3月27日(火)
  デルフィ〜オリンピア

起床(0600)・・朝食(0700)・・出発(0800)・・オシオスルカス修道院(0850〜1010)・・デルフォイ古代遺跡(1040〜1330)・・昼食(1334〜1500)・・アンギリオ休憩(1700〜1710)・・ハリラオストリクピス橋撮影(1726〜1729)・・ホテル着(1930)
☆ベストウエスタンヨーロッパ(旧ヨーロッパインターナショナル)ホテル 110号室

4−1 朝
 目覚ましをかけて寝るが、それを聞いたことがない。いつもそれより早く起きるからだ。朝食時間になると待っていたようにいつも一番にレストランにはいる。
 朝食はアメリカンスタイル。内容がある程度そろっているので、まあ、お腹は満足する。

4−2 オシオス・ルカス修道院 (0850〜1010) 撮影可(フラッシュ×)
 8時にホテルを出発して、昨日のアラホバを通過してまず向かったのはオシオス・ルスカ修道院。ビザンチン時代の傑作と言われる修道院。オシオスというのは、ルカスという人の尊称。サンタクロースの原型となったセント・ニコラスのセントと同じようなもの。聖人よりは下の位らしい。
 さてバスを降車して少し下がった所にあるそれは、さほど大きな建物ではなかった。外観もきれいで素晴らしいと思ったが、中に入ると更に素晴らしい。
 中はイコンで一杯。これはどこの修道院に行っても同じことなのだが、ここが重要なのは、ここに祀られているオシオスルカスの遺体があるせいか。
 入るとすぐに天井一杯にキリストのモザイクがある。壁や天井も金地のモザイクだ。シチリアでもそうだったが、キリストは常に金地の中にいる。輝きを表しているのか、一番高価な物が似合うということなのか。
 この聖画もやはり(当然ながら)平面的な描き方をしている。ここには、キリストと11人の弟子(ユダはいない)、復活したイエス、十字架のイエス、足を洗うイエスなどの絵がある。マリアも描かれていたが、マリアは青色というのが原則なのだそうだ。青色の女性がいたらそれは必ずマリアなのだと教わった。また、キリストに5つの傷があるのは、両手両足と死を確かめるための槍の傷の合計5つで、聖なる傷=聖痕というのだそうだ。 
 中に入るとそこは八角形のドーム。第一の聖堂だ。使われている石は、天井も床も全て大理石。イエスの誕生や洗礼など聖書の絵が並んでいる。
 2つめのドームに行く丁度間にオシオス・ルカスの遺体が棺に収められていた。1986年にトルコから戻されたそうだ。ガラスが反射してあまりよくは見られなかったが、以前は地下にあった物が今はここでみんなが見られるようになっているのだという。
 2つめのドームはやや小振りで柱が立ち並んでいる質素なものだ。ここが最初にできた聖堂で、コリント式の柱をまねて造ってある(アカンサスの葉がその上部にある)。
 一番奥にある3つめのドームは、かつてはフレスコ画で全体が覆われていたが、16世紀の地震でかなりそれが剥がれ落ちてしまったとのことだ。コリント様式のギリシャ神殿をまねて造ったそうだ。
 それから一旦外へ出て、地下へ行った。
 セントバルボラの部屋。以前オシオス・ルカスの遺体が収められていたという棺が置かれている。他にも棺がある。壁や天井のフレスコ画には植物が多い。これはアラベスク(イスラム美術に見られる、植物のつる・葉・花や幾何学図形などを図案化した装飾紋様。アラビア模様)の影響、つまりイスラムに征服された影響だろうと言うことだった。ちなみに、聖堂そのものは、古代ギリシャの遺跡の大理石も使われており、その意味でもこの修道院は貴重な存在になっているようだ。外には小さな博物館もあり、駆け足で立ち寄ってから、やはりその中にある小さな土産物屋で急いで自分達用の産を買った。

4−3 デルフォイ古代遺跡 (1040〜1330)
 デルフィまではまずはデルフォイ博物館へ行く。大体の歴史を頭に入れてから見学したほうがよいという添乗員さんの考えからだが、我々もその方がよいと思う。ここでは、スフィンクスの柱の上にある像や御者の像、大地のへその石など見たい物がある。それから遺跡の方へ行き、競技場まで行くコースだ。

