2008年1月1日(火) 曇り 最高気温21℃

エイラット エルサレム エルサレムについてはこちらを適宜ご利用ください
■朝食後エルサレムに向かいます。
■着後、エルサレム市内観光にご案内します。旧市街を一望するオリーブ山、イエスがユダに裏切られる前に最後のお祈りをしたゲッセマネの園、万国民の教会、イエスが十字架を背負いゴルゴタの丘まで歩いた、ヴィア・ドロローサ、聖墳墓教会にご案内します。
                                        エルサレム泊    朝昼夕

7−1 朝
 夕べ花火騒ぎがあったわりには普通の目覚め。バゲージダウンと朝食開始の時間が同じなので、まずは荷物を出してからゆっくりと食事会場へ行った。このツアーのメンバーは皆ほぼ開始時刻には揃う。いつもなら少しずつ脱落者が出るのだが、今回は全くそのけは無し。皆元気だ。勿論我が家も今回はお腹の調子もグッド。朝食時かろうじての初日の出を見る。
  7時45分に出発。

7−2 道々
 今日は、エルサレムまで長い道のりになる。添乗員氏が我々と後二人を前方席の番と指定する。昨日までの一番後ろから一番前(前列から二番目)になると、景色がだいぶ違う。
・日本企業発見。日本語の文字でアピールしているところが日本らしいといえば日本らしいが、日本人以外の誰が分かるのだろうか。ドナリエラというカプセル栄養剤をここで作っているらしい。
・死海は年に1.8pも移動している。ヨルダン側プレートは北へ、イスラエル側プレートは南へということで(ヨルダン地溝)、今現在で105qもずれているのだそうだ。そのうちにそのひずみを直すために大きな地殻変動があるのではないかと思われる。
・08:13・・再び動物保護の動物園を通過。また、ダチョウしか見えない。
・国道90号線をひた走る・・ヨルダンからエジプトまで478q続いている。
・08:45・・エジプトから101q地点。ずっと右側がペトラ。昔、どうしてもペトラを見たかった人が、ここから命がけで行くこともあったという。
・安息年・・アラバ渓谷地帯は、地下水に少し塩分が含まれているが、それがかえって野菜自身の糖分を引き出すことになって、盛んにビニールハウスなどで野菜が育てられている。その仕事に従事するのは外国の労働者だそうだ。イスラエルは失業率が高いが、こうした仕事に従事するのは嫌われているためだという。今年は、7年に一度の安息年に当たり、本来は農業をしてはならない年なのだそうだが、やはり抜け道というものがあるようで、沢山のビニルハウスが並んでいた。その抜け道というのは、安息年を守らなければならない土地というのは、聖地イスラエルにあって且つユダヤ人の所有地に限るとしたルールを取り決めた。この年になるとアラブ人に一旦土地を売る。そしてその土地を借りるのだ。こうすればそこで働いているユダヤ人は雇われのみということになるので、耕作を引き続き行っても構わないという。また勝手になってしまう果物などは、架空の裁判所を作り、裁判所から派遣された農民という形をとり、農民たちは派遣料とか運搬料という名目で売って得たもうけ分を受け取る。また、高床式の栽培場を作って、土地自体は休ませるという手も使われている。しかしながらこうした安息年に対するずるがしこい行為は、安息年毎に厳格なユダヤ教徒からは批判が出ているとのことだ。不買運動なども行われているという(輸入された野菜やアラブ人が作った野菜などを買う)。つまり、我々は毎日貴重な野菜を食べているということになる!
・日本に対するイメージ・・・いつかはいってみたい国の一つになっている。実際に日本に行ったユダヤ人が最初にびっくりすることは、人の多さにびっくりするとともに、あれだけ人がいるにもかかわらず列車の待ち合わせなどのホーム等で、何でグチャグチャにならないのかと驚くという。それからゴミなどが少ないという清潔さ。細かいところまで気を配るという繊細さ。緑の多さ。川とか滝とか、降る雨の多さとか、水の豊富さ。物価が結構安いこと。列車の正確さ。時刻の正確さもさることながら、サービスの良さと人々の勤勉さ。それからきちんと並んでいるところにドアがくること。人々が降りてから乗るというマナーの良さ。・・・こういうことに非常に驚くという。
・09:03・・香料の道を通過。
・09:10〜09:25 トイレ休憩。マックがあった。この国の道路沿いにはマックが多い。食事制限の多いこの国で、マックはどんなハンバーガーを作って売り出しているのだろう。・・・コッシェルをマックは守っていない。したがってチーズバーガーが存在するそうだ。逆に言えば、それだけグレーゾーンのユダヤ教徒が多いということなのだろうか。それともイスラム教徒用?
・09:57・・ネゲブ砂漠からユダ砂漠へ入る。
・10:00・・死海工場。再び死海の横を走る。死海の塩からカリウムや臭素、その他マグネシウムを作り出している。カリウム化合物の主な目的は肥料。臭素の生産高は世界2位とのこと。メッキ産業、水の消毒、農薬にも使われる。農薬としての利用はオゾン層破壊につながるということで、世界的に禁止になっている。
・10:05・・ソドムの山沿いに走る。死海の底がヨルダン側から押し出されて隆起したもので、すべて塩。亀裂や洞窟が随所に見られるが雨が降ると溶け出すためだという。洞窟にはいることも、山を削ることも禁止されているが、落ちている塩なら持ち帰っても良いと言うが、誰もそんなことはしなかった。ただ、実際になめてみて、「本当に塩だ。」と確かめた人はいた。則もその中に入っていたのは、言うまでもない。
・10:10〜10:30・・ロトの妻の柱。旧約聖書にある「神がソドムを滅ぼすときに、折角助けたのに神との約束に背いて後ろを振り返ってしまったために石の柱にされてしまったロト(イスラエル民族の祖の甥に当たる)の妻」という逸話から名付けられた。
・10:30・・エンポケック通過。18℃。
・10:40・・マサダ通過。北の宮殿が見られた。改めてこうしてみるとすごいところに造った物だと思う。
・10:47・・温泉地通過。イスラエルにもやはり温泉というものがあるそうだ。ただ、日本のように裸では入りませんと言うことだ。
・10:52〜11:10・・トイレ休憩。ここはあらかじめトイレ券という物を買ってからトイレに入る。1シェケル。だいたいこれが相場だ。
  ここにソドムのリンゴの木があって、1つだけ実がついていた。数日前にガイドさんが中を割ったのを見せてくれた。ここでは1つだけ実が付いていた。触るとプニョプニョしている。この写真は12月30日に載せた。
・11:15・・右側にはまだ死海が続いている。このあたり、湖畔に大小の穴が沢山あいている。死海の水が干上がってきていることと関係しているらしい。死海沿岸には土の中に水の層と塩水の層があるという。塩水の方が重いので、塩水の層が必ず下にある。死海の水位が下がってくると、土中で水が干上がる際に塩の結晶の層が出来る。その上に真水の層の水が降りてきて、地面がすかすか状態になり、カンボとという現象が起こるらしい。近年の出来事であり、一時期激しかったときには、観光客の足も遠のいたほどだったという。突然陥没してしまうのだそうだ。ということで、このあたりは危険なので、死海にはいることは禁止されている。大小600あまり報告されており、直径が25メートル深さが20メートルというものもある。国道90号線にもあいたこともある。
・11:22・・検問。これからヨルダン川西岸を走ることになるので警戒地域にはいる。と言っても何もあるわけではない。バスも一旦停止して、「やあ」という感じで挨拶をして終わり。簡単なものだ。ただこれがパレスチナ自治区のプレートナンバーだとこうはいかない。
このあたりから死海湖畔に葦などが生えだしている。何カ所か淡水がわき出してきているのだという。しばらくそんな状態が続いた。
・11:34・・-390m。1900年当時の死海の水位が、バスに乗っている我々と同じ目線の高さにある。イギリスの調査隊が記録したものだ。第一次世界大戦で、オスマン朝からイギリスが排除されるまでの1914年まで調査はつづいた。現在の死海の高さは、ー410m。本当にいずれなくなってしまう運命かもしれない。
・11:37・・クムラン通過。21℃。
・11:45・・90号線から1号線にはいる。右側にエリコの町が見える。イエスはこの道で、エリコからイスラエルへ向かったそうだ。今現在、エリコはパレスチナ自治区であるために、イスラエルの人や車は入ることが出来ない。入っていったとしたら、まず命の保証は出来ないと言うことだ。であるのに対し、イスラエルは自治区にナンバープレートを渡して中にはいることを許している。
・11:50・・0m地帯通過。ようやく海抜より上を走る。

