3.5月30日(水)1/2 ⑤ヴェルコ・タルノヴォ/アルバナシ(快晴)
起床(0530)散歩(0645)朝食(0700~0720)散策(0745~0810)ホテル発(0830)職人街(0833~0900)ツァレヴェツの丘(0931~1050)アルバナシ村(1111~1300)昼食(1307~1415)イヴォノヴォ岩窟教会(1553~1700)ホテル着(1818)買い物(1850~1925)夕食(1930~2045)就寝(2200)
3-4 散策(0745~0810)
今度は本当に散策だ。
郵便局で切手を買うのが一番の目的だ。本当は昨日買うつもりでnoriが出かけたのだが、添乗員の伝えた情報が間違っていて開いていなかったのだ。そこでまた出直すことにしたのだ。が、まだ開いていなかったので、しばらくは周りをうろうろした。
そこに無料でメールを送れるサービスがあったので、二人の写真を我が家宛に送ってみたのだが、うまく届かなかった。
その後郵便局へ行って、切手を買った。言葉が分からないが、何となく手振り身振りで日本までのエアメールが1レフであることを確認し、10枚分購入した。一安心したのだが、実は、この郵便料金の話はこれだけでは終わらなかったのだ。
3-5 職人街(0833~0900)
ホテル発(0830)
ホテルからバスで出発したがすぐに下車。昨日歩いたところをまず歩くのだから本当はホテルから徒歩でもいいのだろうけれど、荷物をバスに置いておく都合があるので、バス出発となった。
今日、我が家は今日は一番に乗るグループだったので、前から3列目に乗った。一人1シートを取れるので楽。
初めに昨日も行った職人街へ行った。昨日と逆回りになった。
殆どはまだ閉まっていたが、我々の姿を見かけると急いで開ける店もあった。ただ、手作りをしている様子が見られますということだったが、それはなく販売しているのが殆どだった。
ウロウロしてそのうちの一つハンドメイドの店が開いていたので入ってみた。おじさんは必要なところは日本語で説明してくれる。日本語のプリンセスもこの店に立ち寄ったと話していた。そのときの写真を見せてくれたりもしたが、どうも紀宮らしい。
そこでおじさんのサービス精神に感心して音の出るシャモジを購入。15レバ。
それからパン屋さんの前を通ったら美味しそうな臭いがしてきたので一つ購入。これが美味しかった。両手を広げたくらい大きな物でたったの1レフだった。
バスに乗り込む前に、今回のガイドさんとドライバーさんと一緒にパチリ。後日この写真をあげたらたいそう喜んでくれた。
3-6 ツァレヴェツの丘(0931~1050)
オスマントルコ軍に滅ぼされるまで、第二ブルガリア帝国の首都としておよそ200年間栄えた町だ。かつての城跡がツァレヴェツの丘に残っている。丘全体は城壁でぐるりと囲まれている。
3-6-2 門
「城塞に入る手前に門が三つあり、敵軍の侵入を三度にわたり防御できるよう守られていた。(旅名人ブックス)」とあるが実際には二つの門しか確認できなかった。
まず道の端にいるライオンを見ながら進む。
最初の門は小ぶりになっているが、これ実は跳ね橋だった。鎖はもう付いていないが、橋の部分は木で出来ており、隙間から下を覗くことが出来る。
二つ目の門へ行く辺りには下水道の後も残されており、そういう設備も完備されていたようだ。
二つ目の門の天井に当たる部分は木で造られていた。ここには門番がいた。彼らは住人を確認した後に城塞へ入れた。そのたびに一つ目の橋を上げ下げしなければならなかった。あるとき住人を装ったトルコ人に、賄賂を掴まされて跳ね橋をあげ、そのために攻撃を受け全滅させられてしまったのだそうだ。
そろそろ観光客相手の店も準備を始めていた。
それから細いやや上り坂を上って更に上の方へ行った。そこにはトイレや大きな鐘があった。
3-7 アルバナシ村(1111~1300)
アルバナシは、1541年以後オスマン帝国のルステム・パシャ所有となった。彼がスレイマン1世の娘と結婚し、主席大臣となった後、アルバナシの住民の義務として、近くの山道の警備をさせ、それと引き替えに免税などの便宜を与えた。それ以降、アルバナシは経済発展した。その上17世紀頃には貿易で更に発展を見せた。
1798年、戦いに行く途中の傭兵軍、カルジャリ軍団は、アルバナシを征服して略奪したりして荒廃させられた。その後、多くの村民が村を出て行った。
