2007年12月28日(金)
ハイファ・・・ (アッコー)(ツィッポリ)(ナザレ)(カナ)・・・ティベリア(ガラリヤ湖畔)
■朝食後、最初にハイファのカルメル地区より、地中海とハイファの街並みを展望します。
■その後一路、イエス伝道の舞台、ガリラヤ湖畔へ向かいます。
■途中、十字軍の時代に最も繁栄したアッコーでは、十字軍の聖ヨハネ騎士団の要塞跡、旧市街にご案内します。
■その後、保存状態の良いモザイク画が残るツィッポリにも立ち寄ります。
■イエスの故郷ナザレでは、受胎告知教会、聖ヨセフ教会へご案内し、カナでは、イエスが婚礼の席で水を葡萄酒に変える初めての奇跡を行った婚礼教会を見学します。
ガリラヤ湖畔泊 朝昼夕
3−1 朝
二人とも一旦2時頃に目が覚めてしまい、しばらく話してからまた眠りについたがそれでも、4時には起きてしまった。もっとも2時というのは日本時間では9時であるから、まだ体が慣れていないと言うことだろう。
軽い朝食を摂りに今日は9階のレストランへ行った。丁度太陽が昇るときだった。
7時45分に出発。今日の観光メニューは豊富だ。
3−2 バハイ教寺院からの展望 0753〜0801
ハイファはカルメル山の山麓に地中海に向けて広がるイスラエルで3番目に大きな都市である。右の写真で、俯瞰する写真の下に広がるのはハイファ湾。
このハイファという町は19世紀に興ったバハイ教の聖地でもあるそうだ。バハイ教とは、愛と平和を訴える教団で世界各地に広まり、特に中南米に信者が多いとか。かなりユニークな宗教らしい。たとえば、科学と宗教が矛盾した場合には科学に従うとか。ただし、この地イスラエルでは布教活動そのものは禁止されているのだそうだ。
さてこの本部なる地域は観光名所になっているらしい。山膚を使った、彼らが神聖とする19の数字になぞらえた上部9段、下部9段とその間にかららの創始者らの墓などがある1段を含んで19段の庭がある。その広い庭の手入れはすべてその信者たちによって行われているという。
またこの宗教施設の下に広がる町の一角は旧ドイツ人街になっていて、これまで見てきた町の様子と少し違う雰囲気を味わえる一体がある。
3−3 アッコー 0850〜1045 世界遺産
ガラリア地方西部、レバノン国境に近い町、アッコーの成立は紀元前20世紀に遡ることができる。紀元前3世紀、プトレマイオス3世(前246-222)が町を拡張したことから「プトレマイス」と呼ばれた。紀元66〜70年にローマに対するユダヤ人の反乱が起きた際には、ローマがここを軍隊の駐屯地にしていた。(アッコーはローマ総督府が置かれていた事実上の首都だたっと思われる。)
その後イスラム支配となり、12世紀には十字軍が征服し、エルサレムから追われた後、アッコーは彼らの首府とし、大いに栄えた。しかし1291年にマムルーク王朝の支配に入ってから次第に衰退した。1775年、アルバニア人のアフメッド・アル・ジヤザールがオスマントルコの知事としてこの町を統治するようになって、町は生気を取り戻し、モスク、隊商宿、水道抗など現在に残る多くの建物が作られる。1919年、イギリスが委任統治をするようになると、アッコーの要塞は牢獄として使用された。イギリスの弾圧に抵抗したユダヤ人の地下組織の戦士の中にはここで捕らえられ、処刑された者もいる。
アッコーの城壁で囲まれたところが旧市街で、世界遺産になっている。写真右は英語版Wikipediaからリンク引用。クリックすると拡大する。この拡大写真は町の様子をよく俯瞰している。
3−3−1 要塞
さすがに観光地で、沢山の観光客がきていた。やはりそのいずれもが団体客で、偶然日本のしかも、同じ旅行会社のツアーと出くわした。この会社、この時期に4本ものイスラエルツアーが出ているという。人気のコースらしい。
要塞の入口は、大きな石組みでがっしりと造られている。どこから運んできたのかと思ったら、この石は地元の石を使ったのだそうだ。それにしても、どこでもこの石の組み方というのは、どこの国でも同じようだが上手にやるものだ。
