8月14日(火) エレヴァン(アルメニア)
ホテル発(0910)−ガルニ神殿(1015〜1115)−ゲガルト修道院(1135〜1225)−昼食(1330〜1440)−リプシマ教会(1510〜1530)−エチミアジン大聖堂(1537〜1655)−スヴァルトノツ大聖堂(1700〜1735)−夕食(1900〜)
〈エレヴァン泊〉
13−1 朝
アララト山が見られるかも知れないというので、夜明けを待って7時頃に屋上へ行ってみた。まだ夜は明けてなかったが、頭の上には雲もないようなので赤らんでくるアララトを想像して待っていた。
しかし日が昇る辺りは厚い雲がかかっていてなかなか太陽が顔を出さない。そのうちにうっすらとではあるがアララト山が見えるようになってきた。頭の上も雲のない青空が広がりつつあった。が、山頂までは見えない。スモッグなのか低い所には思い雲がかかっていてスッキリとしないのだ。
他の人も来ていたが、結局こんな物でしょうとみんな諦めて戻っていった。
それから朝食場所へ行ったが、時間を過ぎているのにまだ開いていなかったので、一旦部屋に戻ってから出直した。
13−2 出発
今日の観光は予定と順番を変えていくことになった。というのも、帰りの日のことを考えると遠くの方を今日終わらせてしまって明日は少しゆっくりしましょうということだ。なかなかいい考えだ。なら、何故最初の予定ではそうなっていないのだろう。それでも9時なのだからゆっくりの部類にはいる。
13−3 チャレンツのアーチ (0943〜0955)
アルメニアの詩人がアララト山を見ながら沢山の詩を残したという所で、彼の好きな場所なのだそうだ。そこに彼の詩を書いたアーチが作られて、絶好のビューポイントとなっている。
が、やはりこの時間になってもアララト山はくっきりとは見えない。残念。
13−4 活断層の村
れから活断層の村というのを通った。しょっちゅう地滑りをしていて道路の補修をし続けているというのだ。走っている道路も本来はまっすぐなのにゆがんでいるし、道横の石垣もずれているのがはっきりと分かる。そこで日本に協力してもらって何とか解決できないかを検討しているとのこと。うまくいくといいのだが、いつ大きくずれるか分からないので住民全員に移住を要望しているというが、住み慣れた土地を離れたくないということで実現は難しいとのことだ。
13−5 ガルニ神殿 (1015〜1115)
バスを下りるとまず神殿に直行した。我々のために女性コーラスを聴かせてくれるというのだ。行ってみると美しい女性が5人待っていた。アカペラだが音響もよいのか素晴らしい歌声だった。済んだ歌声でしばし聞き惚れた。歌が終わった後、写真タイム。グルジアでの男性合唱団のように自分たちのCDを売りつけるわけでもなくあっさりと引き上げていった。
さて、ここには、アザド川を利用して紀元前2〜3世紀に要塞が造られた。確かに崖の方を見ると玄武岩の切り立った崖で人が上るのは不可能だろうと思う。3方がこのような厳しい崖になっている。難攻不落の要塞のように見えるが、紀元59年にローマによって破壊された。
その後、76年にアルサケス朝のテイトリダテス王によって太陽神ミトラを祀るために建てられた。アルサケス朝はアルメニア人の王朝であったが、ギリシア文明やローマ文明の影響を強く受けていたためヘレニズム建築様式で建てられた、アルメニアに残された唯一のヘレニズム建築である。ただしこの神殿は1970年に再建された物である。正面の柱の下のアトラスの像や入口のレリーフがその名残である。イオニア式の柱は24本ある。キリスト教が入ってくるとやがてここは宮殿として使われるようになった。
神殿横にはかつて円形の教会があったが、その上に十字形の教会が建てられた。これは7世紀のものだが、1639年の大地震で壊れたため、土台部分が残っているに過ぎない。しかしそのおかげで下の円形の様子も見ることができる。この円形の教会というのも、アルメニア教会建築の特徴の一つだ。というよりも、円形の建物そのものが特徴的といってもよいだろう。この日の最後の観光で訪れた「スヴァルトノツ大聖堂跡」もその例の一つだ。
またここにはローマ風呂がある。モザイク画も部分的にではあるが残されていた。
13−6 ゲガルト修道院 (1135〜1225)
4世紀に聖グレゴリウスによって開かれ、12世紀にこの地に持ってこられたイエスを刺した槍を安置するために13世紀に大改築され、15世紀までここに置かれていた。この槍は今はエチミアジン大聖堂にある。
この教会は岩山を掘り下げて造られた教会である。岩を彫りぬいて聖堂、廟、僧房が築かれている。周辺の岸壁にはいくつものの穴があるが、これは昔の修道士たちが禁欲的な生活を送っていた場所だとのこと。
岩を彫り抜いたといっても中に入るときちんと教会内部の様相を呈している。
