8月12日(日) クタイシ ムツヘタ トビリシ(グルジア)
ゲストハウス発(0900)−昼食(1152〜1325)−スヴェティ・ツホヴェリ大聖堂(1420〜1525)−サンタブロ尼僧院(1528〜1550)−ジュワリ大聖堂(1613〜1650)−スーパー買い物(1708〜1730)−ホテル着(1803)−ホテル発(1900)−夕食(1920〜2040)−ホテル着(2105)
〈トビリシ泊〉
11−1 朝
朝も風は収まらず、1階での朝食となった。順はあまり食欲がなかったが、一応席に着いた。ただ、今日は昼間は肉だし、夜は中華料理だし、絶対に食べるのだという意気込みはすごく持ち合わせていた。
11−2 出発
まずはとりあえずゴリまで戻ることになる。久しぶりにスーツケースを積み込んでの移動となる。
この朝、例の偏屈爺が、バスの先乗りは我々Aグループなのにそれより先に来て前の席を確保していた。今日は違うから一旦下りて席を譲れと言うのにがんとして動かず、則とちょっとしたつかみ合いになった。周りのみんなが口々に間違っているからと言っても聞き入れず、結局周りがあきらめる形で決着が付いた。決着と言っていいのかどうかは大いに疑問だが、とにかく表面的には一旦収まった。これ以後、この爺は孤立することになるが当然のことだ。
11−3 道々
同じ道を通るので、お馴染みの風景が広がる。
陶器の村には、団体の客がいて大繁盛のようだった。パンの村はこの前と同じようにひっそりとしていた。しばらく行った先のハンモックの店もたくさん並び、その彩りがきれいだった。
途中果物を買うためにストップ。ここはスイカやメロンだけではなくネクタリンやリンゴ、トマト、ヘーゼルナッツなどがきれいに並んでいた。何人かは買い込んでいたが、我が家はウロウロするだけだった。中に果物売りの女性がいたので写真を撮ったら、順が一番欲しかったネクタリンを一つくれた。またもやラッキー。
11−4 昼食 (1152〜1325)
昼食はゴリの先日の店。餃子といおうか、小籠包いや大籠包のごときものを食べた店だ。ゴリ郊外の街道沿いにある。この間来たときに予告があったので、今日は肉が食べられるぞと楽しみにしていた所だ。まずは美味しいビールで乾杯。その後、ポテトサラダ、ハチャプリ、トマトとなすと卵の煮込み、そしてついにカバブ。この前大きな串刺し肉を焼いているところをみたので、あの串が何本来るのだろうかと思っていたら、皿に盛りつけられた肉が来てちょっぴりがっかり。カバブではなく、シャシリックというのだそうだ。焼き肉には変わりはない。タマネギが乗っていて美味しかった。則など、お腹の具合を無視して食べていた。
11−5 スヴェティ・ツホヴェリ大聖堂 (1420〜1525)
聖女シドニアがイエスの着ていた衣を抱いたまま亡くなり、その墓の所に杉の木が植えられた。その木を切って教会を建てようとしたが、7本目が天空へ上がって下りてこず、聖ニノが祈りを捧げてその木を下ろして教会を建てることができたという逸話が残っている。この木から樹液が流れ、人々の病を治したので、「命を与える柱」という意味のグルジア語が教会の名前になったという。
11−5−1 外観
まずは全体を見て回った。ぐるりと1周できるようになっている。
一番興味を持ったのは、これを完成させたエレグレ2世という王が、建築家アルサキッセが、2度とこのような素晴らしい教会を造らないようにとその両手を切り落とし、それをレリーフにして残したというもの。本当かどうかは定かでないが、そのレリーフはある。
11−5−2 内部
その後自由時間になったので、教会内部に入った。一応みんなでも先に入って説明を聞いたのだが、再度入ってみた。ここは撮影禁止だったのだが、日曜日で結婚式も行われておりその参列者はビデオや写真を撮ったりしているので、今回は大目に見てもらえるのかと都合の良い解釈をして我々も写真を撮った。
まずは聖水。奇跡の水だそうで、当時のまま。ただ周りの飾りは後世に付けたという。
次に聖衣を入れてあるというもの。その周りのフレスコ画は当時のままだそうだ。下に、液を流すイコンがあり、人々の祈りの中心をなしているようだった。
そして聖ニノ。これも祈りの対象となっていた。
他にも浮き上がった木を祈りで下ろしているニノの姿を描いたもの等もあった。木の根っこには聖女シドニアが横たわっていた。
11−6 サンタブロ教会 (1528〜1550) (事件第二弾発生!)
