4.5月31日(木) ⑦スヴェシュタリ、マダラ、ヴァルナ、ネセバル(曇り時々雨)
起床(0500)朝食(0650)ホテル発(0828)スヴェシュタリ(0920~1016)昼食(1240~1350)遺跡(1353~1401)マダラの騎士像(1442~1532)ヴァルナ(1647~1754)ホテル着(2000)夕食(2000~)入室(2107)就寝(2230)
4-2 スヴェシュタリへ
ホテル発(0828)
あとで、添乗員さんが、これからのホテルはもっと良くなります、と言っていたが・・。
バスに乗り込むのは、一応順番が決まっているのだが、何しろ添乗員がバスの所に来るのが一番遅い位なので、皆勝手に乗り混んでしまい、順番が狂ってしまった。が、それについて客は何も言わないので添乗員は気づいているのか知らんぷりなのか、で過ごしてしまった。
が、実は不満に思っていたのだ。
そんな大人の客を乗せてバスは出発した。
バスに乗るとnoriは昨日買ったパンの残りを食べ始めた。まだ美味しかったようだ。
周りの風景もそろそろ同じ物になってきた。赤いアマポーラ、鉄道、馬車・・等々。
今日初めて見たのはコウノトリ。つがいで子育てをしていた。今丁度その時期なのだそうだ。
ブルガリアの人は、コウノトリを見ると、腕に付けていた紅白の紐を近くの木に結びつけるのだそうで、これまた各地で目にした。
また、牛や馬だけではなく、羊の放牧もなされていた。
4-2-1 全景
この一帯の保護区650haには、全部で103の小さな丘が確認され、いずれもトラキア人の墳墓と考えられている。つまり、この一帯がかつてトラキア人のネクロポリスだった。
まず、ビジターセンターの前で、この辺りの案内図を見ながら説明を受ける。川の周りに灰色の点で示されているところがすべて墳墓で、丸の大きさがその墳墓の大きさも表しているそうだ。しかもその並びは、星座の形になっているとのこと。この辺りのことは何度聞いても分からなかった。今回はそのうちの一番大きな墳墓に入ってみることになった。
1982年に発見されたこの墳墓は、スヴェシュタリ周辺に居住していたトラキア人の中のゲダイ族の王の墓だと判明した。
我が家にとって295個目の世界遺産となる。
4-2-2 墳墓の中
ここに入るには、必ずガイド付きで、靴カバーを付けて1回に10人程度。勿論最初のグループで入った。
入り口はしっかりと閉ざされており、ガイドが鍵を開けて中に入る。
すぐに靴カバーをはくように言われ、そこから少し歩いていよいよ墳墓だ。大きなドーム状に覆われた中にそれはあった。
まず門があった。そこに施された装飾には牛の顔があり、力の偉大さを表しているとか。それ以上に青や赤の色が未だに残っているのに驚かされた。小さな花のレリーフなどもある。
2人が通れるほどの大きさの門を入っていくと、石棺が配置されていた玄室、2つの小部屋の計3室からなっている。ここからは30歳前後の王と20歳前後の王妃の遺骨が見つかった。
玄室は4.5mの高さがあり、10体の女性像がコの字形に装飾されている。壁に浮き彫りの形で彫りこまれているが、思ったよりもその彫りは深く、くっきりと形が浮き出していた。女性はまっすぐに立ち、腕で墓の梁を支えている。またそのスカートも特徴的で、先がくるりと丸まっている。
それにかぶさる丸天井には半円壁画の装飾が施されている。壁の上部には被埋葬者の権力を象徴する雄牛の頭の模様が飾られている。
王が横たえられたベッドも置かれているが、遺体はないそうだ。横には供物用の室があり、そこでは馬や豚、犬の骨、陶器、矢、青銅製の彫像、金製のイアリングなどが発掘された。
4-3 道々
それからマダラの騎士像へ向かってバスは進んでいった。
このルートは、途中に家畜の放牧や耕作地が多く見られた。
家畜の放牧は、自然の中に出しているのだが、殆どの場合、近くに牧童がいる。牧童と言ってもおじいさんのように見かけたが、座ってボーッとしているというよりは、結構動き回っていた。
また農作業をしている人も多くいたが、機械化があまり進んでいないようで、と言って子供まで動員するような人海戦術でもなく、自分の畑を細々と自分の力で、という感じだった。ここでは牛や馬が重要な働き手になっている。
ただ緑が広がっているだけの車窓風景だが、こうして眺めているのも結構面白い物だ。
4-5 遺跡(1353~1401)
プレスラフという927年から1018年まで、第一次ブルガリア王国の2番目の首都の遺跡だそうだ。殆ど土台部分しか残ってはいない。ビザンツ支配時代から第二王国時代を通じて繁栄し、当時はコンスタンチノープルに次ぐ第二の都市と言われたそうだ。教会や王宮もあったそうだ。図書館もあり、かなり文化水準も高い都市であったらしいが、今現在発掘中で、詳細は不明だとか。看板には現在解明された部分だけが表示されている。