ザカリエ王プロシュ王の時代には王室の霊廟としても使用された所はレリーフも立派だった。
また、清水が流れてくる所や、音響が素晴らしく良い部屋などもあった。特にこの部屋では居合わせた婦人二人が歌を歌った(おそらくは聖歌)のだがそのきれいなこと。これが素人かと思えたほどだ。我がグループの人も歌ったが負けた。
13−7 昼食 (1330〜1440)
ビール2$×2。この国はすべてドルばらい。ただし、おつりはこの国の通貨ドラムで戻ってくる。
13−8 リプシマ教会 (1510〜1530)
ここも予定になかったコース。ただ下調べはしていた。こういう旅行では時としてこういうことが多々あるからだ。
この教会は7世紀ころの教会で、聖女リプシマと30人の聖女の教会だ。布教にきた女性たちの中のリプシマという女性に目を付けたときの権力者が何とかなびかせようとしたが拒否され、怒って石打の計で殺してしまったという秘話が残されている。日本でも同じような話があったなあ。
地下にはリプシマの棺とそのときの石などがあった。
13−9 エチミアジン大聖堂 (1537〜1655)
アルメニア正教の総本山。聖グレゴリウスの夢の中にイエスが現れ黄金のハンマーをうち下ろしたところに建てられた教会。イエスが降臨されたという意味を持つのだそうだ。初めは木造のバジリカ型だったが、後に石造りの十字型になった。ドーム5つは17世紀に増設されたもので、ドームのない部分は宝物館になっている。金槌の落ちたところには大理石の祭壇が設けられており、正面の祭壇よりもこちらの方が貴重であるなどと説明を聞きながら、全体が見えるところで記念撮影。
その後、中に入る。さすがに入り口の部分からすでに装飾は立派。中の写真撮影もOKだった。天井が高く大きく感じる。外から見るとドームが5つもあるせいで小さな部屋に分かれているように思えたが、中の部分は柱で仕切られているだけで一つの建物のように見えるからだ。写真には収まりきれない。
金槌の落ちた祭壇は、本当の祭壇の前にこぢんまりとして、あった。きれいに花々で飾られていたが、説明がなければ正面の祭壇を写しただけで済ませてしまいそうだった。
次の宝物館に入った。さすがにこちらは撮影禁止。
先ずはノアの箱船の破片といわれる木片。アララト山の見えるところでアメリカ人が発見したそうだ。13の木片の上に十字架を置き、ちょうど日本の仏壇のような観音開きの箱の中に納められていた。イエスを刺したヤリというのもある。手の平くらいある思ったよりも大きなものだった。
他に70kgもある聖水入れ、羊皮紙に書いた手書きの聖書などが展示されていた。
13−10 スヴァルトノツ大聖堂跡 (1700〜1735)
ここは本当に廃虚。残された柱などから昔を想像する遺跡だ。
起こりは7世紀。それまであった異教神殿のあとに新たに建てた教会で、円形をしていた。十字架は柱の上部分に刻まれている。3階だてて高さは45mもあったそうだが、925年の大地震で壊れたそうだ。ガルニ神殿の教会を造ったカトリコスネルシスがこちらも手がけたそうで、柱の十字架のところにさりげなく自分の頭文字を刻んで残している(そう説明を受けた。しかしながら、他の文字も明らかに刻まれており、後世のこじつけのような気もしないではない。他の文字の解説を求めたが、現地ガイドも分からないということだった。)。また、アルメニアの象徴、鷲のレリーフも4本の太い柱には残されている。右の写真は往事の復元図。すごい建物だったらしい。
その他にも住居や風呂、教会、台所、貯蔵庫、ワイン醸造所の跡などがみられた。
くさび文字もあった。
13−11 コニャック買い出し
ホテルへの途中、希望者だけコニャックの店へ行った。作って販売している店なので商品は確かだろうと、紹介してくれたのだ。
現地ガイドのルシーネとともに5人ほどで出かけた。たくさん並んでいる品物の中から、わが家は20年ものを2本買った。2本で170$。北海道の兄ちゃんは小びんを6本買いこんだ。後の人は値段がおりあわなかったのか買わずじまい。
それから先に共和和国広場で買い物をしていた別働隊と合流してホテルへ戻ってきた。
13−12 夕食 (1900〜)
夕食はホテルの外で、民族音楽をききながらということだった。
今日はちゃんとステージがあった。が、やはり客は我々だけだった。今日は飲み放題ということで、先ずはビールで乾杯。その後赤ワイン。素焼きの大ジョッキに入ってきたのだがお代わりをして飲んだ。結構酔っぱらった。
明日は帰国用のスーツケースにまとめなければならないのに、いいのだろうか、などという心配もいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
13−13 帰国準備
いよいよ明日は帰りの飛行機に乗る。ということでスーツケースに買ってきた物を詰め込んできっちりと仕上げる。と言っても、これすべて則の仕事。