要塞は右の模式図のように四隅に監視塔があって、縦長のホールがその内側にあり、それgらはさらに内側中心部の中庭を囲んでいる。長軸方向の片側は城壁に連なり、反対側は堀が巡らされていた。
ここからb.c.12世紀の陶器が発掘され、その後の研究の結果、18世紀に外からの土でここが埋め尽くされたことが分かったという。陶器はその時の土の中にあったという。
3−3−1−1 ホール
まず入ったのが、ホール。この部分は2階にあたる。後に刑務所として使用された。
イギリス軍が入ってきたときにも同様の使われ方をし、ユダヤ人に対しては拷問などもなされたという。
その中で、脱獄を画策して地面に穴を掘り続けた者がいたが、あえなく見つかってしまったという。それもそのはず、ここは2階だったのだから、という笑い話のような話を聞いた。その後行った1階ホールの天井にその穴の名残が残されていた。哀れな話
3−3−1−2 中庭
四方を壁に囲まれた中庭に出る。高い建物で、4階まであったそうだ。そこへ続く階段もある。12mの部分まで埋められたとのことで、わずかだがその痕跡が残る。
右の写真で言えば、約グランドから三分の二程度は埋められていたと言うことになる。
3−3−1−3 騎士団参謀本部
下の部分は、ロマネスク様式で造られているが上になるとゴシック様式になっている。
フランス王朝の象徴である百合の紋章がうっすらとではあるが見ることができる。(皆がライトを当てるせいだろうかこけが繁茂している。)
3−3−1−4 地下通路
ガイドさんは下水道の跡と言っていた。ただ、その当時、トイレなどという物はなかったので、この下水道は生活排水を流したのだそうだ。ただ、実際に歩いてみると狭くはあるが人が通れるだけの広さがあるので、やはり戦略上の機能はあったのだろうと思う。
行き着いた所に、聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団・・医療のための騎士団)の教会の跡ではないかというのがある。ただ、現在はこれ以上の調査は出来ないと言うことであった。
3−3−1−5 トルコバザール
最後に土産物屋の中を通って地上へ出る。その先の細い通路にほんの数件、お店がある。ジュース屋の人が盛んにザクロのジュースを売り込んでいた。そのほかの店はほとんど閉まっていた。かつては賑やかだったのだろうか。今は寂しい姿をとどめているいったいだった。
3−3−1−6 ハマム
更に進むと、ハマムもあった。あいにくだがしまっていて工事中の様相でもあり、中をうかがうことはできなかった。
ここでも面白い話を聞いた。このハマム、日によって男女が交代するのだそうだが、ちょうど女性の日のこと。突然城塞の壁が壊されて捕らえられていたユダヤ人達が脱走を図った。その騒ぎにびっくりした女性達が裸のまま町に飛び出し、その後ろを囚人達が追いかけ、更にその後を警官が追いかけ、アッコーの町は大騒ぎになったと言うのだ。嘘のような本当のような・・・だという。
3−3−2 アル・ジヤザール・モスク
1781年にアフメッド・アル・ジヤザールによって建てられた美しい回教寺院。庭の北西には、ジャザールとその息子スレイマンの墓がある。また庭の床下には十字軍時代の貯水池があり、近年まで利用されていた。またこのモスクにはマホメットの髪の毛と信ぜられているものが保存されていて、神聖視されている。緑色の尖塔を持つ。
ガイドさんは、金曜日の礼拝があるから中には入れませんよ、と言っていたが、入口のおじさんはお金を払えば入れると言った。多分それも庭までのことだろうということで、写真だけ撮って先へ進んだ。
3−3−3 バザール
一般の人々が利用するバザールへ入った。アーケードの中、両側にびっしりと店がたち並ぶ。中でも食料関係の店が多く、魚や野菜の豊富なことには驚かされた。特に魚など、日本と比べても遜色はない。肉に制限がある分、魚は沢山食べられているのかもしれない。(※エビ・カニ・貝類・イカ・たこなどはコッシェルではダメ。ただしここはアラビア人地区なので魚屋にもこれらはあった。)
