9.6月5日(火)2/2 ⑱リラの僧院、民族舞踊(快晴後雷雨、一時曇り後雨)
起床(0500)朝食(0700)散策(0720~0750)ホテル発(0835)ロージェン修道院(0910~0945)昼食(1303~1404)リラ修道院(1425~1547)ホテル着(1804)民族舞踊と夕食(2005~2200)就寝(2330)
9-8 リラの僧院(1425~1547)
イヴァン・リルスキは、25才の時にリラ山中の洞窟にこもり、瞑想と祈りの日々を送る隠者として暮らし始めた。やがて、彼に共鳴する人々が集まり931年に修道団が形成された。修道士たちは清貧の中で祈りの暮らしを続けながら共同生活の規模を拡大していった。修道院の最初の場所は、修道士イヴァンが隠遁の場所として選んだリラ山中の洞窟近くにあったと考えられている。
14世紀の第二ブルガリア帝国の時代になると修道院に様々な特権が与えられ、皇帝や貴族の寄進を受け森林や畑、23もの村々を含む広大な領地を持つようになった。バスで走っているこの辺り、すべてが領地なんですよ、と言うことだ。
オスマン時代には、修道院は納税を条件に活動を許され自治権を持つことができた。多くの教会がモスクに改装されてしまう中、リラの僧院は正教会の伝統とブルガリア人のアイデンティティーを守り抜くことができた。
1883年の大火でフレリョの塔以外は燃え尽きてしまい、1870年までに再建されて、現在の姿になった。
9-8-3 聖母教会回廊
1834年~1837年にかけて、それまで古い教会堂があった場所に、現在の聖母教会が建設された。
柱で囲まれた回廊には天井に至るまで色彩豊かな壁画がびっしり描かれている。
壁画は19世紀に、ディミタルとザハリのゾグラフ兄弟や、当時の画家達が無償で描いた物。モチーフは36の聖書の場面や、地元の時代毎の生活風景などが描かれている。
やはり最後の審判が目に付く。一番下の地獄は悲惨な物だ。
天井には、後光の差している羊がいるが、それはキリストを表しているのだそうだ。また、アダムとイブの話も見られる。天国では幸せだったが、追われて地獄へ落ち、やがてキリストに救われて地上に上ってくるというところまで描かれている。
柱の上の方には、アベルとカインの話が、彼らの誕生から殺人、悲しみなど連続模様のように描かれている。
ガイドさんが一つ一つ丁寧に説明してくれたが、あまりにもびっしりと、区切り無く描かれているので、説明に付いていくのが大変だった。
9-8-4 内部
この教会堂は5廊式の十字ドーム型で、両側に2つの礼拝堂があり、合わせて3つの祭壇がある。それぞれにイコノスタシスがある。
右側の礼拝堂はボリス3世の心臓が埋められているそうだ。彼はヒトラーを訪問して帰国直後に急死したために彼に毒殺されたという説もある。
正面祭壇はくるみの木を彫刻して金箔を張った物。入り口上部の中央には大きな目玉が描かれ、神の目を意味していて聖堂内部のどこからでも見える。左にマリア右にイエスがいるのはいつものことだが、花や葡萄などの植物、またドラゴンなども描かれている。
ここにも双頭の鷲がいくつか描かれていた。天井、最頂部には三位一体の絵がある。前の方の最頂部にも三位一体の絵があるが、こちらはキリストの指が精霊を表した物となっている。
ガイドさんは、あれがそう、あれがそれ、と次々話してくれる。メモするのも大変だった。こういうとき、サラッとイラストが描ける人がうらやましい。
キリストの椅子はこれまた立派だったが、面白かったのは説教台にある聖書。そのページを読み終えると、手元のハンドルのような物を回すと自動的にページがめくれるようになっている。
また、カトリックに見られるような懺悔室というのは正教会には無いそうだ。牧師に対してでは無くイコンに対して祈ることがそれと同様なのだそうだ。
9-8-5 博物館
博物館へ行った。が、この頃から団体行動がバラバラになってきた。
我々のようにガイドさんに付いて入る人もいれば、勝手にトイレに行ったりしてグループから離れる人などが出てきた。
ガイドさんがまず連れて行ってくれたのは、修道士ラファエルが作製した木製十字架の所。
シナの木で作ってあり縦81cm、横43cm。この人は何年もかけて、繊細なノミや工具を用いて作品を作り上げ、1802年に完成した時、盲目となっていたと伝えられている。この十字架には、キリストの誕生、洗礼、礫刑など140もの聖書の場面、合計で1500人以上の人物像が彫り刻まれている。(ただこの数については、資料に寄っては違い有り。)