7−3 エルサレム着 1203
 検問を通るとエルサレムの町になる。ロシア正教の昇天教会が見えた。
 ヘブライ語で「イール・シャライム」と発音される。その語源は「イール・シャローム(平和の町)」とも言わわていたが、今では「サレムの基礎」という意昧が有力な説である。「サレム」とはセム人の神の名で、薄暮の美女神のことだという。また別名もあり、第一は「シオン」、これはシオニズムからきている名前。「シャレーム」というのもある。これは完全な、完璧なという意味を表す。エルサレムの意味は完全な町・・・だから平和の町という意味に転じたとも言う。しかし今は平和は微妙な天秤の上に乗っかっている都市だ。
 住人の68%はユダヤ人、30%はアラブ人、残り2%がアルメニア人などだそうだ。
 エルサレムは、ユダヤ人地区、アラブ人地区、アルメニア人地区、キリスト教徒地区の4つに分かれている。
 では、何故エルサレムがこれだけ重要な町となったのか。
 聖書(タナハ)を生んだユダヤ民族にとって、エルサレムは世界の中心である。ヤブースと呼ばれていた土地を、第二代の王ダビデはペリシテ人から戦い取り、エルサレムとしてそれを首都とした。その息子の第三代王のソロモンによって(第一)神殿が造られた。この時から唯一のユダヤ教聖地となった。ユダヤ教には他に聖地はない。ただ、ではなぜにソロモンはこの地、モリヤの丘に神殿を築いたのか?それはよく分かっていないそうだ。岩のドームの岩から世界が作られたとか、アブラハムが息子イツハクを神に捧げようとして祭壇を築いた場所というようなものがあるが、後世の作り話の感が強い。
 キリスト教徒にとっては、イエス・キリストが十字架にかかり、昇天した地である。イエスの最後の1週間に関係する所である。そして彼が復活した地であり、キリスト教徒にとっても第一の聖地ということが出来るであろう。したがって、キリスト教徒にとっての聖地エルサレムは神殿の丘ではなく、聖墳墓教会のあるゴルゴタの丘ということになる。ビザンチン時代には、神殿の丘はゴミだめになっていたという。
 時代は下り7世紀となるムハンマド(マホメット)。イスラム教徒にとっては、彼らの最も崇拝する預言者ムハンマドが7つの天を通り抜けて全能者の御前に引き上げられた場所であり、メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地である。その地にたてられているのが黄金のドームであり、その中には昇天する際にたっていた岩がある。
 かようなわけで、この聖地を巡っては宗教間の争いが絶えなく、今日も決して安定している訳ではないのが実情だ。(ロンドンの町の本屋で調べたら)エルサレムほどひとつの都市について書かれた本が多い都市はなかったそうだ。

7−4 昼食 1218〜1300
 中華料理「君子堂」。日本人向けの湯飲み茶碗やレンゲに、日本語で「おいしい」と書いてある。ということはここにはしょっちゅう日本人が来るんだねえ、と話していると、そこへ我がグループ以上の人数の中国人がドサッとやって来た。と、先ほどの日本人向けが中国人向けに変えられている。変わり身の速さ、というか、やはり商売人は考えていると感心した。
  店の前には寿司屋もあった。ただし、烏賊蛸エビはコッシェルで御法度なのだという(そもそも出てはこない?)。。

7−5 エルサレム観光 1310〜1740
 北の城壁に添ってまずはオリーブ山へと向かう。一番きれいだというダマスカス門(写真)、アーチの上の花が皇室の菊の紋章とにているという花の門を見、ロシア正教の昇天教会の横を抜けもう一つ教会を過ぎると展望台に着く。