お菓子の店も多く、作りながら売っているというところもあった。
ちょうどパン(ラッファ)を作って焼いている店があった(左の写真)ので、中の一人が購入して皆に振る舞ってくれた。あっという間にできあがる。やはり焼きたてはおいしい。これはこれまでの食事ではお目に掛からない。やはりユダヤ教徒は食べないものなのに分類されるのだろうか。
3−3−4 ハーン・エル・ウムダン(柱の宿場)と時計塔
入口を入ると中庭を囲むように2階建ての建物がある。これは、いわゆる隊商宿で、1階部分が動物や商品を入れて置いたところで、2階が寝室部分になっている。これはアル・ジヤザールが造らせた物で、当時のままらしいが、ここにある高い塔は、1906年にトルコのアブドゥル・ハミッドの在位25年を記念して建てられたもの。国中に40造られたうちの一つで、現存する物はほとんど無いというから貴重な物であることに代わりはない。
このアル・ジヤザールという人、かなり残酷な人で、実はこの名前の意味は「切り刻む」ということで、本名は別だったらしいが、人々の通称としてこう呼ばれたのだという。気にいらなければ耳や目、片手片足などを容赦なく切り落とさせたというので、家来にはそういう人が沢山いたらしい。また、ハーレムのような物も存在し、好き放題で、気に入らない女性は殺してしまったという。
3−3−5 海と城壁
青い海の向こうには、ハイファの町が見える。
さて、この城壁、時代的にはもう必要のない物だったというが、先のアル・ジヤザールという人は、何でも大きいのが好きということで、造らせた物の一つなのだという。まあ、そのお陰で今こうして観光施設になっているのだから、何とも・・・
この城壁の上は歩くことができる。城壁の上に出ると、その壁の厚いことが分かる。最大幅で10メートルくらいはあったのではないだろうか。先にも書いたように、アル・ジヤザールの性癖のなせる遺物か。
3−3−6 テンプルム(テンプル騎士団の城砦)
今は海の中に沈んでしまっているのだが、このときはたまたま引き潮ということが幸いして、その礎や柱の土台が見られた。かなり堅固な城砦だったらしく、ここが1291年にイスラムにより落とされたと聞いて、周りの騎士団も戦意をなくしてヨーロッパに引き上げてしまったといういわれを持つ。
当時は今よりも1.5m海面が低かったそうだ。
3−4 ツィッポリ 1130〜1250
ヘロデ王の時代以来、ツィッポリは4万人もの人口を擁するガリラヤ地方 の首都として栄え、その4km西にあるナザレは寂れた田舎だった。聖母マリアの両親のアンナとヨアヒムはこの町の出身と伝えられている。
エルサレムの神殿崩壊(70年)の後、ユダヤ人たちは各地でシナゴーグを建て、ラビたちによって、ユダヤ教は守り伝えられていくことになる。ツィッポリでは、3世紀初めからの18ものシナゴーグがつくられたということです。
3−4−1 シナゴーク(バシリカ様式)
当時の建物が残っているわけではないが、床のモザイクの一部がきれいに残されている。12畳くらいの広さの中にシナゴークらしく、祭壇に近い方にはユダヤ教に関するモザイクがある。が、中央部分にはローマビザンチンの影響とかで大きな円の中に太陽神やそれを取り巻く12星座が描かれている。ローマ時代になってかつての幾何学模様だけだったモザイクが多様化されて、いろいろな模様が描かれるようになったのだという。その次に、アブラハムの話が描かれていた。
外へ出るとその周りにはユダヤ人の集落跡があった。ミクベと呼ばれる入浴施設があると、そう判断されるのだそうだ。ユダヤ人は一日少なくとも1回はこのミクベという水槽で沐浴して身を清めるのだそうだ。このミクベはこの後もづっとついて回る、ユダヤ教必須アイテム。
3−4−2 ローマ劇場
階段を上っていくと、小さな劇場に出る。北側斜面を利用して造られている劇場で、直径は72メートル。1階部分は別として2階部分は当時のままだそうだ。4千人ほど収容できた。
3−4−3 ユダヤ人の集落