ガイドさんはオスマン帝国に滅ぼされた、と言ったが、地球の歩き方にはビザンチン帝国に滅ぼされた、と書かれてある。
バスから降りて見学のはずだったが、急にひどい雷雨になったために車の中から写真を撮るだけになってしまった。傘を差しても出てみよう、という気にもならないほどの雨だった。
その後バスは水しぶきを上げて走る。歩いている人にも容赦なく水を飛ばすので中からごめんなさいと一言。
4-6-2 騎士像
騎士像が刻まれているのは、断崖の地上23mの高さのところである。馬にまたがる騎士は後ろに猟犬を従え、馬の下にはライオンがひれ伏している。
この騎士は誰か、何のために彫らせたのかと様々な調査が繰り返されてきたが、決め手はないようだ。いずれにしても第一ブルガリア帝国の皇帝の一人であると考えられている。彼はコンスタンチノープルの方を向いているのだそうだ。
ブルガリアではマダラの騎士像は栄光のシンボルとされ、現在もブルガリア通貨レフのコインに描かれている。これはあとでガイドさんが一人一人に見せてくれた。
どうにか雨にも降られずに見学を終えることが出来た。
4-7 ヴァルナへ
バスが走ってまもなく、道路際に一人の像があった。これは初代国王だそうだ。この辺り、ブルガリアの最初の王国のあった地域で、今は小高い丘のようになっているがかつては見張りの要塞や王の要塞などもあったのだとか。コンスタンチノープルの攻撃に備えたとか。
帰ってから調べてみたが、いまいち良く分からない。(どうもこの地方Kaspichanの守護神というような意味を持つ像らしい。)
途中綺麗な女性が立っているのが数カ所で見られた。ヒッチハイクかな?と思ったがそれにしては軽装だったので、不思議に思っているとガイドさんから説明があった。この通りは「ガールストリート」といって、ジプシー女性が売春をしているのだそうだ。これは、父親や夫がそういう仕事をさせているとかで、12才くらいで妊娠という問題が起こっているそうだが、ジプシーということでなかなか取り締まりも出来ないということだった。その説明の中にも、だからジプシーは・・・という口調が感じられた。ただ、最近日本では、ジプシーというのは差別用語として使わず、ロマと言っているが、添乗員さんはジプシーという言葉で説明をしていた。
その後、石の庭というところで下車。「ストーンフォレスト」というのが英語の名だ。
空洞の石などがゴロゴロしている。かつては海底だったのだそうだ。ところが、この売店でバラジャムやウォールナッツジャムを売っているというので、皆そちらに夢中になった。我が家も例に漏れず、ウォールナッツジャム6レバを購入。もうこうなるとミーハーだ。
その後しばらくすると葡萄畑が見られるようになった。いよいよワインにより近くなっている。
道路標識に馬車の標識もあって、面白い。
4-8 ヴァルナ(1647~1754)
ヴァルナに着く頃にはまた雨が降ってきた。
最初にショッピングモールでトイレを借りた。買い物好きなメンバーが揃っているので、トイレだけにしてくださいと何度も念を押された。それでも要領の良い人はしっかり買い物をしていた。
ガイドさんは(添乗員が通訳しているのだが)ヴァルナはソフィアに次ぐ第二の都市だと言ったが、プロヴディフの方が大きいのではないか?いろいろな資料を見ても、「国内で三番目に大きな黒海沿岸地方の中心地」のように書かれているのが殆どだ。
ここは単に通過するだけかと思ったら、バスから降りて散策した。
雨の中なのであまりメモも出来ず、写真も撮れず、詳しいことは良く分からないが、まず大聖堂を見た。
正式名は、聖母被昇天大聖堂というようで、1886年に建てられたロシア風の大聖堂で、ソフィアのアレクサンダル・ネフスキー寺院に次いで国内で2番目の大きさだ。
そこから散策が始まり、バロック風のオペラハウス、ヨーロッパ風の建物などを見て回った。
ここは古くから交通の便を生かして海の都だったそうだ。トラキアから続く町に、紀元前7世紀にギリシャ人が植民都市を建設。紀元1世紀にはローマの支配下に入ると要塞や公共施設が建設され、町はさらに栄えた。
それらの歴史が分かる資料が「考古学博物館」に揃っているそうだが、今回は素通り。そういえば、ソフィアの歴史博物館に、ヴァルナから発掘された人骨や装飾品などがあったのを思い出した。旅名人ブックスによると、「ここで発見黄金細工は紀元前5千年頃のものとされ、エジプトやメソポタミアのものよりはるかに古く世界最古の黄金であることが判明した。」そうだ。
素通りするには惜しい町であった。