4−3−1 博物館 (1053〜1134)
 以下は記録ができた内容の物。ただ、説明を聞きながら、写真を撮りながらなので、抜けている物も多数あり。
@スフィンクスの上の像
・翼が自由、女性の顔は美、ライオンの下半身は権力を表しているのだという。スフィンクスというのは、エジプトより伝わり、ギリシャ風に変えられたのだそうだ。白色は修復された所に なる。アルカイック(古風でつたないさま。特に、初期ギリシア美術に見られる素朴な様式をい う。「アルカイックスマイル」)という口元の微笑み方が日本の仏像〜秋篠の技芸天〜と似ているように思った。
A宝物館の外側の飾り
・後にアテネの宝物館を見るが、実はデルフィは古代ギリシャにおいて、アポロン神の神託都市でとして繁栄した。「アポロンの神託は卓越した予知能力で知られ、その名声が高まるにつれてギリシャ各地からの代表や民衆が神託を受けに訪れました。そして、神託の御利益に感謝したポリスや植民地から寄贈された奉納品で豊かになり、アポロン神殿に続く参道にはそれらを収納した宝庫や像が建ち並び、自らの繁栄ぶりを誇示しました。 」(ギリシャ政府観光局)・・・というわkで、この像はそうした宝物この前を飾っていた女神の像。頭にいくつもの穴がミラあれるが、ティアラなどの飾り物が付けられていたらしい。勿論それらには宝石が多数ちりばめられていたことだろう。この像は渦のような形でたてられていたと言うことだ。
Bゼウスとティタン達との戦いの彫刻
・ティタン(タイタン)というのは、ゼウスたち一連のギリシャの神々たちがこの世界を支配しする以前の神話世界の支配者(一族)で、一般的には巨人族としても知られている。地球上最初の生命体とも言える。土星の衛星タイタンや金属のチタンはここに由来する。ゼウスは彼らとの戦いに勝利してその座を得た。土着神との戦いの末の勝利と解釈され得ている。
Cギリシャ神話に出てくるヘラクレスとアルミテス、ヘラ
・全体像を撮影したはずなのに、なぜか写真が残っていません。「彩色されていた」という説明がありましたが、その部分だけはなぜか撮影している。もっとも一般的に、この時代のものは大理石の目映いばかりの白さが強調されるが、一般的に〜たとえばアテネのパルテノン神殿も〜彩色されていたと見るのが通説のようだ。
D孝行兄弟の像
・クレオビスとビトンという兄弟が、母親をヘラ神殿まで送って来て息絶えたという伝説による。この孝行譚だが、はじめは孝行者だが若死したとというので、おかしいなぁと聞いていたのだが、どうやらこの兄弟の母は巫女さんだったらしく、自宅から牛車でヘラ神殿に向かう際、その牛が何らかの理由で使えず、その代わりを務めたということのようだ。そして無事にその役目を果たしたが、そこで息絶えたため、ヘラはその栄誉をたたえて神殿内で永遠の眠りにつくことを許したという。
E頭像
・アポロン、アルテミス兄弟とその母レト。本来は象牙でできているのだが、焼けたために黒ずんでいる。右の写真はそのうちの一体。輝いている金属部分は発掘した者かどうかは不明。
F金の雄牛
・この博物館の見物の一つである。断片として発掘されたものをまるでジグソウパズルのように組み立ててある。当然ながらガラスケースの中にあるので、工夫してもどうしても光って回りが写り混んでしまう。雰囲気だけで勘弁願いたい。
Gディオニソスの像
Hアポロンの神殿の雨樋
Iアテネの宝物館に収められていた香炉・フルート少年・2人像など
Jトロスの一部
・柱の一部。アマゾネスとヘラクレスの戦い
Kアポロンが描かれたさら
・墓から発見された白い皿。たぶん墓碑からだろうが、紀元前470-480年頃のものと書かれていた。アポロン(ローマ神話ではアポロ)の右手からは葡萄酒がつがれている。右手には象徴の竪琴を持つ。ライオンの足の形をした足を持ついすに座っている。左にいるのはたぶんアポロン神話の中で重要な役割を果たすカラスだろう。
L地球のへその石
・ゼウスが二羽の大鷲をとばしこの世界の広さを測ったところ、二羽が丁度デルフィで出会ったということで、地球の中心がこのちと言うことで、この位置が置かれていたらしい。象徴的な話であり、へそはこれ以外にもあった。本物がこれなのかどうもわからないが、たぶん見物の一つなのだからそうなのだろう。
  北海道富良野の駅からほど近い小学校には、北海道中心標があり、毎年へそ祭が行われる。かのレオナルドダビンチもへそが人体の中心と考えていたらしい。最近有名になったダビンチコードでも知られるウィトゥルウィウス的人体図が有名だ。古今東西を問わず、人間の中心にへそがあるという思想は共通のもののようだ。日本にも「へそはからだの括り目」ということわざがある。
M13(11?)mの柱のうえにあった三人の乙女の像(→)
・これもこの博物館の呼び物の一つ。円柱の上に立てられたこの像は、薄い衣服をまとった山陰の乙女が三方向を向く形で作られている。アーカンサスの葉の台座の上に載っているが、丁度修学旅行とおぼしき学生の一致団と一緒になったので、説明もよく聞き取れなかったし、どうして模造の前から見上げて取る形の写真にならざるを得なかったので、そのディテールの美しさが伝わってこないのは残念だ。
Nギリシャ彫刻の若い男の像(←)
・表情や体のバランスがとても良くて、後の芸術家へ大きな影響を与えた作品といわれる。特にミケランジェロのダビデはこれに刺激されて創られた作品だそうだ。アルティノスという名前で、ハドリアヌス皇帝の恋人か?とも言われる。ということはローマ時代の作品になる。
O御者のブロンズ像(紀元前478年頃)
・まつげが素敵なスマートな青年像だ。この博物館の売り物の一つになっている。というか、最大の売り物だ。下腹部が異常に長いのは、御者でその部分が隠れてしまうためらしい。ほぼ完璧な形で見つかっている。細かいところまで、精巧に出来ており、特にその顔面の描写は、青銅像の傑作の一つに数えられている。いや、この時代の最高傑作と言ってよいだろう存在だ。目の部分も完璧に残っている。つぶらな瞳の好青年だ。
  紀元前478年のデルフィで行われたピュティア祭の競技で優勝したシチリア島出身の者(勿論市民権を持っている者)により奉納されたらしい。頭部に巻かれた冠がその勝者であることを表し、凱旋の像と言うところか。
 ちなみにピュティア祭とは、ギリシャ政府観光局の説明によれば、「デルフィでは、オリンピックと同様の競技大会「ピュティア祭」が4年に1回開催されていました。この大会は紀元前582年に始められ、当初は8年毎に音楽と文芸の神アポロンにちなんで詩、演劇、演説、音楽などのコンテストがメインに行われ、運動競技 も行われていました。」・・・・というもの。つまり、オリンピアで行われていたのがオリンピックであり、かような形式の競技会のようなものはギリシャ各地に存在していたらしい。文字通り、古代ギリシャは競技会好きな人々によって成立していたと言うところか。