途中で木々の間からわずかに見える「アンナとヨアヒム(聖母マリアの両親)の修道院」を見て、ユダヤ人の集落跡に行く。かなり広いが、石組みのしきりが残されているだけで、想像も出来ない。一体どのような建物だったのだろう。高さは?間取りは?一家族の人数は?等々何も分からない。
写真後方に見えるのは次に訪れる「十字軍時代の城砦。
3−4−4 十字軍時代の城砦
テンプル騎士団のであることは、入口上部のアーチの形で分かるのだそうだ。パルコファームという。石棺の再利用もしていた。写真手前の白っぽく見える石は石棺の再利用したもの。
3−4−5 バッカスのモザイク
邸宅の中の、おそらくは「饗宴」を行ったであろう、そのバッカス(デュオニソス)のある建物にはいる。 ここの見どころは、何といっても「ガリラヤのモナリザ」と呼ばれる美しいモザイク。特に日に染まった赤いほほが秀逸な表現として有名らしい。
3−4−6 ビザンチン時代の集落
車道と歩道に分かれている。轍のある車道は当時の物だそうで、でこぼこで、歩きにくい。それだけ行き来が盛んだったということなのだろうが、さぞや馬車も走りにくかったろう。両側の歩道にもきれいにモザイクが施されていた。その両側には商店が建ち並んでいたそうな。
3−4−7 アマゾネスのモザイク(大邸宅)
大きなカルどの脇にあるナイルハウスと名付けられた大邸宅にも沢山のモザイクが残されていた。エジプトの恵み、ナイルメーターなどは一つの部屋の床を飾っていた。他にもアマゾネスのハンティングの様子を描いているモザイクもあった。
ところでこれらのモザイクは一つのかけらが非常に細かい物で、色の種類も多いことからモザイクとしては質が高い方であるといえるそうだ。
3−5 昼食 1325〜1420
昼食は、キブツの経営するミズラというレストラン。この旅行社でよく利用するレストランだ。ここではお盆を持って並び、何種類かあるメーン料理の中から自分で選んで盛りつけてもらう様になっている。肉料理も何種類かあって楽しみだ。同時に飲み物もお盆の上に乗せて、最後に会計をする。ここのスペアリブは味が良くしみ込んでいて美味しかった。
3−6 ナザレ 1440〜1655
住民の多くがアラブ人キリスト教徒だが、イスラム教徒・ユダヤ教徒も多く住む。ナザレの名は、タナハには一度も出てこない。ナザレは当時としては目立たぬ、さほど重要ではない町であったようだ。イエスの時代も推定人口400人ほどで非常に貧しい村であり、人々は洞窟住居に寝起きしていた。マリア受胎告知を受けた「家」も、その後家族が住んだヨセフの「家」も同様だった。
マリアが大天使ガブリエルに受胎告知を受けた場所がここであり、また、エジプトより戻ってから伝道に立つまの30年間をイエスもここで過ごした。
4世紀になるとヨーロッパのキリスト教徒がこれらの故事を慕って巡礼に来るようになり、いくつかの教会が建てられた。その後、ナザレは7世紀のイスラム教徒支配下に入り、11世紀には十字軍の占領、そしてまたイスラム教徒の手に戻る。
17世紀、オスマントルコの支配下にあった時に、フランシスコ会の修道士がここに住み始め、再び多くの教会が建てられた。1948年にイスラエル軍が奪還するまでは、イギリス委任統治軍の司令部が置かれていた。
3−6−1 受胎告知教会
1969年、マリアが受胎告知を受けたと伝えられる洞窟の上に完成したフランシスコ派の教会。ローマ皇帝コンスタンティヌスの母ヘレナが最初の建物を建ててから、ビザンツ時代や十字軍時代にも教会があり、いつの時代もここは聖地となっていた。
臨月を迎えたマリアはベツレヘムへ出かけた。実はヨセフはダビデ家の子孫であり今の戸籍調査に応じて戸籍登録のような物をするために、ダビデ一族の戸籍簿があるベツレヘムまで行く必要があったからだとか。
またある説では、ユダヤ教の農業の歳時記祭りが年三回(春〜秋)行われるが、それのためにエルサレムに赴くが宿泊場所が無くやむを得ずベツレヘムまで移動したがそこでも宿が見つからなかった。何れにせよ、ベツレヘムまで来たときとうとう出産の時となり、そこで馬小屋になっていた洞窟住居を借り、そこでイエスを授かった。これがイエス誕生秘話。