予定のコースにはなかったのだが、聖ニノが6年間生活をしていたという教会へ行った。門前では花束や樹液を売っていた。やはりニノを慕って訪れる人が多いということだろ。 入ると大きな木(樫の木?)の所にニノの十字架があった。その隣にはブドウの木があって、そこから樹液を取るのだそうだ。勝手に取られないように厳重に囲いがしてあった。その隣にある小さな教会がニノが実際にいた所だという。写真は後生に建てられた教会で、形をみてわかるように「スヴェティ・ツホヴェリ大聖堂」のスケールダウンしたコピーと思われる。このような関係の建て方はこの国では他にもみることができた。たとえば、ゲラティ修道院における、「主聖堂」と「聖ゲオルギウス聖堂」の関係もそうだ。だからこそ、「エレグレ2世が建築家アルサキッセが、2度とこのような素晴らしい教会を造らないようにとその両手を切り落とした」というような逸話が生まれるのかもしれない。
大きな教会の方を見ながら歩いているときにまたしてもどこからか石が落ちてきた。なんだこれは・・・と一騒ぎあった。
11−7 ジュワリ教会(1613〜1650)
スヴェティ・ツホヴェリ大聖堂からも見えたジュワリ教会は、聖ニノが十字架を立てたところだ。
まず塩湖の所でバスを一旦降りて全景写真を撮った。その横を車が次々に通りすぎていく。前の方にもたくさんの車が見える。かなりの人が来ているようだ。すぐ近くまで行ってみると教会の前は車でごった返していた。人気のある教会ですとは聞いていたが、すごい。結婚式ラッシュだ。
門を入ってまずはムクトバリ川とアラグビイ川の合流点を見た。ムツヘタの町を紹介するので何度か目にした風景だ。
その後中に入るとまた結婚式が行われていた。小声で話していたのだが、それでも参列者から注意を受けて、すぐに外へ出た。そこにはお祝いの席に出すのか、哀れ羊が引きずられていた。今の組の式が終わったらまた中へ、等と考えていたら、とんでもない。次から次に花嫁さんがやってくる。ここで式を挙げる人ばかりでなくとにかく結婚する人はここへ来るようだ。ニノはすごい。
それでも中を見るのが不十分だったので、押し合いへし合いの中何とかまた入り込んでともかくも十字架だけは写真に撮ってきた。
11−8 スーパーマーケット (1803〜1900)
この国の残ったお金を使い切りましょうということでスーパーマーケットに行った。
則の目当ては当然ワイン。だが、なかなか見つからず、ようやく見つけても分けがわからないので、丁度通りかかった店員に値段表と実物のワインを指さすと、店員も同じように値段を指さしては実物を、また値段を指さしては実物を、というように分かりやすく教えてくれた。おかげで持ち合わせているお金とその値段を計算して買える限りのワインを購入した。都合4本。32ラリだったかな。
それでも心配なので、レジでワインと持ち金全部を見せて「OK?」と聞くと笑いながら計算してくれて「OK」というので安心した。
11−9 難民ホテル
ホテルへ向かう道をわざわざメーン通りを通ってくれて、市内観光を兼ねた。お馴染みの難民ホテルも通ってくれたが、それはすでにスケルトン状態になっており大改修中だった。新しいホテルに生まれ変わるのだそうだ。なぜ難民が生じたかというと、旧ソ連の崩壊時に他の国に移植させられていた人たちが再び強制的に追い出されたために難民となったのだという。占領民というのは悲惨なものだと思う。その受け入れ先としてホテルを丸ごと当てていたのだという。その人たちのために、今では郊外に新しく団地を造っていた。
11−10 ホテル
またまた来ました。ホテルはシェラトン。305号室。この前と構造的には、同じ室内だ。
今日の夕食は外へ出て行くので、時間は1時間もなかったが大急ぎで風呂に入った。とにかく暑くてすごい汗をかいているのでさっぱりしたかったのだ。同時に洗濯もした。結構出発までバタバタした。
11−11 夕食 (1920〜2040)
今日の夕食は中華料理。そろそろこの国の料理にも秋が来ていたのでみんなで楽しみにしていた。朝から「何が出るかねえ。酢豚、餃子、小ろん包、エビチリ、八宝菜、麻婆豆腐・・・」等と予想しては楽しんでいた。結果は大外れ。
卵スープ。トウモロコシが入っていて美味しかった。ご飯、野菜炒め、特別注文のエビチリ、春巻き等だった。が、野菜サラダとハチャプリというメニューから見れば久しぶりに料理を味わったという感じで美味しかった。
ワインも飲んだ。
11−12 夜
夜のトビリシの町を楽しみながらホテルに戻った。
もう一度風呂にはいるつもりだったが、もう眠くなってしまったのでやめにした。ただ、洗濯したものが乾きそうもないので、ドライヤーでせっせと乾かした。
明日は国境越えで少し早いので、荷物整理をしてから寝た。