その後は自由に見てくださいと解放された。というのも、勝手に動いていた人たちがバラバラにここへ来るので、その説明を改めてするからだ。そのために、この博物館の展示品には14世紀から19世紀までに製作されたブルガリアと海外芸術のコレクションが並べられているので、他にも見るべき物はあるだろうし、実際他の団体は説明をしていたのだが、我々のグループは一切行われなかったので、他の人からもかなり不満が出た。
仕方ないので、儀式の時の豪華な衣装や装飾されたグラスや十字架、羊皮紙に手書きされた聖書や古文書、ブルガリア各地の教会から寄進されたイコン、織物のような重厚な金糸がふんだんに使ったキリストと創設者の死の床?のような物が見られた。
写真撮影も駄目、解説板の文字も現地語だけ、解説書も無いという中で、記録するのは難しい。
バラバラになってしまったので、添乗員さんをようやく見つけて、集合時刻を聞いてからフレリョの塔へ行った。
9-8-7 宿坊
そのうち高い方から声がしたので、そちらを見ると、宿坊の上に上がっている人がいた。
確かに上り口には何も無かったので、いいのかと思いながら上って行った。
途中で、仕事をしている人たちや修道士の人ともすれ違った。このときに、noriが上へ行ってもいいかと聞くと「OK」だったのでそのまま上へ行った。
そこからの景色は最高だった。確かに素晴らしいからおいで、と誘われただけのことはある。
が、しばらくそこで写真を撮っていると、男の人が来て怒鳴り始めた。
どうやら上ってきてはいけなかったらしい。
丁度作業をしていたから、その人達と間違えたか、今だけならと目をつぶってくれたのか、分からないが、アイムソーリーと丁寧に謝って下へ下りた。
9-9 ソフィアへ
バス発(1547)コウノトリ(1638)
バスは走ってすぐに止まった。何事かと思ったら、道路に蜂蜜屋の店が出ていた。そこでお土産タイムとなった。
皆先を争うように買い求めて、店の人もほくほく顔だ。
またしばらく走って、今度は「コウノトリ」タイム。
この時期子育てのコウノトリがあちこちで見られるということだったが、実際にはこれで2度目だ。雨が降っていたので、バスから降りる人だけが下りて写真を撮った。このコウノトリ、家の煙突に巣を作っている。昔は冬になるとこの巣を取り除くのが大変だったという。が、今はもう煙突暖房はしていないので、もっぱらコウノトリのためにあるらしい。
雨はいっこうに止む気配を見せぬまま、ソフィアの町に入った。車窓から懐かしい路面電車を再び目にした。
9-12 夕食 CHEVERMETOにて (2005~2200)
バス発(1955)
夕食はホテルではなくバスで民族舞踊を見に行く。
テーブルがいくつかあったのだが、どこへ座っていいのやら的確な指示が無く、といって勝手に座るわけにも行かずしばらくはウロウロしていた。
仕方なく後ろの方に空いている席があったので、残った者がそこへ座っていると、ガイドさんがもっと前の席に移っていいといってくれたので、最終的には一番いい席に座らせてもらったことになる。
食事が終わってから舞踊が始まりますからゆっくり食事してください、という話だったが、途中から歌や舞踊は始まった。
あんまり盛り上がらなかったなあ。最後にはお客を巻き込んでの踊りだったが、これも思ったほどの参加者はいなかった。というより、まだ食事が終わっていなかったせいもあるかもしれない。
メニューは、ショプスカサラダ、サルミ(ライスを葡萄の葉で包んだもの。この葡萄の葉は塩漬けにしてある)、ケバブ(といったが、豚肉の煮込み料理だった)、アップルパイ。
食べたり写真を撮ったり、結構忙しかった。
9-13 部屋にて
ホテル着(2215)就寝(2330)
部屋に戻ってから、メールをチェックすると、旅行会社から返信が届いていた。が、何とツアーのコースも添乗員名も違っての答えだった。すぐに添乗員には連絡して指導した、というようなことが書かれていたが、これでは嘘だということがバレバレでは無いか。
それから絵はがきを造りスーツケースの荷造りなどをした。
バスタブも大きくゆったりしていたので、ようやくバラ風呂にして、疲れを癒やす。