祭りも戸籍調査も冬に行われたという事実はない。
しかしガイドのIさん曰く、イエスの誕生日は12月25日ではないか。これは矛盾していると。これはよく指摘される点だ。
さて受胎告知教会の1階はマリアの家。2階は礼拝堂になっている。
3−6−1−1 西側
周りの回廊の壁にマリアとイエスの絵。世界各国のカトリック教会から贈られた、殆どがモザイク画。それぞれのお国の特徴が表されていて面白い。
壁には上にガブリエルとマリアの受胎告知の場面、下には、左からマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが描かれている。
また、エルサレム十字の下に両腕を組んでいるものは、フランシスコ教会のシンボルマーク。左手がイエス、右手が聖フランシスを表している。手に穴が両者とも開いているが、キリストのそれは処刑時のものだが、その晩年のフランシスに現れたというスティグマ(額の中央に十字架が現れるなどの現象)を表現しているという。
入口のドアには、イエスの一生のレリーフが施されている。この図柄は左受けから下に行き右上で終わるU字形でイエスの一生が描かれている。イエス馬小屋で誕生・年を逃れて家族3人エジプトへ向かう・父の大工の仕事を手伝う・洗礼を受ける・山上での説教・十字架のそれぞれの場面。
3−6−1−2 1階
マリアの家とされる1階は、実は1世紀のシナゴークの跡。写真で、アーチがあるあたりの壁がそれ。その奥にはミクベもある。この場所に最初の教会が建てられたのは3世紀 で、ユダヤ教会堂の様式にのっとったシナゴーグでもともとあったとのこと。写真右上が東側で、アプシスとよばれる半円形の部分が残る。少し薄暗いが十字架がかかっている。赤いローソクをもした灯火のある柱もビザンチン時代の物。その奥の柱は十字軍時代の物。
人々はつまり、北を向いて祈っている。これはこの中にある洞窟が、マリアの家と言われているから。そこには祭壇が置かれ、ロ ーソクの火は絶やすことがないという。丁度ミサが行われていて、近付いて確かめることができなかった。
3−6−1−3 2階
正面の祭壇にあるのは、三位一体を表す世界最大のモザイク画。大きく描かれているのはイエスとペテロ。その後方にひっそりと座っているのは、青い服のマリア。この祭壇の柱の組み方は、マリアのMを模した形になっている。
ここにも受胎の場面を描いたモザイク画が多く展示されている。ここに日本の細川ガラシャをイメージした日本の長谷川路可画伯による「花の聖母子」の物がある。ただ、長谷川路可がこれを完成させたのではなく、原画を基にして作ったものだという。人気になっていると言うが、外にある物に比べると大きさもゆうに4倍近くにっている。着物の袖のところがモザイクではなく3sの数千個の本真珠を使っているという。
3−6−2 聖ヨセフ教会
フランシスコ会により、マリアの夫ヨセフが大工の仕事をしていたといわれる場所に建てられたこぢんまりとした教会。12世紀初頭の教会の後に1914年に建てられた。
受胎告知教会からすぐの所にある。ヨセフは父とされるが、実際にはマリアは処女懐胎なので、名のみの父親。それでもきちんと父の役割を果たしたらしい。入口の壁には、親子3人のレリーフが刻まれている。
地下にヨセフの住んでいた家とされる残骸が残っている。ここが聖家族親子三人が暮らした場所という。と言っても、先の馬小屋の話にもあたように、この時代の貧しき人々の住まいは基本的には洞窟住居。ただしミクベ(左写真)なども残っているので、ユダヤ人住居であったことは間違いのないところであるとのこと。
ところで父ヨセフの職業であるが、大工と言うことになっておりよくのこぎりを持つ姿が描かれているが、この時代に木は貴重であり、また土地柄少なく、実際は石の大工つまりは石工だったらしい。多くのヨセフの絵は誤解に基づく?その後の人々の創造物?