7−5−1 オリーブ山展望台
 エルサレム旧市街全体が見渡せる。東側から西側を見る。
 オリブ山からケデロンの谷をはさんでモリヤの山にかけての山腹には預言者の墓を始めとして、ユダヤ人の無数の墓が並んでいる。これは終りの日にメシア(救い主)がオリブ山に立ち、黄金門を通って来たる時に、死人が復活するとの信仰に基いて、この地に葬られることを願ったからである。
 ケデロンの谷をはさんで対岸の方には東の城壁が広がる。これから観光のために旧市街へ行くときに通るライオンの門(羊の門)としっかりと塗り固められている黄金の門が見られる。
 一番目立つのはやはり「岩のドーム」。金色に輝いているのがわかる。
 金と言えばこちら岸ではあるが、「マグダラのマリア教会」も負けてはいない。まだ百年ほどの新しい教会だ。二十世紀初頭に建てられた。管轄はロシア正教だが、ロシア最後の栄光を担って、その独特のフォルムで輝いている。ロマノフ王朝にエリザベートという王妃がいたが、その人の建立。タマネギ型のロシア建築様式?だ。1917年に起きた革命の影響で彼女も1918年に暗殺された。彼女の遺体は、中国を経由し、1919年に自分の作ったこの教会の中庭に埋葬された。
 しかしながらここからが問題だ。この展望台からあの黄金のドーム近くまで徒歩で行くのだ。直線距離にしても7〜800メートルはある。その間には谷間があるから、その数倍いやそれ以上に見学地があるから歩行距離を覚悟しなければならないだろう。則の足としては大丈夫なのかと、ややだじろぐ。
 ところで今我々はオリーブ山の中腹にいるが、このオリーブ山も三つの宗教にとって重要な土地となっている。ユダヤ教においては、将来メシアが現れる(ことになっている)場所と規定されているのがオリーブ山の山頂らしい。メシアが現れると死者が復活するのだそうだ。だからユダヤ教徒にとっては、一秒でも早く復活されたいので、このオリーブ山の麓に埋葬されるのが夢なのだそうだ。この伝統は、古代より続いており、エジプトやメソポタミアで死んだユダヤ人もこの地に運ばれてきたという。眼下は世界最古の墓地の一つと言うことになる。そしてメシアは眼下の黄金門(今は門扉がふさがれている状態の門)よりエルサレムに入るという。
 キリスト教徒にとっては、イエスが最後の一週間にこの地で過ごしたことからもわかるようにかなり重要だ。エリコからエルサレムの祭りのために神殿詣にイエスはやってくる。そして人々が待つオリーブ山に登ってきて、「主の泣かれた教会」の建っている辺りで、泣く。泣いた後、ヒドロン川まで下ってゆき、今は開かずの門になっている黄金門(別名百合の門)からエルサレムに入る。日曜日のことだ。月火水と日中は神殿の丘に登り説教をし、夜になるとオリーブ山に戻ってきて洞窟住居で寝泊まりをした。また弟子たちに説教もした。世界の終末にはどういうことが起きるかとか、祈りの言葉「天にまします我らの父よ・・・」を教えたりした。
 さて木曜日、ペサハ(過越)の祭りが始まる。その(本来)楽しい日の夕餉が行われたのがシオンの丘のところ。弟子たちとともに13人の晩餐を採る。そしてパンをイエスはちぎり「これを私の肉と思って食べよ」といい、ワインを注ぎ「これを私の血と思って飲め」と言った。これがミサの始まりだ。そして二つの予言をする。一つは「(ユダ)が裏切ると言うこと」、一つは「(ペテロが)鶏が鳴く前に三度私を知らないというだろう」。そしてゲッセマネまで降りてきて、最後の祈りを捧げる。一晩中祈り、祈りが終わった頃にユダがやってきて、イエスのほほに接吻をする。それを合図にイエスが捕らえられる。そしてシオンの丘にあった大祭司カイファの家に連れて行かれる。そして金曜日の朝まで拷問や尋問を受ける。その間ペテロは中庭で待っていて、おまえはイエスの弟子かと三回聞かれ三回とも知らないと答え、三回目に答えた直後に鶏が鳴いた。
 金曜日の朝大祭司カイファの家から、ローマ総督の官邸のあったアントニア要塞に連行される。当時の総督はピラト。ピラトの官邸は神殿の丘の北にあるアントニア要塞の中にあった。ここでイエスの裁判が行われる。結果的に死刑の判決を受け、そこから十字架を担いでビア・ドロローサ(VIA DOLOROSA)「悲しみの道」と呼ばれる経路をたどり、ゴルゴタの丘にゆき刑を受ける。その後日曜日の早朝に復活を遂げる。金曜日にマグダラのマリアなどが墓に行くと、もはやそこは空になっていて天使がイエスは復活したと告げる。その後40日間、イエスは弟子たちの前に現れる。40日後このオリーブ山にやってきて、昇天する。その場所が昇天モスク。
 ではイスラム教徒についてはどうか。イスラム教には終末思想がある。ナハル・キドロン(キドロン川・・・ワジ)がエルサレム中心部とオリーブ山とを分けているが、世界の最後の日にはオリーブ山と町の間に7つのアーチに支えられた大きな橋が架けられるという。その上を人々は歩いて渡らなければならないが、正しい人は歩いて渡れるが、悪い行いをした人は地獄の縁とされるナハル・キドロンに落ちてしまうという。

7−5−2 主の泣かれた教会
 オリーブ山の展望台からは急な傾斜の道を降りる。足の悪いのりには非常にきつい。いや、普通の人でも注意しないと危険なくらいの道。その急な坂道の途中にユダヤ人墓地を覗ける場所がある。ユダヤ教は土葬だ。アダムが作られた土に還るという思想から。裸にあま布を巻き、土中に埋める。墓のところに穴が開いているのは、ローソク用とのこと。日本と同じように墓の場所は買うのだそうだ。石がたくさん墓碑の上に置いてあるが、これは訪ねてきた人が、来ましたという印に置くらしい。何となく、日本的な感じがした。遺体の埋葬の方向だが、ガイドさんはかつてオリーブ山に足を向けて埋葬すると聞いたことがあるそうだ。ユダヤ教では正装はどちらかといえば黒一色という感じだが、どうもそれは神の御前だけのことらしく、埋葬の時などの服装は特に決まっておらず、花柄でも差し支えはないらしい。心が悲しんでいればよいということだ。人が亡くなると、家族は七日間は喪にふす。男性はひげを剃らない。お酒も飲まないし、遊び事はしない。
 危険な足場の道をおりてようやく教会に到着。雨の日にはこの道は通らないと聞いた。入り口の表示は「SANCTUARIUM DOMINUS FLEVIT」と書いてある。それぞれが、教会・主・泣く・・・という意味とのこと。これはイエスキリストがオリーブ山の山頂に立ち、当時のユダヤ教指導者の無理解を嘆き、エルサレムの将来を案じて、エルサレムのために泣いたという新約聖書の記述に基づいて造られたカトリックの教会。紀元後30年頃にこの地に立った時、40年後のエルサレムの姿を見て泣いたというのだ。その40年後に第2神殿は崩壊した。彼の目にはユダヤ人にとって一番神聖な場所である神殿が炎上するのが見えたのだろうか。事実に基づく後世の勝手な解釈ではないだろうかとも思うのだが。
 祭壇のところに、親鳥(トサカはあるが雌鳥とのこと)がたくさんの雛を守っている絵が描かれていた。これは新約聖書にある「私は雌鳥が翼の下に雛を集め守が如く人々を正しい方向に導いていこうとしたが、叶わなかった。」という下りを表している。
 元はビザンチン時代のもの、十字軍時代を経て1955年に新たに建てられたものだ。設計したのは山上の垂訓教会と同じイタリアの人(アントニオ・バルルーチ)。ビザンチン時代のモザイクなど少し残骸が残っている。
 教会の形は一見卵形に見えるが、じつはイエスのその涙を模している。屋根の粒は涙の粒だ。
 中からは、窓を通して岩のドームが見える。教会はつまり、西の方向を向いて建っている。これはイエスが、オリーブ山から西の方向に向かって説教したと思われることに由来する。現に残存するビザンチン時代の教会跡は、東を向いた設計になっていた。
 オリーブ山は紀元前後からずっと墓地だった。もちろん、いろいろな時代のものが混ざっているわけだが、教会の庭には一世紀、ちょうどイエスが生きた時代のものと考えられている洞窟型の墓が残っていた。ユダヤ人特有の墓の作りだとのことで、ユダヤ教か原始キリスト教徒のものだはないかと推定されている。洞窟の壁に横穴を掘り遺体をそこに入れる。骨だけになったら取り出して、骨用の場所に保管する。以前見た大きな石棺の何度も何度も使い回す方式(サルコバーグ?)のものは、これより少し前の時代だという。