4−3−2 遺跡     (1150〜1320)
 「地球の歩き方」に出ていた道順の通りに始めはローマ時代のアゴラから歩き始めた。下に示したデルフィの地図は英語版Wikipediaから加工した。スケールが見にくいだろうが、ひとメモリは10mを表している(全体で50m)。入口は右下。博物館からは徒歩5分くらいかかる。
@宝庫
 遺跡らしい壊れた列柱を見ながら少し登り加減に進んで行くと入り口がある。更に進んでいくと復元されたアテネの宝庫がある。以前はこうした宝庫がたくさん並んでいて、その中はまさに宝物で溢れていたそうだ。今はただいずれも礎石が残されているだけだ。唯一復元されたのが、アテネの宝庫だ。
 そのアテネの宝庫の後ろに博物館で見たスフィンクスの像が乗っていた柱の一部が残されていた。
 また、音楽の神アポロンにちなんだ音符のレリーフや奴隷の契約が刻まれた石などがあった。そこからようやくアポロン神殿に着いた。
Aアポロン神殿
 疲れた則が丁度いい休憩所と思って座り込んだ所が実は生贄台と説明があって、大爆笑だった。地球のへそも本当はここにあったらしい。マップでは、A’として示した辺り。
アポロン神殿は紀元前850年に建造されたドーリス式の神殿で、何本かの柱が立っている。
各地から訪れた希望者に、神の神託を行った所であった。巫女が煙を吸ってトランス状態になりお告げを告げたという。それを神官が取り次いでいたのだそうだ。その煙の出た所も残っていたと言うが、今は確認できない。そしてそのお告げが当たった場合にお礼として先ほどのような宝庫を造り宝物を収めたのだそうだ。重要なことは、、実際には各地から相談に来るのでいろいろな情報を神官達は手に入れることがたやすく、それをうまく分析して伝えていた、いわゆる情報センターになっていたとか、いろいろな意見を一つにまとめる方策として神託を利用したとかの説明があったが、なるほどそういうことも考えられるか。
B古代劇場
 形がきれいに残されている。紀元前4世紀頃に最初岩盤をくりぬく形で作られた。演劇や詩の朗読が行われていたが、ギリシャ時代はそれらは神に捧げる物であったので下は砂地であったが、ローマ時代になると、民衆に見せるための物になったので石に変わったのだという。また、形もギリシャ時代は円形であった物が、ローマ時代に半円形にされたのだという。もちろん、ここがピュティア祭の中心であったことは言うまでもない。
ただ、円形の状況が想像できなかった。
C競技場
 そこからマップで言うと、左上に書いた矢印の方向へつづら折りに丘を登っていくと、終着のスタジアムに着いた。広いスタジアムで長さ178mのトラックを持ち、現在でもスタートラインの石坂を見ることができる。現地の若人がそのスタートラインについていた。ちなみにどこかでも書いた気がするが、古代ギリシャでは現在のようにスタジアムを周回して走ると言うことはしなかった。端から端まで走り、長く走る場合にはそれを繰り返したと言うことだ。
 帰りは写真を撮りながらゆっくりと戻った。二人の写真を撮ろうと少しくだったところに順さんに降りてもらったら、見事こけた。だいぶ疲れてきているようだ。
Dトロス
 それから下に見えるアルマリア(アテナの聖域)にあるトロスを見に行った。これはデルフィの象徴とも言える建物だが、上のアポロンの聖域より少し離れているので見に行く予定はなかった所で、ガッカリしていた順さんは一気に天にも昇る気持ちになった。かなり下らなければならなかったがそんなことは何のその、一気に駆け下りた。
 トロスは紀元前380年頃に建造された円形神殿で、きれいな円形はそのままに、3本だけ柱が復元されている。昔はここを通って上のアポロン神殿まで行ったそうだ。 
 その参道とも言うべき道の脇には、運動練習場跡なども残されており、少しずつ整備が進んでいるように思えた。
 デルフィは古代も神秘的な場所であったわけだが、現代に至るも未だ我々をその神秘の魔力で我々観光客を迎え入れてくれる場所であった。
  順さんは、そして則もこれでもう大満足であった。