さて下の三枚のステンドグラスは中央がマリアとヨセフの結婚の場面、右側が悩むヨセフを慰める天使ガブリエル、左は臨終に際しマリアとキリストに看取られるヨセフを表し、教会下の洞窟住居跡を飾っている。
3−7 カナ
カナはイエスが初めて奇蹟を起こした場所として知られている。それを記念してカナには三つ婚礼教会があるそうだ。1つめは通りがかりに見たギリシア正教会の物。小さくて、可愛らしいというよりは見窄らしい感じ。2つめはこれから行くフランチェスコ会の教会。後の一つはギリシャカトリックの婚礼教会。ギリシャカトリックの婚礼教会はあまり解説書などにも出てこない。写真はギリシア正教のものだが、ここには奇跡を起こした石の水瓶のうち、二つがあるともそこの修道士たちは言っているとのことだ。
3−7−1 婚礼教会
ギリシア正教会と道をはさんでデーンと聳えるように立っているのがフランシスコ教会の物。緑色の二つの塔は、新郎と新婦を表している。シナゴーク跡の上に建てられたビザンチンの教会だ。
当時ナザレに住んでいたマリアは(おそらく近親の)婚礼の席に呼ばれカナに、イエスおよびその弟子を連れて出かけた。ナザレの北東6qほどのところにカナはある。現在のユダヤ人の結婚式は一般に何百人もの招待客を呼び、結婚の儀式の後は大騒ぎになる。たぶんイエスの時代も同様であったたのだろう。今は少なくなってきたが、そうした祝宴はシナゴーグの中庭を使って行われることが多かった。実際ここでもシナゴーグの跡が見つかっている。さて宴もたけなわになったが、あいにく用意していた葡萄酒が無くなってしまった。新郎や世話役が困っているのをマリアは見かねて、イエスにあなた何とかしなさいと命じる。イエスは「まだ時が来ていない」と奇跡を起こすのを一旦は断る。というのは、その日はイエスが洗礼を受けてまだ三日目のことだったから。しかし結局マリアに押し切られることになる。
結婚の儀式には6つの石の水瓶がおいてあった。これは本来は手洗い用。ミクベでも分かるように、ユダヤ人は清浄好きで、今でもレストランの入り口には水道が用意されていることが多い。そして二つの取っ手付きの容器がおいてある。これは手洗い用。水を汲んだら、右手で左手に水をかけ、左手で右手に水をかける。ついでに解説すると、何故石の水瓶かと言えば、ユダヤ人の考えでは石の食器は特別であって、瀬戸物の食器が汚れると一定の儀式を持って清浄にしなければならないが、石おなじの食器はそういうことをする必要がないとされている。石の食器が出てくればユダヤ人集落とまず疑ってよいそうだ。さてイエスだが、使用人たちを使って6つの石の水瓶に満タンに水を張らせます。そしてその石の瓶の水を汲んで世話役のところに行かせた。世話役は事情が分からなかったが、それがとても品質の高いワインであることを知り、新郎に向かって「普通は皆が酔っぱらえば品質の悪いワインを出すのにあなたはこのようなよいワインを残しているなんて!」と感心したという。・・・これがイエスの起こした最初の奇跡であった。
さてその奇跡の場所として建てられている教会は1878年で、この建立者の古里にちなんで、ザルツブルグにあるカテドラルを模したもの。さて婚礼教会の中に入ってみよう。再初に地下(クリプタ)に降りていく。ビザンチン協会・十字軍協会の残骸が転がるだけで、特に何もないが中央に大きな石の瓶がおかれている。大切にカバーまでされている。地下に行くとイエスが奇跡を行った時代の物と言われる大きな水瓶があった。ガイドさんは、決してこれで奇跡を起こしたのではないのですよ、と言っていた。この石は直径1メートルもあるから、このようなものを手洗い用の水瓶に使うということは考えられないので、これは奇跡を行った水瓶ではないといおうガイドさんの言葉はあたっていると思われる。何らかの容器のようにも思えるが、単に石にくぼみがあいているだけのようにも思われた。さらに奥に進むとシナゴーグ跡(礎石部分)と思われる遺跡をみることができる。ただしこれはイエスの時代ではなく、4世紀ビザンチン時代のものだ。このレベルが当時のグランドレベルということになる。この下に更にイエスの時代のシナゴーグ跡があり、このビザンチン時代のシナゴーグ跡に6世紀のビザンチン時代の教会が建てられ、十字軍の教会があり、更にその上に現在の教会が建てられているという構造だ。この遺跡がシナゴーグと思われるのは、ミクベなども見つかってはいないが、(もう石器時代ではないのに)先にも書いたが石の食器類があることなどから類推してのことなのだそうだ。