7−5−3 ゲッセマネの園 1418〜
 大きなオリーブの木が植えられている。一説にはイエスの時代のものも、と言うのだが・・。古木であることはしかし確かだった。もっと広いところかと思ったら、万国民の教会の中庭なのだという。逆かと思っていた。広いゲッセマネの一角に教会があると思っていたからだ。
 ここはイエスがエルサレムで過ごした時、いつも祈り場として好んでいた所である(ルカ22章)。イエスは、弟子たちと共に最後の晩餐を終えると、三人の愛弟子、ペテロとヨハネとヤコブを連れて、ケデロンの谷を渡ってゲッセマネの園に入った。そして、最後の祈りをしたのである。弟子たちから少し遠のいた場所で祈りをささげる。すると弟子たちは居眠りをするので起こす。この繰り返しを3回行ったが、3回目にユダがやってくる。ユダは「私が最初に接吻する人が捕らえる相手である」と言ってあったので、そのほほにユダが接吻したら直ぐに、捕縛の徒であったユダヤ人に捕らえらた。びっくりしたペテロは、ユダヤ人が持っていた剣で、そのうちの一人の耳を切り落とす。するとイエスはそれをたしなめる。「もし神が私を今救わなければならいとお考えならそうするであろう。今自分が捕縛されることが神の御心なのだ。」と言った。そして大祭司カイファの家に連れて行かれる。それをペテロは密かに追うと言うわけだ。

7−5−4 万国民の教会
 イエスが最後の夜を、苦悶しつつ祈って過こした教会。別名「苫悶の教会」とも言う。人間性と神性を併せ持つイエスが、人間としての悩みを見せたところからそう言う名がついた。精神的な苦しみの場だという。神に向かって、「悲しいです。悔しいです。」と神に祈る。「いろいろ人々に施してきたが受け入れられず、それ故に死を償いに人々を救わなければならなくなった。」と苦しみ悶えたと言うことだ。肉体的でなく、精神の領域の話という。この後やってくる肉体的な苦しみよりもさぞかし大きかったことだろうと考えられている。そのときに、イエスはオリーブの実をまるで絞るかのような血の汗を流したという。
 この教会は、4世紀に建てられた当時のバジリカの形を残し、1924年、さまざまな国の献金により再建されたので「万国民の・・」と名付けられた。設計者はこれまたイタリアのアントニオ・バルルーチだ。ただし、教会の方向はしっかり東側を向いている。中はかなり暗く、これはイエスの苦悶を表してのことだそうだ。入り口はオリーブの木がモチーフになっている。
 祭壇の前に、イエスがそこで祈ったという岩の一部が置かれている。また中央のアプシスには最後の苦悶祈りを表している。左側は裏切りの場面、右側はペテロが驚いて相手の耳を切り落とした場面のそれぞれが描かれている。ともにモザイクで、ビザンツ様式によるものだ。


  また、入口の壁の上方のモザイクはとてもきれいだ。中央にイエス、左にキリスト教徒、右に目のくらんだユダヤ教徒が描かれている。その前の像は、左からマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。福音書の著者たち。一番右のヨハネだけは、イエスの生存中の弟子と言うことになっている。12弟子の中のヨハネと同一人物とされている。ヨハネは、イエスの死語マリアを母の用に慕い、布教に努めたと言うことだ。ヨハネ像だけ拡大してみた。この写真は、万国民の教会の面しているワジと平行に走る道路から。
反対側には、ワジ手前にキリスト教徒の墓が広がる。目の前の東側の壁の一番端のあたり外側に、とがった石造りのモニュメントのようなものがある。第二神殿時代の裕福なユダヤ人(アブサロメ)の墓との言い伝えがある。紀元1世紀ぐらいのものだが、他に二つ現存しているという。この墓だが、そこにあった岩からくり抜いて作ったという、非常に凝ったものだそうだ。金持ちだから出来たのだろう。