アルバナシも教会が人々の生活に重要な役割を果たしていた。キリスト教徒ばかりが住むこの村の経済力などが教会の政策には不可欠で、16世紀の後半から18世紀末まで7つの教会が建設、及び再建設され、壁画が描かれた。 (以上現地パンフレットより)
村には国の文化財に指定された36軒の家を含む80軒あまりの伝統的な民家が残っている。懐かしいような日本の門構えと似ているように思う。いずれも17~19世紀の建造物で、特に18世紀末のコンスタンツァリエフ・ハウスは良く保存されていて、トルコ風の生活様式を見学できる。
3-7-1 キリスト生誕教会 (1113~)
アルバナシ村の観光資源の筆頭は、なんと言ってもキリスト生誕教会だろう。この教会の一番古い部分は16世紀の中頃に造られたようだ。壁画は1597年に完成した。西側の壁に描かれた「最後の審判」はそのときの物だ。17世紀の20年頃までそのままの外観だったが、そのときに大規模な拡張建設工事が始まり西側の拝廊と北側の礼拝堂が付け加えられ、L形のギャラリーで結合された。壁画の一部は、1681年に修復された、という記録もある。(以上現地パンフレットより)
入り口を入って見ると目の前にあるのは地味な建物だった。高い塔や光り輝く十字架が見られない。一見しただけではこれが教会とは思えないような建物だ。これは時代がオスマントルコの支配下にあったときだったために目立たないように建てたのだそうだ。高さは3m。ただし中には220枚もの宗教画があるという。旅名人ブックスによると「壁画にはおよそ聖書の2千の場面、3260人もの聖人が描かれ、登場人物は全部で5千人にもなるというから驚きである。」
建物の入り口には我々を迎えるようにキリストがいる。それは当たり前のようだが、その下が注目点だ。ダビデの印がある。ガイドさんによると、これはイスラエルイスラエルから運んできたものいう証拠で、これがあると教会の地位が高いということになるのだそうだ。(写真については、グーグル検索で沢山見ることができる。)
●3-7-1-1 キリストの家系図と人生の輪
まずギャラリーと称されるところを通って控えの間まで行く。ここから先は撮影禁止。従って写真はない。
フレスコ画で埋め尽くされている。旧約聖書のアダムとイブから始まって新約聖書までの内容が描かれている。
突き当たりには礼拝堂があるが、閉じられていてのぞき見ることさえかなわなかった。
ただ、その壁には「人生の輪(輪廻)」というフレスコ画がある。1.5m×1.5m位の大きさで、思ったよりも小さく思った。
その中心には人の顔(人格化した太陽)と季節(春夏秋冬)を表現した人物像で、4つの円が描かれている。太陽から出た12の光線の間には、黄道12宮が挿入されている。外円には時計回りに12ヶ月の名前が付けられ、横になった人物像がある。円の外側には、9人の人物がいる。
これらは3つの人生の段階、「成長、老化、死、あるいは様々な人生の期間」を象徴している。
下の誕生から始まって左周りに成長していき、一番上が成人。そこから右回りに老いてゆき、下が死になるのだそうだ。
もう一つ有名なのがキリストの家系図。「ドレヴォ・イエセーヴォ」と呼ばれている巨大な壁画。これは要するにキリストの祖先のまた祖先のイエセーからキリストまでの家系図の絵。
この奥は礼拝堂になっているが、閉ざされていて見ることは出来ない。
キリスト家系図は、グーグルの写真検索「Arbanassi tree」で見つけることが出来る。
人生の輪は、グーグルの写真検索「Arbanassi life」で見つけることが出来る。
●3-7-1-2 女性の部屋
次に女性の祈る部屋に入った。
上の方にはマリアがその生涯と共に描かれている。壁には聖人が沢山描かれているが、それらは殆ど女性だとのこと。世の中にこれほど多くの聖人女性がいたのかと驚かされた。
男性の祈る部屋に入るための入り口は小さく、屈まなければ入ることが出来ない。これは自然と頭を下げるように出来ているのだとか。また、その壁には、地獄を表した絵などもある。面白いのは、入り口の左側に女性の首に大きな袋がぶら下がっていること。どんどんここに罪がたまっていくということを表しているのだそうだが、その行き先は恐ろしいことになっていた。あくまでもイブの子孫である女性は罪を背負っているものらしい。