一階部分にあがる。正面のアプシスに掲げられてイルのがイエスが婚礼の時に奇跡を行った場面を描いたもの。白い衣赤いマント姿がイエス、青いドレスはマリア。天井に四隅をくくられた布があるがフッパーというものだそうだ。全体像の写真のなかで花が生けられているのが壺の複製。これは陶器だが、こういったもののが当時使われていたであろうと言うことのようだ。写真を取り損ねたが、ここにはアラム語が書かれたシナゴーグの床のモザイクもある。アラム語はイエスの時代前後にはオリエント地方の汎用語になっていた言葉だ。イエスもヘブライ語とともに口語であるアラム語を話していたと推定される。このアラム語は今でもシリアのマールーラ村というところででは実際に使われており、教会の説教でアラム語を聞いたことがある。その教会の写真をついでに載せておく。繰り返すが、これはシリアのマールーラ村のキリスト教ギリシア正教の教会の参考写真。シリアでも少しへんぴな所と言うか、片田舎に建っていた記憶がある。
<現代ユダヤの結婚事情>さてユダヤ教における今日の結婚式の一般的な姿を見ておこう。結婚の儀式は最初に前述したフッパーという四本柱の家のような形のものの下で(夫婦が一つ屋根の下で誓いをてたるといったい見合いがそれには込められている)、何かの交換、普通は指輪の交換をする。そしてラビ(ユダヤ教の律法学者)の後を継いで、宣誓の言葉を述べる。さらに新郎はラビに付き添われ特別なことを書いた宣誓書を作る。内容は、もし離婚した際には金品いくらいくらを支払うと言ったことが書かれているという。昔は離縁された女性は非常につらい立場に立たされることになるので、そうしたことが行われたらしいが、今は形式的なものになっていて実行されることはまず無いという。この宣誓書はラビによって朗読され、その内容に人々は喝采をすると言う。ちなみにイスラエルにおける世俗的ユダヤ人ほかの離婚率は現在50%で、非常に高い。
さて日本の三三九度と同じように、銀の杯に入れた葡萄酒を新郎新婦が呑み合うという儀式が引き続き行われる。そしてさらに新郎は、アルミニューム箔で包んだワイングラスを足でがしゃんと割る。これは日本のお葬式の時に使者が帰らないようにと茶碗などを割るのと趣が似ている。これは紀元後70年にエルサレムにあった第二神殿が崩壊したが、幸せな結婚式でもその悲劇は決して忘れはしないと言うことを誓っているらしい。その後はあついキスをして、飲めや歌えの宴席に移る。今日平均的な招待客の数は300人に達する。費用は300万くらいかかる。これは平均月収の劣るユダヤの人たちにとっては、大きな出費に違いない。
3−7−2 カナのワイン
奇跡と言えばやはりそのワインを試してみなければならない。向かい側にそれを売っている店があるというので、みんなで押しかけた。店の方も心得た物で、すぐに試飲させてくれた。昔のポートワインのような甘いワインだった。我が家は13ドルなりで一番いいのを購入。買ったのは我が家だけだったように思う。こういうのにお金は惜しまない則方式だ。日本語も片言で店員がいる。実際にイスラエルでワインを作っているかだが、ゴラン高原は質のよいブドウを作るワイナリーがたくさんあると言うことだ。外では爆竹の音が盛んにしていたが、これはクリスマスのなのこりの子供の遊びだったらしい。
左側に見えてきた小山が、カルネイル(二つの角の意味)ヒッティーン(小麦)という古戦場。昔火山で噴火して山頂が窪んだということと、麓に小麦畑が広がることから由来している。
1187年7月4日、サラディーン率いるイスラム教徒軍と十字軍が戦い、十字軍側が壊滅的な敗北を喫した場所だ。この戦いによって、第一次十字軍帝国が滅んだという歴史的な場所だ。残念ながら陽がかなり暮れてきたので写真撮影には向かない時間になっていた。右の写真(絵画)は日本語版ウイキーペディアからの転載。また左写真は翌日山上の垂訓教会からの遠望写真。右側の山がそれと思われる。
3−8 シャバット
明日は土曜日ということで、ユダヤ教徒立ちの安息日(シャバット)が夕暮れと共に始まる。イスラエルでの話題の一つとして、シャバットは欠かせない。シャバットは、「神がこの世界を6日間で作られて7日目にに休まれたという」というタナハの一節に由来する。神の偉業を自分に再認識させると言うことのようだ。
シャバットはいつ始まるかだが、三つ星が見えたら始まり三つ星が見えたら終わりと言うことになっている。しかし現在は科学的に日没時間を計算し、新聞などにもやや早めの時間が掲載されるという。イスラエルも日本のように南北に長いので、エルサレムと紅海を望むエイラットではそれぞれ違う時間が掲載されていると言うことだ。安息日入り前には一家の主婦は二本のローソクに火を灯し、安息日と他とを聖別する。したがって新聞にも少し早目の時間が記されている。