7−5−5 ライオン門 1500〜

 万国民の教会から、少し北上して、ライオン門から旧市街へとはいるコースを選ぶ。ライオン門に向かうために曲がる角斜面側に、アルメニア正教とギリシャ正教の共同管理をしている聖母マリアの墓教会の入り口。マリアが何処で死んだかだが、エルサレム説とエフェソス説があるという。我々もエフェソスへ向かう途中、マリアの家というのを見学したことがある。ヨハネと布教にエフェソス(比較的早くキリスト教が伝わった)に赴いたとするもので、余生を送ったとされる。エルサレム説では、シオンの丘で永眠し、その体はゲッセマネに運ばれ、ゲッセマネから魂は昇天し体は埋葬したとするもの。シオンの丘にはマリアの永眠教会というのがあるという。ちなみにマリアは死ねない。死は原罪に対する償いであって、神の子を身ごもったマリアは罪の存在ではないので、永眠すると常に言うとのこと。そこから左に折れて、城壁へ向かう。
門の両側にライオンが彫られているからこう名前がついたと言う(黄色でマーキングした部分)。基本的には、この門をおよび城壁の修復を行ったにスルタン・スレーマン(在位:1520〜86年)の目的は、当時すでに大砲があったので、住民を安心させるという精神的な意味合いが大きかったという。ところでライオンだが、アムルーク朝の王バイバルス(在位:1260〜77年)の時代の城壁があったのだが、これがかなり痛んでいた。スレーマンはある晩から続けざまに、大きなライオンが首筋を狙う夢を見る。彼はこれは城壁の修復をしていないせいだと考え、修復を行い、城門の一つにライオンを描かせた。しかしライオンとおぼしき像の実際はチータなのだそうだ。バイバルスは十字軍を完全に追い払ったことで有名な王だが、かれの紋章がチータだったのだ。彼が造った建築物にはチータのモチーフが多用されているという。つまりは他で使っていたのを再利用してここに持ってきたものだという。チータは片足をあげている。片足をあげて、獲物のネズミを食べる前に爪でかいて弄んでいるのだそうだ。チータはアムルーク朝であり、ネズミは十字軍を象徴している。要塞なので、門には狭間や石落としなどもあった。
このあたりでかつては羊をよく飼っていたので、別名羊の門とも言う。
ここから旧市街にはいる。旧市街はアラブ人地区になる。

7−5−6 聖アンナ教会
 最初に右手に見えてきたのが、教会と遺跡がある、ベセスダと言うところ。ベセスダとはヘブライ語で「べ」は家という意味、「セスダ」とは慈しみとか慈愛とかという意味。奥にベテスダの池というのがある。イエスの時代、健康施設になっていて、沢山の病気の人が治癒のためにここを訪れていたのだそうだ。湯治場のようなものだろうか。
  新約聖書の中にもベセスダの話が出てくる。ベセスダに38年間も病を患って治らない人がいた。ゴザを引いて寝転がっている。治すためには、この池の水がぐるっと動くときがあって、その動いたところにはいると治ると言うことになっていた。しかし病が重く、なかなか体がいうことを聞いてくれなかった。イエスがやってきて、治したいかと聞くので治したいと答えると、床をもて歩けという。するとどうだろう、歩けたのだ。こうしてイエスが病人を治すという奇跡を行った場所。今でもその池はあるそうだが、記念して十字軍時代に建てられた教会を含め中には入れなかった。
今でも、欧米ではベセスダ病院というのがあちこちにあるが、これはこの逸話に基づいて名付けたものなのだそうだ。

7−5−7 ヴィアドロローサ 1508〜
 VIA DOLOROSA 悲しみの道と言う。イエスが十字架を担いでゴルゴだの丘まで歩いた道だ。そしてその途中ではいろいろなことが起こる。起こった地点ごとに、記念碑や教会が今日では建てられている。これをステーションと呼んでいる。第1ステーションから14まである。これらの小道はこのスライドショーによってだどることが出来る。
当時の十字架の刑というのは、よく行われていた処刑法で、特に国家反逆罪の在任に行われていた刑罰だったようだ。イエスの罪というのはいったい何かと言えば、ユダヤ人からすれば、彼が自分のことを神の子といったことだった。一神教の彼らにとっては、神への冒涜に他ならなかった。しかしながら、圧力をかけられたローマ総督のピラトにとっては、イエスの罪というものが見つからなかった。ようやくたどり着いたのが国家反逆罪。民衆を先導した非常に危険な人物とした。たとえば、神殿の丘で、両替商を営んでいた者を、神殿を汚す者として、その商売の妨害をした。肉体的に苦しみを更に与えるということで、十字架を背をって歩かせるということも実際に行われていたようだ。そして見せしめのために、繁華街を歩かせるということもしていたらしい。周りから罵声を浴びさせるためだ。罪状を書いた板を先導させた。イエスの場合には、「ナザレのイエス。罪状:ユダヤ人の王」とかかれていた。民衆を扇動した危険人物という意味で、そのようにかかれていた。
毎週金曜午後3時になると、カトリックのフランシスコ会の修道士が集まり、ビアドロローサの行進が行われる。それぞれのステーションに止まりながら。そこで行われた出来事などを読み上げたりするという。ちゃんと十字架を担いでその行進は行われる。

7−5−7−1 第1ステーション
  イエスが死刑の判決を受けたアントニア要塞があったといわれるところ。金曜のフランシスコ会の行進はここから始まる。青い扉がそれと言うが、現在はオマリエ学校という小学校になっているので、中に入ることは出来ない。でも、本当にこれ?と思わせるような入口だ。神殿の北西の角に当たる場所ということだ。おみやげ屋さんの2階にある。青い扉のところ。ここが第1ステーション。
  金曜日の早朝大祭司の家からここへイエスは連れてこられる。そして裁判が行われ、嫌々ながらではあったが総督ピラトは死刑判決を出す。
  ところで何でカエサリアにいるべきピラトがこの時エルサレムにいたかだが、年三回行われる祭りの時期には治安上の問題もあって、エルサレムに出向いてきているのが通例であった。

7−5−7−2 むち打ちの教会
 小学校の門を隔てて反対側にある教会にはいる。ステーションにはなっていないが、ここでイエスは十字架を背負わされる。さらに、イエスは茨の冠をかぶせられ、ローマ軍の兵士たちにより鞭で打たれた。教会のステンドグラスには、このときの様子が表わされており、祭壇上のドームに茨の冠が飾られている。入口のアーチの所にいろいろな模様がなされているが、その中の「INRI」はラテン語の “Iesusu Nazarenus Rex Iudaerum”の略で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の意味だそうだ。これこそイエスが処刑された最大の理由だ。

7−5−7−3 第2ステーション 十字架を担がされた教会
 むち打ちの教会の同じ敷地内にある教会。中に入ると十字架を担いだイエスがいた。ここから処刑地であるゴルゴタの丘まで直線距離にして850メートル。アプシスの中には、用意されている十字架が描かれている。しかしながら実際この時代はこうなってはいなかったらしい。縦の木については、すでに刑場に予め用意されていたようだ。死刑囚は横木だけを担いで歩いたようだ。ここでもイエスは赤い服で描かれている。マリアが青い服だったり、形式化されているのだろうが、赤の理由は神性を表しているのだそうだ。そして帯が時に青く描かれるが、これは彼の人間性の部分を洗わすのだそうだ。
この教会の敷石は、ローマ時代のものが使われている。しかしローマ時代のグランドは今のグランドより数メートル下であり、引き上げてきて使っているということだ。石に微妙に線刻があり、これは滑らないようにとの配慮であり、車道ではなかったことがわかる。歩道用の石であったわけで、やはりここに広場が当時あった証拠だろうという。そこにイエスが引きずられて来たということになる。線刻には、ゲームの後のようなモノもある(写真)。

