2.5月29日(火)(晴れ時々雨)1/3 ②ボヤナ教会/国立歴史博物館
起床(0600)朝食(0705)散歩(~0757)ホテル発(0900)ボヤナ教会(0918~1000)国立歴史博物館(1014~1126)ソフィア市内観光(1157~1440)昼食(1343~1445)アレキサンダー・ネフスキー教会(1458~1515)ホテル着(1850)夕食(1930~2030)散策(2045~2225)就寝(2315)
2-2 散歩(~0757)
市街地にあることを期待して、散歩コースを考えたりしていたのだが、郊外にあるのでどこへも行くところもなく、仕方なくホテルの周辺を散歩した。
ホテルの周辺には新しいビルが多く見られたがその多くがガラスを多用していた。noriに言わせると太陽を採り入れるためではないかという。
ホテルの前は幹線道路のようで、人が横断できるところは地下道になっている。それを通って向かい側に行ってみると小さなスーパーらしき店を見つけた。8時開店なので窓から商品を覗いたりした。ただ、今から買い物をしてしまうと後が思いやられるので、見るだけだ。
その横の下のところが線路になっていた。少し先を見ると駅のようなので、とりあえずその辺りまで行ってみようと下りていくと、どうやら電車のくる気配がしてきた。
電車といっても道路を走っているトロリー市電のようなものだ。ここが終点らしく、ぐるりと一周して駅に止まり、乗客を拾って行った。
しばらくそれを眺めていたが、荷物出しやらがあるのでホテルに戻ることにした。
2-3-1 最古の教会
教会は3つの部分に分かれていて、一番古いものは奥側の建物で、10~11世紀に兵士のために造られた教会だとコシさんは言ったが、事前資料によると、「11世紀に建てられた王室礼拝堂がもとになっている(旅名人ブックス)」「1048年、王家の礼拝堂として建設された(地球の歩き方)」と書かれている。
ただ、帰る前に買ったガイドブックによると「ボヤナ教会の近くに要塞の遺跡があり、1041年の戦闘では、ボヤナの男は大変勇気と自尊心がある人ばかりでしたので、要塞に隠れるより直接比較できない軍事力のあるビザンチン軍隊と戦ったのであります。にもかかわらず、ボヤナはごく普通の農村であり、11世紀には小さな教会しか建てられなかったのです。」と書かれてあった。これがコシさんの言う、兵士のためという意味だったのかも知れない。
アーチ形は元々のままで、窓や入り口ではなかったそうだ。小さな穴は明かりの取り入れ口になっている。この時代のアーキテクチャー的な問題から、補強の意味があったのかもしれない。
なお、冒頭の囲みに示したページから、真ん中の二つの(画像としては一つ)平面図を引用しておいた。
おそらくは10世紀に始まった歴史を持つ寒村の教会が今なお存在するというのは、まさに奇跡の教会と言えるのではないか。
2-3-2 13世紀の部分
この部分は、1259年に貴族カロヤンが古い礼拝堂の隣に新しい礼拝堂を増築し壁画を描かせた。何故彼がこのようなことをしたのかというと、「カロヤン長官はボヤナに家を建てたようです。当時の道徳律によると金持ちで権力のある市民は必ずその地方のために教会を建設する義務があると思われています。(ガイドブック)」ということが理由だという。
このときのフレスコ画が世界遺産に指定された大きな理由になっているのだそうだ。それは、「当時のヨーロッパ美術の革命的なものと思われ、ヨーロッパルネッサンスの先駆者とも呼ばれている。(ガイドブック)」からだそうだ。
アーチ形の部分にはセラミックがはめ込まれていた。
2-3-4 フレスコ画
小さい教会なので、グループを二つに分けて入ることになった。我が家は、さっさと動いて前のグループに入る。
入り口を入った部屋は何もない。かえって薄型テレビがおかれていて、話に聞いていたフレスコ画の雰囲気は全くない。そこを通り抜けて一番奥の部屋まで行く。
●2-3-4-1 11世紀の部屋
11世紀の教会も壁面はすべてフレスコ画で埋めつくされている。やはり明かり取りの窓だけでは暗いということだろう電気がついていた。それでも十分とはいえない明るさなので、目をこらさないとよく見えない。
ただ、これらのフレスコ画は13世紀のものだ。11世紀のものの上に描かれたものであることが、一部崩れた壁から見て取ることができる。ここで勘違いしてはいけないのは、建物の成立年代は11世紀だが、現在見ることができるのは13世紀のもの、言い換えればこの後見る13世紀の部屋と同時期に、おそらくは同じ作者によって描かれていると言うこと。
