対岸から見る方が全貌がわかってよいと強く主張した。・・・まぁそうなんだろう。 最下段中央に見える白いのが人。大きさがわかるだろう。) |
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○大寺院(1135〜) そこから更に進んで、大寺院の跡に行く。小さな柱と大きな石がごろごろしているだけの所だが、想像して楽しむには十分だ。 |
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そこの少し先の所から、カスール・アル・ビント(后の神殿)に向かって大きな声を出すと、それがこだまして戻ってくる。これもガイド氏によるパフォーマンス。 自分しか知らないポイントなのだそうだ。それなりに面白いが、どうもこのガイド氏は、説明というよりも自分の自慢ばかりしている。 |
○登山口レストハウス(1150〜1155) ついに登り口。ここからは急な階段が続く。約900段もあるというので、一覚悟だ。 |
○ライオンの墓(1205〜) 登り初めてすぐにライオンの墳墓という所につく。ライオンの彫り物があるのでこう呼ばれている。何か特別な儀式を行った神殿の跡らしい。 ここからまた少し折り返して、もとの登山道に戻り、いよいよ本格的な登りとなる。 |
○412段で休憩(1225) 数え初めて412段目で休憩。900もあるのだから数えてそれを励みにと思って、一段一段数えていた。が、数に入れていいのかどうかわからない低い段もあったりして、また途中でボーッとなったりしてあまり正確な数ではない。 日を遮るものもほとんど無いので、体力が消耗する。夏には絶対来ることは避けたい所だ。 |
○エド・ディル(1243〜1320)約700段 もう息が切れて、何度か自発的に休憩を取りながら上っていた。下りてくる人に聞くとユーモアたっぷりにまだまだのようなことを言っていたが、実際にはすぐに着いた。900と思っていたのに、約700段で着いてしまった。途中数え違えたのかも知れない。 |
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ここエドディルは、先のエルハズネに匹敵するくらいの規模を持った遺跡だ。 いや、規模的には幅が2倍もあって大きく見える。ただし、装飾は至ってシンプル。だが、見応えがある。ここまでこないのはもったいないくらいの建物だ。そしてより価値があるのはこのシンプルな点で、ローマの影響を受けていない、ナバテア人オリジナルの建築なのだ。 |
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元気な人はこの一番上まで上っていた。が、疲れ果てた我々は下でのびていた。 元気が少し戻った所で下山。下りは楽かと思ったが、急坂はやはり膝にきて・・・こたえる。 もうくたくたになって、登り口にあるレストランに到着した。 |
○昼食(1355〜1450) 登り口の所まで下りてくるとそこのレストランで昼食。冷たいビールを飲む。極楽極楽。 |
○翼を持ったライオンの寺院(1500〜) それから自由時間かと思ったら、また上って翼を持ったライオンの寺院へ行った。 どうも現地のガイドは行くことを回避したかったらしいが、コースに入っていたので添乗員が主張して行ったのだが、どうということのない所で、ただ疲れを増やしただけだった。 |
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ただ、涸れ川(ワジ)を挟んで対岸に、先ほどの大寺院跡の全貌が見えたのはよかった。 それからやっと自由時間。 |
○自由時間はミステリーツアー(1513〜1600) 列柱道路を戻ってそれから好きな所へということだったが、我々はガイド氏と戻る途中、そのガイド氏の案内でミステリーツアーを催行した。 山の上のお墓に行ったのだ。といってもまた自慢話に付き合わされたのだが、これはかなり面白かった。まだまだこの遺跡群には面白い所がたくさんあるようだ。 写真の一つ一つの穴が墓だったらしい。 |
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これはまた別の墓のものだが、この穴自体がここでは棺になっていたようだ。 またはかの外は、かような形でしっかり門が残っているものもあった。 解説書にある全部はとても回りきれない。 |
○砂絵受け取り(1600) 砂絵はとてもよい出来だった。名前もアルファベットで上手に入っていた。また旅の記念が増えた。 |
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○エルハズネ(1610) また戻ってきた。しばし時間をつぶして戻る。 |
○シーク出口着(1700) シーク出口までの道が長かった。 やはり遠足(社会科見学?)シーズンで、ここでは結構年齢の高い子ども達(高校生くらい?)が来ていた。 写真をせがまれてとった。 |
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行きに逆光だったので、このモニュメントは帰りにとろうと思っていた。誰も気にしない存在になっていたので、ゆっくりと写真が撮れた。 ナバテア人の神を祭っているらしい。 |
○ホテル着(1710) それから、ペトラの入り口までがまた長かった。 則はよほど疲れていたのだろう、入り口近くでへたり込んでしまったくらいだから。余り気味で充分だと思って持っていった水も、ほとんど飲んでしまった。 それでもどうやら宿に帰ることが出来た。 |
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夕食時、同じ旅の仲間のひとりの誕生会が開かれた。(写真はぼかした) 我々は、自分たちの誕生日を過ごせる日に休みを取りづらい。リタイヤして、いつの日にか、この恩恵に浴してみたいと、こういう場面にあたるたびに思っている。 |
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ホテルの前の、ミニ・エルカズネの前にて順さん。 こうして、レバノンから始まり、シリヤそしてペトラを頂点とするヨルダンの三カ国の旅の最後の夜は更けていったのであった。 今宵の夢は、ペトラの興奮の中、まだ見ぬ中東3Pのひとつ、イランのペルセポリスなのだろうか・・・ |