7−5−7−4 エッケホモアーチ
 エッケホモとはラテン語で、「この人を見よ」という意味。ピラトが死刑判決を出し、イエスを広場に引き出してきて言う。「この人を見よ! おまえたちが欲していた人たちだ」といった、その場所にあるということで、エッケホモアーチと呼ばれている。ここでわかることは、第1ステーションからこの第3ステーションまでは同じ場所で起こった出来事といえる。何故場所を変えているかと言えば、それは同じ場所にいくつも教会などを建てることが不可能だからだ。
アーチ自体はイエスの時代から約百年後の、紀元2世紀、ハドリアヌス帝の時代のもの。ハドリアヌスは元あった広場を拡張し、そこに凱旋門を作った。そのアーチがこれ。右側の部分は建物の中に消えている。消えてしまった部分に、エッケホモ教会がある。

7−5−7−5 ギリシア正教会
  ギリシア正教会にとってのヴィアドロローサの出発点の教会。道も違うそうだ。要するの、これといってはっきりしているわけではないので、それぞれの宗派で、これ!と考えるものを採用しているらしい。
カトリック・正教・プロテスタントみな違う。解釈がいかようにも出来るくらいに昔のことだから仕方がない。カトリックのビアドロローサだけでも、時代による変遷がある。プロテスタントのそれは、城壁外遙かに及ぶという。現在ある聖墳墓教会自体を認めていない。
これらは観光客にとってはどうでもよいことだろうが、宗派によっては重要なことであろう。ただかわいそうなのは巡礼者だ。それぞれが一定の訳はあるのだろうが、それに乗っ取って回るしか方法がない。

7−5−7−6 第3ステーション イエス倒れる 1530
 今まで進んできた道を左に折れると直ぐにあるのが第3ステーション。イエスが十字架の重みに耐えかね、最初につまずいた場所(全部で三回倒れる)。レリーフがきれいに作られている。ポーランドのカトリック騎士団が小聖堂を建て、現在はアルメニア・カトリックの所属となっている。道が細くなってきて、人混みの中を進む。

7−5−7−7 第4ステーション イエスマリアと対面
 ここからはスークと同居状態。中はものすごい人。とにかく写真を撮ってさっさと移動。
  アルメニア人による苦悩の母のマリアの教会があり、ここでマリアが十字架を背負ったイエスを見たとされる。教会のドアにはその様子が描かれている。ただ、人垣があったわけだから、このレリーフのようには実際はいかなかっただろう。目と目を合わせるのが精一杯のことであったろう。
 また、この教会の地下から見つかったビザンチン時代のモザイクにはマリアのサンダルも表わされている。

7−5−7−8 第5ステーション シモン、イエスに手を貸す
 キレネ人(リビアのキレナイカ出身の人という意味)のシモンがイエスに代わり、十字架を負わされたところ。カトリック・フランシスコ会の礼拝堂が建っている。ここまでくるとローマ兵がキレネ人のシモンという人を人垣からっひっぱり出す。神殿詣りにきていた人だ。そしてイエスのかわりにしばらく十字架を担がせる。
  ここに人だかりが出来ているところがある。イエスのものといわれる手形がある。壁面に5を表すVの字が見られる。

7−5−7−9 第6ステーション べロニカ教会
 ベロニカという女性信者(弟子)の住居のあった場所。この前は少し登りになっている。イエスは汗をかきかき上ってくる。見るに見かねた女弟子のベロニカは人垣を越えてイエスに素早く近づき、イエスの顔を絹のハンカチ(布)で拭ったとされる所。このハンカチにキリストの顔が浮き上がった(顔の型が残った)という。
  当時罪人を助けるのは罪であったが、見るに見かねたと言うことらしい。ベロニカはイエスの弟子になる前は12年間不正出血を患っており、ある日イエスの衣の裾に触れると、その病気は治ったという。それ以来イエスの弟子になった人。
  イエスがなくなってからはローマに行き、今でもローマの聖ペテロ教会にはこの時のハンカチが残っているという。

7−5−7−10 第7ステーション イエス再び倒れる 
 審きの門と呼ばれる城外に抜ける門があり、そこの敷居につまずいたため、イエスが2度目に倒れたとされる所。またこの門の上にこのような状態に置かれることになったイエスの罪状書きが貼り付けられたとされる。つまりこの時代の城壁はここまでで、イエスは城壁の外に出て行ったことになる。ここまでで死刑囚はいよいよ刑場へと入っていくと言うことになる。

7−5−7−11 第8ステーション 私のために泣くな
 ここは、イエスがエルサレムの女たち(弟子)に「私のために泣くな、自分たち、また自分の子供たちのために泣くがよい」と語った場所だといわれている。40年後の第二神殿崩壊を告げていたのだという。現在建っているギリシャ正教の修道院の壁に記念のラテン十字架が刻まれている。巡礼者が置いていったもの。
  ここから現在はゴルゴタの丘まで行くことは出来ない。家が密集してしまったためだ。仕方なく、巡礼者はここから一旦少し引き返す。我々もそうした。

7−5−7−12 第9ステーション イエス三度倒れる
  聖墳墓コプト教会の入口にある。ここにあるローマ時代の円柱が、イエスが3度日に倒れた場所。門前に十字架が置いてあった。その場所が第9ステーション。なお十字架は、毎週金曜日にフランシスコ会が担ぐもの。そのほか随時巡礼者が担いで歩くこともある。
 縦位置の写真の中央部が入り口で、奥に見えるのが聖墳墓教会のドームで、ちょうど聖墳墓教会施設群の屋上に出る。正面はコプト正教の教会。後に異端とされたが、原始キリスト教の姿を残す一派。4世紀には確立されていたとか。5世紀には異端として、正当派と言われるメインストリームからはじき出される。そのとき(期限後451年:カルケドン公会議)はじき出された派には、コプト教の他、シリア正教・アルメニア正教・エチオピア正教がある。カルケドン公会議はキリストの単性論を排除した会議。イエスは人間か神かという議論の中で、100%神であり100%人間であると決めた会議。
  写真左はコプト教の修道士たち。ひげを生やし、よりユダヤチックであることが何とはなしに感じられはしないか?