4−4 昼食 (1334〜1500) VACHOS
 アラホバの町へ戻って昼食。
○リゾット、ムサカ、フロイエラ、デザート、コーヒー
△ワイン7.5ユーロ
今日の昼食はギリシャ料理と言えばこれ!っていうくらい有名な、ムサカを食べた。
昼食後は、今日の宿泊地へ向けてまたまたひたすら走るだけ。
山を越えると左手にエーゲ海が続く道に出た。時折、海に突き出したように造られている町並みが見えたり、養殖をしている様子が見られたりして、今までにない景色が楽しめた。

4−5 ハリラオストリクピス橋撮影 (1726〜1729)
 途中アンギリオという町での休憩を挟んでひた走ること約2時間半。ペロポネソス半島へ渡るために造られた橋を渡ることになった。瀬戸大橋のようなものだが、かなり短い。車で走ると1分もかからないくらいの距離である。
 が、被写体としてはとても素晴らしいということで撮影タイム。確かにとてもきれいだったが、我々の関心を引いたのは、荒れるエーゲ海。岩壁に当たって割れる白い波がいかにも<うみー>という感じがして興奮した。そんな風だったので、非常に風も強く波が顔に当たって痛くて、そう長いことはいられなかった。というより早々と退散したという言い方の方が正しいだろう。こんなことは珍しいのだそうだ。
 さて我々日本人にとっては、長大橋はそう珍しいものではない。ツアー客の反応も今ひとつだった。そしてあっけなくバスで渡れば、もうそこはペロポネソス半島だ。振り返って後ろを見ると、さっきの橋が綺麗に見えた。
 ペロポネソス半島は、古代ギリシャにおいて、その没落をたどることになった歴史のふるさとでもある。ペロポネソスの名は、スパルタとの30年にわたる戦争に付けられている。

4−6 ホテル着 (1930)
  ベストウエスタンヨーロッパ
              110号室

 第3の町パトラを通過してようやくホテルに着いた。
 30分後には夕食。
 ○野菜スープ、たら、アーチチョーク、
   チョコムース
 ○ワイン