ドームの天井の中心はキリスト。その下には両手を掲げて彼を支えるように天使と4人の人がいる。福音書記者のマタイ、マルコ、ルカとヨハネだそうだ。
ほかにイエスを抱いたマリアや、イエスの生涯、聖人などが描かれている。
最後の晩餐のフレスコ画もある。その卓上にタマネギとニンニクしかない。食事風景が質素で、独特。
コシさんによると、「作者は誰かわからない。当時は、神のために描いたものなので、名前など必要ないという考えがあった。」ということだった。これはかつて説明に用いられてきたフレーズだ。そして、これは中世からのこうした村々に残る絵画においては、キリスト教絵画の習わしとして、妥当なものではあった。
しかし今ではその説明は古いものになっている。それは作者のサインが近年になって発見されたから。ガイドブックによると、「かつて2008年までは画家は不明であると発表してきたが、その後の調査により、ブルガリア人画家、ヴァシリーとデイミタルである。」と結論づけている。ブルガリア語で「己、ヴァシリーが描いた」と書かれた木炭の銘刻が発見されたことに端を発している。他にもう一人いるという画家の名前はまだ分かっていない。つまりはこの3人の手によるということのようだ。特にヴァシリーについては、第一次世界大戦まではブルガリア領でありギリシアに割譲された西トラキア地方のもともとの村の戸籍簿に見ることができるようで、ほぼ確定した事実と言ってよいだろう。旧習はなおあったものの、画家はやはりそこに自身の策であることを密かに主張したかったに違いない。
いずれにせよここが貴重なのは、基本が守られながらも、ある種自由闊達に描かれている点だろう。
●2-3-4-2 13世紀の部屋
次に13世紀の部屋に入る。といっても、ドアなどできちんと仕切られているというのではない。
入るとすぐにブルガリア王コンスタンチンとその后イリナ、向かい側にカロヤン夫婦が、二人で並んで立っているフレスコ画がある。当時は顔だけを見て描いて他の部分は画家の想像で描いたのだそうだ。が、この表情が素晴らしいと評価されている。
王の手には聖ニコラスに捧げる教会の模型がある。
ここの教会は彼に捧げられた物で、彼の生涯を描いたものになっている。ニコラスはいつも白地に十字の模様の付いた袈裟のような物を着ているのでわかりやすい。
アーチ天井の南側にある「海の奇跡」から、彼は船員や商人、ひいては旅人の守り神とされているそうだ。
2-4-1 遺跡
バスを降りて門を入ると右手に遺跡のようなものがある。1年前に日本の企業が地下鉄を造るときに発掘されたものだとか。これもセルディカの遺跡だそうだ。それまで他の国に地下鉄を造らせていたがなかなかできなかったので、日本に発注したらわずか1年で完成してしまったとか。先のソニーのテレビ塔と併せて、日本への信頼が強いという話がなされた。それはそれで嬉しいことだが、今やそれは昔話のようで悔やまれる。
それを見て建物に向かう道の脇に石像やら遺跡から発掘されたものの一部などが陳列されている。これらは各地から集められた物だが、無造作に並べられていて本物なのかどうか?
その中に牛の顔の像があるが、牛はブルガリアにとっては大切な生き物だという。ただ、インドなどとは違ってその理由は生け贄としての生き物という理由かららしい。権力の象徴という意味合いもあるらしい。
建物の入り口前には石棺も置かれていた。
●2-4-2-1 ヴァルナのネクロポリスから
展示室の廊下に発掘写真がパネルで展示されていた。そこに人骨があったのだが、ヴァルナで発掘されたもので、7千年くらい前の25~26歳の若者だという。これもこの骨を日本に持っていって調査した結果だという。
それから部屋の中に入った。金で造られたアクセサリーなどの装飾品が並んでいた。ボタン、ブレスレットなどが見られる。これらも7千年前のものだという。貝の装飾品もあった。これらは女性が身につけていたものだそうだ。というのも、当時は女性は尊重されていたためだという。埋葬された女性の姿も残されていたが、先ほどの男性と違って座った形になっていた。子供と女性はこのように埋葬されたのだとか。
他に土器や土偶のようなものもあった。これらは神に捧げられたものだという。