7−5−7−13 聖墳墓教会
 ドアを抜けると聖墳墓教会の上に出る。聖墳墓教会の中に残りの10から14ステーションまでがある。
この教会縄張り争いがひどかったらしい。キリストカトリック教会、ギリシア正教会、アルメニア教会、エチオピア教会、シリア教会、コプト教会の6派の対立があり、結局国際的な協議の結果、1857年、ステータス・クオーという条約(クリミヤ戦争の戦後処理の一環だった?パリ条約の一部?)によって、いろいろな細かい取り決めが決まった。これはクリミヤ戦争前に行っていた状態に全て戻して、それを厳格に守り続けるというもの。
 先ほどの入口はコプト教会、そこから教会の屋根の部分に入っていったのだが、ここの部分はエチオピア教会とシリア教会が管轄している。今でも仲は良くないのだそうだ。この3つは弱小教団だそうだ。同じキリスト教で仲良くできないのだから、世界平和は難しい。聞けばステータス・クオーによって、たくさんある礼拝堂の全てが、何処の宗派の管轄であると決まっているばかりでなく、柱の一本に至るまで決まっているのだそうだ。いや柱の右半分と左半分で管轄が違うものさえあるという。だれが何時に何処を掃除し、ろうそく立てに立てる灯明もどういう順番かも規定されていると言うことだ。
さて屋根の上には、巡礼の一段がいた。十字架を持って、行進していた。左の写真で、十字架の立っている一番大きな建物の下に、聖墳墓つまりはキリストが昇天したとされる場所がある。
聖墳墓教会はコンスタンティヌス帝が建てた4つの大教会の一つ。ベツレヘムにある生誕教会(キリストが生まれたとされる厩の上に立てた)、オリーブ山の昇天モスク(元々は昇天教会)、そしてヘブロンという街にある守りの樫の木教会(アブラハムの妻サラが使者に対し子供など出来ないと笑った場所)がその四つ。
屋上部分から、エチオピア正教の管轄する礼拝堂を二つ通り過ぎて前庭に下りる。薄暗い細い階段を下りてゆく。右の写真はその内の一つ。
下りてゆくと中庭に出た。
中にはにはこれまた多くの十礼者や観光客がいてごった返していた。出てきて右側が正面の入り口になっている。これがNHKでも放送された、アラブ人(イスラム教徒)が鍵を持っている教会入り口だ。2階が見えるがそのテラスの床あたりがゴルゴタの丘のイエス当時の地面の高さだという。
 元々はコンスタンティヌス帝が325年頃(日本語版ウイキーペディアによる)建てたもので、復活教会(アナスタジス)と呼ばれていた。ここは聖墳墓の位置に異説を主張するプロテスタント(彼らは別の場所を主張している・・・ただしそれは第1神殿時代のものらしい)を除き、全てのキリスト教徒にとってもっとも神聖な場所になっている。ファサードの部分の説明を受ける。入り口の片方が塞がれているが、これはアイユーブ朝サラディンヒッティーンの戦い・・・28日参照)が二つも要らないということで塞いでしまった。十字軍時代の特徴がよく現れているという。すなわち、先がやや尖った形状をしたアーチ、また柱が大きく一本丸いものではなく何本も束にしたような形状が特徴的とのこと。
 ゴルゴタの丘と言うが、ここは昔は刑場になっていた場所で、もともとは教会の二階部分くらいの高さの位置まであったのだが、教会建設時に平らに削ってしまったらしい(元々刑場の前は石切場であったらしい)。イエスの時代に話されていた言葉は、先に書いたようにアラム語、それに古代ヘブライ語。それぞれ頭蓋骨のことを、ゴルゴタとゴルゴルタ、ゴルゴーレットという。つまり、ゴルゴタの丘とは頭蓋骨の丘という意味で、まさに刑場にふさわしい名前だ。しかしそう呼ばれるのは、刑場があったからではない。伝承によれば、ここに最初の人間であるアダムの頭蓋骨が埋められていたからだという。またアダムはこの丘の土から作られていたとも。
ところで、ファサードの2階右部分の窓下に梯子が架けられている。オスマントルコ時代はこの教会は特別な日(祭日)以外は門は閉じられていた。つまり巡礼者も入れないばかりか、修道士たちも軟禁状態であった。そこであの場所から物資の補給などを受けていたという。開かれたのは、1831-40年の時代に一時期だが支配がオスマン朝からエジプトに移ったときがあり、その時代。それ以来教会の扉が開かれたままになった。その後オスマン朝の力も弱まり、再度閉じられると言うことはなかった。そしてのステータス・クオーでは、それ以前のままの習慣に戻すという大原則のため、今の今まで動かせないでいる。
更にこの門は、先のNHKでも放映された、ある習慣がある。十字軍時代から続いている。扉を開くのも、扉の鍵を管理しているのもイスラム教徒。二つの家族がそれを守っている。鍵を管理しているひとつの家族から毎朝今ひとつの家族が鍵を受け取り扉を開け、そして毎晩扉を閉め鍵をかけ鍵を返すという。だいたい4時頃開き、8時頃閉まるとのこと。

