2007年12月30日(日) 快晴 最高気温22℃


エン・ボケック 終日
■朝食後、ローマ軍に追いつめられたユダヤ人の最後の篭城の地、マサダへご案内します。
■その後、エン・ボケックへ戻り、自由時間です。死海での浮遊体験や、ホテルにて死海のエステ(実費)などをお楽しみ下さい。
                               死海沿岸/エン・ボケック泊    朝昼夕

5−1 朝
 今日も朝はのんびりだ。5時半には目を覚ましたが、食事の時間までは間がある。それに荷物のパッケージをすることも連泊なので必要がない。バゲージダウンがあるわけでもない。7時近くになると待ちかねたようにレストランへ行く。
  8時に出発。

5−1ー1 ソドムのリンゴ
 ガイドさんがリンゴの世界一くらいの大きさのものを持ってきた。見た感じがリンゴのようだが、さわるとまるでやわらかいゴムまりのような感じ。ソドムとゴモラの話になぞらえ、嘘つきリンゴの意味でソドムのリンゴと呼ばれているもの。熟すと黒い種が中に出来る。この種の周りには繊維があり、かつてはローソクの芯に利用されていた。別名砂漠のローソクの芯とも呼ばれるが、タナハには安息日にはこれを利用したローソクは使ってはならないとされている。
 中から白い液が出てくるが、昆虫にとっては毒があり果肉内の種を保護しているらしい。この液体だがかつては人間にとっては薬の役目も果たしていたという。逆にカミキリムシや蛾の一部はこの実を食べる。食べて毒を地内に蓄え、逆に外敵から我が身を守るのだそうだ。シナイ半島やエチオピアにもある。写真は、後日トイレ休憩の時に木になっているのを見つけたもの。

5−1ー2 ハスモン朝の終焉→ヘロデの立国→ユダヤ戦争
 ギリシャとローマが覇権を争っている時代、今のイスラエルのあたりではギリシャの支援を受けて「ハスモン朝」が実権を握っていた。このハスモン朝のことをユダヤでは由緒正しき王朝などと呼んでいる。ローマは武将ポンペイウスを派遣し、いわばユダヤを平定した。この時王だったアリストブロスはローマに連れて行かれ、無能な弟のヒカルノス二世を王に据えた。名ばかりのハスモン朝としての存在でしか無くなった。
 皇帝にまで上り詰めたポンペイウスが紀元前48年に暗殺されそのあとをシーザーが継いだが、シーザーは属国ユダヤの支配を二人の人間に委任する。一人は宗教的指導者、ユダヤ人の長としてハスモン朝から選んだ。今一人、政治および軍の指揮官として(今の首相のような役割か)アンティパトロスというユダ地方の南にあったエドマヤ出身のエドム人を選ぶ。
 アンティパトロスは(というよりエドマヤ地方そのものが)ハスモン朝によってユダヤ教徒に改宗させられた人だった。アンティパトロスは二人の息子に地方自治を任せていた。ユダ地方を兄のパサエロスに、ガリラヤ地方は弟のヘロデに。アンティパトロスがマリコスというユダヤ人に毒殺されると、混乱に乗じて宗教的指導者であったアンティゴノスがパルディアの支援を受けて兄パサエロスを殺し最後のハスモン王になり、ヘロデはローマに逃れる。紀元前40年にヘロデはローマの信任を受け軍隊を連れて紀元前39年に戻ってくる。そしてハスモン朝王国を2年間かけて打倒する。紀元前37年にガリラヤ地方、その南のサマリヤ、更にその南のユダ地方の支配を完了する。以降紀元前4年の死に至るまでヘロデの支配は続く。
 ヘロデの死後は3人の息子が跡を継いだが、ローマは彼らにはユダヤ王の称号は与えなかった。アルケラオは南のユダ地方、ヘロデ・アンティパスはガリラヤ地方、ヘロデ・フィリポスはゴラン高原やデカポリスなどと割譲された。しかし10年後にはローマ総督がやってきて、事実上直轄地となった。以降一時ヘロデの孫のアグリッパ一世がローマからユダヤ王の照合を受けた例外はあるものの直轄時代が続く。
 ここに民衆蜂起の期が訪れることになる。ユダヤの一神教と政教一致の風土は、ローマの多神教と政教分離の風土とは合わなかったようだ。インフラ整備をしてもユダヤ人がローマになびかなかった根本原因と考えられている。紀元後66年頃からユダヤのあちこちで反乱が起こり、鎮圧が難しくなってきた。ローマはネロの時代だった。ネロは将軍ヴェスパシアヌスとその子ティトウスを派遣する。
 ローマの戦略はエルサレム包囲作戦であった。周りを陥落させていった。その中でガリラヤ地方の戦闘に際して投稿したのがユダヤ戦記を書いたヨセフスである。彼がいるからこそこの頃の歴史が解明できる。エルサレム包囲網に対し思わぬ伏兵はネロ暗殺だった。停滞したが、ヴェスパシアヌスが皇帝になり(コロッセオは彼が作った)息子が70年についにエルサレムを炎上陥落させる。
 残ったのは巨大建築大好きだったヘロデが作った三つの要塞だった。ヘロデの墓が最近発見されたというヘロデオンは71年に、ミフォバルが72年に落ち、そして今向かおうとしているマサダが73年に落ちて、ユダヤ戦争は終結する。かのクレオパトラも興味を示していたという当時の国情もあって、ヘロデは人里離れた地に巨大要塞をいくつも作ったものと思われるが、最終的にはそこがヘロデが支配しようとしたユダヤ人の最終決戦地となったのは皮肉な話ではある。