安息日にはすることしないことも決まっている。することだが、家族団欒が主なもの。大人になっても実家に帰り楽しい夕食を採るなどして過ごす。
しないことだが、「創造行為はしてはならない」ということになっている。我々は安息日というと、休む日と思いがちだが、これは神が休まれた日であって、「人間は天地創造に思いを馳せ働いてはならない日」なのだそうだ。これはユダヤ教独特の考えであり、イスラム教の金曜日やキリスト教の日曜日のように働かなくてもよい日というのとは大きく違う。これらでは、働いてしまっても問題はない。
ちなみにキリスト教の日曜日はイエスが復活した日に由来し、イスラム教の金曜日は宗祖もハメットがメッカから迫害を受けてメディナに脱出した日とされる。しかしその根底には、ユダヤ教の安息日を避けるということが根底にある理由ら市とも言われている。
そういうこともあって、火を事前に点ける(もともとあった火を移すのは構わないらしい)。ガスをつけてはならないし、車もエンジンも起動することはできない。もちろん世俗的な人(こちらのほうが多い)は車を走らせるが、路線バスや鉄道などの公共機関はこの間とまってしまう。これは安息日は守るという国の方針による。国営航空であるエルアール航空も安息日には飛行機を飛ばさない。電気のon/offも駄目だから、宗教的な人たちはこの間必要な電気は事前に点けっぱなしにしておく。これをいちいち気にしているのは大変ということで、「シャバット時計」という機械があるらしい。予め設定しておけば、勝手に点灯して消えてくれるらしい。同じような機能の空調のシステムをのちに見た。
宗教的に厳格な人は、トイレットペーパーをちぎることも創造行為とみなしている。それゆえに事前にこうした人はトイレットペーパーをいくつもちぎって用意しておく。またホテルではティッシュペーパーのようなものをこの間は用意しておく。
もちろん創造行為ということで、セックスもご法度ということらしい。
料理も火をつけることはできないので、それでは一家団欒の時も冷たいものばかりを食べるかといえば、そうではない。シャバット前に料理は作っておいて、電気プレートを利用して保温し続けているということだ。もちろん、カライ派などの厳格な人たちはこういった手はだめということで、冷たい料理だけを食べるという。食べ終わった食器を洗うこともできないらしい。
もちろんこうしたことは宗教的な人たちの行っていることであり、グレーゾーンの人たちは個人の問題で、そのいくつかを実行して済ませているらしい。
シャバットについては、日本語版ウイキーペディアのほか具体的な生活上の様々なことについてはミルトスのページが面白い。
3−9 ホテル 1725 Holyday Inn Tiberias 505号室
バスはそうこうするうちにティベリアの町に入った。ティベリアの町はヘロデ・アンティパスによって1世紀に作られた町。当時のイスラエルのローマ総督はイエスの処刑に同意したピラト。ヘロデ・アンティパスはヘロデ大王の生き残った三人の息子の一人で、ガラリア地方の分割を受けていた。当時のローマ皇帝はティベリウスであり、ティベリウスに捧げる町という意味で、ティベリアと名付けた。この地は元々は墓地が多かったところらしく、ユダヤ人たちは初め入植を嫌ったが、ヘロデ・アンティパスは都市基盤の整備と免税という政策をとり、次第に栄える町になったという。またこの町は70年の神殿崩壊以前からユダヤ人がづっと住み続けている(と伝承されている)四つの町の一つでもある。後の三つだが、エルサレムと、エルサレム南方60キロ今のパレスチナ自治区内にああるヘブロン、それにこのティベリア北西山岳地帯のスファット。またこのヘロデ・アンティパスはイエスの洗礼者ヨハネの首をはねた人物としても有名。この話についての詳細は明日。
ホテルは湖畔沿いに建てられている。ただしそのことが分かったのは翌朝で、この日は宿入がだいぶ遅くなったので、定かには分からなかった。
ところでシャバット期間中は宗教的な人はエレベーターのボタンも押すことはまかりならないらしい。そのためにホテルにもシャバットエレベーターというのがこの間出現する。宗教的な人はエレベーターに乗ろうにもボタンが押せない。また階を指定することもできない。そこで、各駅停車のエレベーターがその間出現する。古いホテルなどこうしたシステムがないところでは、彼らは我々のような非ユダヤ教徒の出現をひたすら待つことになる。一時ホテルのエレベーターが止まったのもこのせい?レストランに出向くのが遅れた人もいた。