7−5−7−14 第10〜13ステーション
  2階へ行く。 中に入るとすごい人だ。さすがにすごい状態で、観光客巡礼者入り乱れている。
  第10から13ステーションまでは同じ部屋にある。というか、ほとんど同じ場所で起こったわけだが、礼拝をする場所を便宜上分けているという感じだろうか。
まず第10ステーション。ここは先ほど外から見た二階部分の梯子をかけられていた窓のある辺りで、テラスだという。ガラス窓から覗いてみる。ここでイエスは衣を脱がされたという場所。まぁ、この窓あたりでイエスが身にまとっていた布を剥奪されたと言うことを象徴しているだけなのだろう。
第11ステーションは、磔にかけられたところ。金曜日の午前9時だとされている。聖墳墓教会に入ってすぐ右側の階段を上がると、そこがゴルゴタの丘。地面に十字架に打ち付けられたキリストがいる。
ゴルゴタの丘の場所を特定する試みは、ローマ皇帝、コンスタンティヌス帝(在位306〜337)の母后ヘレナによってなされた。コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国で初めてキリスト教を公認した皇帝だ(313年、ミラノの勅令)。彼の母親ヘレナも熱心なキリスト教徒であり、イエスが十字架で処刑されたゴルゴタの丘を特定する目的で聖地エルサレムへ巡礼の旅に出た。ヘレナとその一行は326年に聖地エルサレムにやってきて、この地をゴルゴタの丘だと認定し、聖堂を建てた。
その後、破壊と再建が繰り返され、いくつかの聖堂が十字軍時代に一つの屋根のもとにまとめられ、聖墳墓教会の元ができた。現在の建物は、1810年に再建されたもの。 
第12は、きんきらに光っている一角で、磔姿のイエスがいる。ギリシア正教が管理するイコンの祭壇。キリストの像の下には、祭壇がある。そこにはイエスのイコンがあり、印された岩の所が、礫になったイエスの十字架が立てられ、息を引き取った場所だという。ゴルゴタの丘の石にさわれる行列は長い。信者は行列を作って静かにここに口づけしていた。金曜日の午後3時のこととされる。それ故に金曜日の午後3時にはフランシスコ会のビアドロローサの行進を始まる。この石は階下のアダムの祭壇と言うところでも見ることが出来る。
 13は、イエスの死を嘆くマリアの小祭壇がある。11と12の間にそれはある。十字架から降ろされたイエスを見るマリア。これは単に額に入ったマリアの像があるだけだったが、ここで聖母マリアがイエスの亡骸を受け取ったと伝えられている。剣を持っているが、母親の心の痛みを表しているという。この場面はピエタ(お慈悲を)としてよく彫刻などで表現されるものだ。
ところで、十字架による処刑だが、一般的には両手両足釘付けになっている。実際はこうではなかったようなのだ。そのままだと体重によってすっぽ抜けるという。手に釘を打つ場合には、腰の辺りで支える添え木が必要で足も柱に回してロープでくくりつける必要があった。足を釘で打つ場合には、反対に手を添え木にロープでくくりつける必要があったらしい。また死因だが、体の重さでだんだん下に落ちてきて、それにつれて鎖骨の部分に頭が落ちてきてゆっくりと窒息死するという。失血死ではないらしい。

7−5−7−15 ゴルゴタの丘の下
 修道士達がくるというので、皆その場所を追い出されて下へ行った。当時の床になっているというそこには、亀裂の走った壁やイエスと共に処刑された良い方の泥棒のアダムの祭壇とがあった。この亀裂は、イエスが処刑されたときに入ったものだという。亀裂を伝わって、ローマ兵がイエスの死を確かめるために胸に件を刺したところからしたたり出た血がしみ出して落ちてゆき、やがてアダムの頭蓋骨に達し、アダムは復活したという。つまりは原罪の元であるアダムが復活することは、イエスの死の目的、つまりはあがないが行われたと言うこと・・・という理解らしい。
 そこから少し進むと、磔からおろされたイエスに香油を塗った石があって、多くの人がそこに口づけをしていた。そう、この聖墳墓教会というのは、イエスの最後の場に建てられた教会なのだ。

7−5−7−16 第14ステーション イエスの墓
  教会の中にもう一つ聖堂がある。ここがイエスの墓とされる所。元々は洞窟だった所に建てられた。金曜日の午後3時にイエスは息を引き取った。裕福なユダヤ人の墓がゴルゴタの丘のそばにはあったと聖書にはかかれている。弟子の一人のヨセフも自分用に用意していた。ローマ兵に申し出てイエスを引き取り、その用意していた墓に急ぎ葬ったというのは金曜日で、安息日の時間が迫っていたから。土曜日は何もなく、日曜の朝イエスは復活した。マグダラのマリアなどがお参りにやっきて、墓が空っぽであることを知る。天使が現れて、イエスは復活したと告げる。
 さすがにここはすごい行列で、中に入ることが時間的に無理だったので諦めて外へ出た。この場所がイエス埋葬の地ということは、イエス復活の地でもある。
 我々観光客は写真が撮れないとかブーブー言っていたりするが、巡礼者達にとっては真剣そのものなのだろうと思うので、あまり邪魔はしたくない。
 もっともこれには異説があり、ある派(シリア正教)によれば別のところにその位置を見いだし、そこに祭壇を作っている。ここはお参りする人も少なく、また墓守も少なく、間隙を縫って則はちゃっかりとその部分を撮影した。しかししっかり見つかって、ひどく怒られた。左の写真が、その写真。中央ごつごつとしているところがそれだと言うことだ。
 ところで、かようにもいうのは、この場所が墓地であったからに外ならない。実際にこの時代の墓地も見つかっている。横に石灰岩をくり抜いて作る形式の墓だ。ヨセフもこのような形式の墓を作っていたのでのだろうか?伝承では写真で写っている内の一方が、ヨセフが新しく自分用に作ったものだとも言う。教会を作る際にこうした墓がたくさん破壊されたと言うことだ。いずれにせよ、イエスの時代のユダヤ教の墓の形式はこういったものだったということだけは確かなようだ。

7−5−7−17 アルメニア正教の管轄する礼拝所
 最後にアルメニア正教が管轄する礼拝所を見た。アルメニアのいろいろな教会が描かれたモザイクがあった。アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教にした国だ。描かれている教会の姿を見ると、アルメニア独特のもので、非常に懐かしく思った。
またイスラエルと同様に、近代になって国民が大量虐殺された国でもある。

7−6 スーク 1700〜1740
 ヴィアドロローサへの道は両側から小さな店が突き出すようにびっしりと並んでいる所だ。ということで少し自由時間となったが、今日はたくさん歩いて疲れていたので、早くホテルに入りたかった。
買う物もないので、フラフラしていると、向こうに昔のエルサレムの地図があるというので、そこへ行って記念撮影などをして時間を過ごした。これは、翌日の説明によると、ヨルダンのマダバで見つかった物だそうだ。明日来ますよ、と軽く言われてしまった。
何か何処かで見たような気がする・・・実はこの地図初対面ではなかった。というか、これはレプリカだが、本物をかつて既に見ていたのだ。世界最古の地図というようなことを言われて、見た記憶がある。この地図はエジプトを含む中近東の巨大な地図の一部。
これを見ても、ヨルダンとイスラエルの距離はいかに近いことがわかるというものだ。

7−7 ホテル 1803 Novotel Jersalem 457号室
 ようやく最終地のホテルに入った。ホテルの部屋はエキストラベットも入っていて広かった。食事も今までのホテルよりは、ビュッフェの内容も充実していた。
  最後ののんびり出来る一夜なので、体調のことも考えて、羽目を外すことは避けた。土産もすでに買ってあるので、スーツケースの整理をした。則のがだいぶ重くなった感じだ。