5−2 マサダ 0904〜1210 世界遺産
  マサダは、初期ローマ帝国の豪華建築の一例である「ヘロデ王の宮殿」がある考古遺跡だ。標高は北の一番高いところで59m。
紀元前142年、ハスモン家の大祭司ヨナタンがこの自然の要害を要塞化し、紀元前25年にはヘロデ王がこの要塞に宮殿や見張り塔をつくり、さらに強化した。ヘロデ王の死後、ローマに接収されたマサダは、しばらくローマ軍の駐屯地として使用されていたが、ユダヤの反乱により、AD66年からはユダヤ人が占拠した。
 このマサダが歴史的に有名になったのは、ローマに対するユダヤ反乱軍の舞台として登場したからである。それは次のような事だ。 紀元70年にはエルサレムの神殿も破壊され、その後3年問、この要塞にエリエゼル・ベン・ヤイールの指揮のもと女性、子供を含めた約960人のユダヤ反乱軍が立てこもり、ローマ軍と最後まで戦い続けた。これに対してシルウィア将軍の率いるローマ軍は、この要塞の回りを8つの駐屯地で囲んだ。この徹底したローマ軍の攻撃にユダヤ人は捕虜となって辱められるより自決の道を選んだ。ただ、洞窟に2人の婦人と5人の子どもたちが身を隠して生き残っていただけであった。
 この事件は、ヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳しく記されている。マサダを発掘のきっかけとなったのもこの本の記述によるところが大きい。ヨセフスという人は、紀元37年生まれの司祭一族の出で、パリサイ主義を奉じた家柄で、ユダヤ戦争(紀元66-70年)に、ガリラヤでユダヤ反乱軍を指揮していたが、ヨタパタでローマ軍に捕らえられ、その後ローマ軍につき、ローマの将軍と共にローマへ行き、紀元100年に没するまでローマに住んだという記録がある。彼の著作には「ユダヤ戦記」「ユダヤ古代史」「アピオンへの反論」などがある。
ローマ軍に陥落した後、要塞はビザンチン時代の僧侶が住みついていが、その後の大地震で完全に破壊されてしまった。