右側に大きな木が描かれているのだが、それを「イエスの木」であるとしている旅行者のウェブページもあるのだが、我々もそれを参考にしたのでそうだと思っていたのだが、帰ってきてからいろいろ調べてみるとそうではないのでは無いかと思うようになった。
旅名人ブックスの「またこの教会にはもう一つ珍しい壁画がある。「エッサイの樹」である。これはダビデの父より始まるキリストの系譜で「エッサイ〔ダビデの父〕の根株より一つの若芽が生え、若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊が留まる」というイザヤ書の言葉を表現したもの。教会ではおなじみのテーマである。ところがこの教会ではエッサイの根株の隣に描かれているのは、ユダヤの12の族長でも12使徒でもなく12人のギリシャの哲学者である。偉人とはいえ異教徒のアリストテレスやプラトンが冠を被り、光背がかかり、まるで聖人のように登場する。」という表現には当てはまらないからである。
それに当てはまるのは、これは不確かなのだが、多分女性の部屋の壁一面に描かれてた物では無いかと思う。
●3-7-1-3 男性の部屋
さて、次に男性の祈りの部屋に入ると、こちらは照明も明るくなっている。
正面には立派なイコノスタシスがあった。木彫りに金箔をかぶせた装飾となっている。
入り口の上には聖人達が並んでいた。最も上にいるのはドラゴン。
十字架にかけられたイエスの像や神の椅子も置かれている。そこにあるイエスは、どちらから見ても見た人の方を見つめているように描かれているとか。
ここにも旧約聖書の話やイエスの話がある。天国から追い出されたアダムとイブは隣の女性の部屋へ行ったのだとガイドさんは話して笑ったが、ということは男性の部屋は天国で女性の部屋は地上ということか?
3-7-3 家訪問1
次は、免税され豊かになった家を訪ねる。
その家に行く途中、別の家の庭を通らせてもらうということになった。が、そこも立派な家だった。
庭に入ると丁度孔雀が羽を広げていた。これまでも孔雀は何度も見かけたが、このように羽を広げたのは初めてだった。そこの家の庭には池が造ってあり、昔の日本のように池ににクルーズ船を浮かべて楽しんだのだそうだ。水車もあった。が、これは粉をひくというような物では無く、バーベキューの時などに軸をグルグル回して肉を焼くためのものだった。いろいろな使い方があって面白い。
現在は5つ星ホテルになっているというやはり旧家の庭を通って次の家へ行く。
3-7-4 家訪問2 コンスタンツァリエフ・ハウス
オスマン朝ヴェリコ・タルノヴォ総督の親戚にあたる女性の旧家。この辺りの家の特徴を良く残している。1階は石造りで、倉庫であったり召使いの部屋であったりした。現在は土産物屋になっている。2階は木造で家族の住居となっている。
始めに外階段から2階へ行った。ここは出産部屋だそうだ。当時の妊婦は、出産の40日前から出産後40日の間、この部屋に閉じこもり、世話をするのも一人と限られていたとか。悪い人に赤ちゃんを見られるとその悪いのが移ると考えられていたからだそうだ。
でも、周りに煩わされることなくゆっくり休めるように思えて、これはこれでいいことかも知れない。
それから、土産物屋を覗いて正式な入り口から2階へ上る。
このドアがすごい。鍵が何十にもかかるようにかなり厳重だ。しかも扉には鉄の鋲が打ち付けられ簡単には壊せないようになっている。
そこから狭い階段を上って行くとリビングになるが、そこのドアも厳重だ。しかもその前には警備員が常駐していたという。どこまでも用心深い。
今は装飾を施された天井の模様が美しい。トルコ風の絨毯や銀の食器、壁にはイコンが飾られている。ここは男性の部屋だそうだ。商談や接待に使ったとか。大きな金庫も置かれていた。
次の部屋の天井は格子模様で、家族の部屋。ベッドや衣装ダンスが置いてあった。ガイドさんが中に入っていいですよ、というのでロープを超えて中に入ったら警報ブザーが鳴って慌ててしまった。
それから食堂やキッチン、トイレなどを見た。調理器具を閉まっておく小さな部屋もあった。そこに小さな階段があったが、これは召使い用のものだそうだ。
それから隠し扉もあった。事が起こった場合の逃げ道になるのだそうだ。
さすがブルガリアと思ったのは、竈の上にヨーグルトを作る棚があったことだ。