※ヘロデ王について近年その墓の存在がが予想されていたヘロディオンにおいて発見されたとニュースが流れた。

5−2−1 シカリ派
 ここに立てこもったのは熱狂派と言われていたようだが、今はその人達とは少し違ったシカリ派だと考えられている。自分たちのみ正統派であるという考えで、他の派閥は排除していた。常に短刀(シカリヤ)を身につけている。熱心党の党首を暗殺するなどあまりにも狂信的なので、エルサレムから追放されてこの地に66年にやってて、ヘロデ以降当時ここに入っていたローマの監視軍を追い出した。
 その後は周りの村などを襲い、虐殺や略奪を繰り返していた。特に67年、エンデディ村の700人を皆殺しにしたことが分かっている。

5−2−2 上へ
 マサダの真実という映画をまず見た。1981年にアメリカで制作された「マサダ」というテレビドキュメンタリーから抜粋した物だ。ピータ−オトゥールがローマ軍の大将を演じていた。
 それからロープウェイに乗る。ロープウェイはかなり大きなものだった。10分間隔くらいで出ていた。眼前には絶壁が見えるが、それこそマサダの砦なのだ。蛇の道と言われる徒歩道を上っている人もいた。我々は勿論ロープウェイ。ほんの3分ほどで頂上に着く。あがり始めるとすぐにローマ軍の宿営地が見えてくる。これは復元したものだが、全部で8つの宿営地をローマ軍は作りその間を城壁で巡らせた。このことは後でまた見る。真ん中で下りとすれ違う。かなりのスピードだ。上昇中にアナウンスなどはない。

5−2−3 東の門
 マサダの要塞は北側を除いてぐるっと城壁が巡らされている。その長さは1.4q。北側は断崖絶壁になっている。城門は東西南北と4つある。蛇の道を上り詰めるとこの門にでる。東の門とも蛇の道の門とも言われている。馬車が通れるように床は石造りだと言うが、こんなに厳しい道を上ってきたのだろうか。徒歩では麓から1時間くらいかかるという。横には警備室もあって、門の中はふくらんでいて待合所のように椅子があり、おそらくはここで今風に言えばセキュリティチェックを受けたのだろう。今は絵はがきなどを売っていた。
ここの壁はスツッコという漆喰で塗られていた。フレスコ画は漆喰が生乾き(フレッシュ)な時に彩色を施すものだが、このスツッコは乾いた漆喰に彩色したもの。ここからまず右に回って北側に出て行く。マサダの城西は北側が一番高い。従って北側に行くと言うことは上っていくことになる。それでも標高は0メートルくらいのものだ。黙々と歩く。

5−2−4 石切場
 深い大きな穴は石切場。とれるの石灰岩とドロマイトという石。ドロマイトの方が石灰岩より粒子が大きくより固い。マサダの建築石材というのは殆どマサダで掘られている。足りない分は一部周辺の岩を砕いて利用しているものもある。しかし大半はマサダからだ。貯水槽を掘った際に出てくる石も建築資材として利用した。ここは石切場となっていたが、最終的には堀として利用した。北側半分に重要な建物があったので、それを守るための堀として使った。
堀の反対側壁部分に黒い線があるが、これは線の下は当時のまま、その上は修復復元した部分ということを表している。ちなみにこの建物は監視館の仕事場。北側重要エリアにはいるためには今一度セキュリティーチェックが必要だったらしい。

5−2−5 メーン広場
 すこし開けたところにやがて至る。少し背伸びすれば遠くに死海も望める(ガイドさんはまだまだもっとよい景色がありますとは言っていたが感激だった)。ここにも監視所があり、その中にはフレスコ画が残されている。今修復中だった。図柄は幾何学模様とか大理石の模倣だとかだったらしい。きれいに彩色が再現されているところを見ると、この要塞宮殿そのものがヘロデの安らぎの場になっていたと言うことが頷ける気がした。


5−2−6 貯蔵庫
 貯蔵庫は17残っており(北側11棟、廊下を挟んで南側6棟)、様々な物が貯蔵されていた。実際には全体で23棟あったそうだ。大量のものがこの中に保存することが可能だったと思われる広さだ。食料(主に穀類・・・これらは細長い素焼きの壺に入れられて貯蔵されていた)、武器、葡萄酒やオリーブオイルなどの液体等々。オリーブオイルなどは、床に穴を開けても貯蔵していた。
この貯蔵庫から沢山の石片が出てきた。シカリ派の時代のものと思われる。シカリ派は配給制で食料をもらっていた。そのためのものらしい。それから大量にものを燃やした後が出てきた。自決前にこれらすべてを焼き払ってしまったらしい(なんにもやらないぞ!飢えのために死んだのではないぞ!の意味があるらしい)。
さてヘロデの時代に戻すと、ヘロデは美食家であったようだ。見つかっている壺には貢いだ者の名前が書かれている物が発見されている。魚のソース(魚の骨などを元に作る。イタリアから持ってこられた。)のものと思われる、魚の骨がこびりついた壺なども見つかっている。デザートにイタリアのクメイのリンゴやそれで作ったリキュールだとか、スペインの葡萄酒なども名入りで送られてきていたようだ。
  史書などからここを発掘すれば何かが出てくるだろうことは分かっていたが、本格的には1960年代から発掘が始められた。始めたのは、4本の売られた死海文書を求めて渡米までしたヤディン。数千人のボランティアを使って発掘が行われた。

5−2−7 浴場
 ヘロデと家族、客、家来達が使用した。だから公共浴場ではない。ミクベも見られるが、後に作られた物。ヘロデは改宗ユダヤ人なので、世俗的だったという。サウナの部屋は丸天井で、滴が落ちてこないように工夫されている。写真塚のモザイク。幾何学模様が残っている。部屋はぬるい部屋から暑い部屋へと続いていた。

5−2−8 クジ引きの部屋
 集団自決の順番を決めるクジを引いた部屋とされる。それは10片の石のかけらが見つかったことからそういわれる。
この最後の話は、ヨセフスが書き残した「ユダヤ戦記」によっている。このユダヤ戦記はハスモン朝の時代からヘロデ王の時代そして神殿崩壊までも記録している。彼は元々はユダヤの戦士であった。ガリラヤ地方の蜂起の時のエルサレムから使わされた総指揮官武将であった。ティポリからそう遠くない町のヨドハットを城化し、そこから指令を出していた。67年になるとネロは将軍ヴェスパシアヌスとその子ティトウスを派遣する。ヨドハットは包囲される。47日間攻撃は続いた。陥落するが、その時殆どの人が死ぬ。洞窟にいてわずかな人だけが助かったが、その内の一人が彼だ。彼は陥落前に「ローマの手に落ちぬために、皆自決をしよう」と演説をしたと言う。自分は死にきれなかったらしい。ローマ軍に捕らえられた彼はヴェスパシアヌスにあなたは将来皇帝に就くであろうと予言をする。ネロの暗殺以降1年間に4度の皇帝交代劇があり最後には予言通り、ヴェスパシアヌスが皇帝になる。これに気をよくした彼は生きながらえることが出来た。
 ヴェスパシアヌスは彼をお抱えの記録記者のようなものに任命し、ローマ名もユダヤ名がヨセフだったのでヨセフスとし、自分のフラビュースという姓まで与える。こうしてユダヤ戦記ができあがる。
 ユダヤ戦記にはどう書いてあるのか。エルアザル・ベンザイールというシカリ派の党首が最後に尊厳を守るために自決しようと演説をする。


  そしてエルアザルが更に勧告をしようとすると、突然全員がそれを遮り、抑えがたい衝動に駆られてことをを実行しようとします。彼らはまるで悪魔に取り憑かれたもののようになって散らばっていった。だれもが後れをとるまいと必死になり、最後に残されないことこそ勇気と冷静さの証を示すことになると考えた。妻子を殺害して自決しようとする彼らの衝動は、かくも大きかったのである。また実際彼らが妻子に近づいてことを実行しようとしたとき、人々が想像するようにその勇気が決してくじけることはなかった。彼らはエルアザルの勧告を聞いたときの揺るぎない覚悟持ち続けていた。もちろん彼ら全員において、個人的感情や肉親の情けが払拭されていたわけではなかったが、そうすることがその時には最愛の者たちにとって最善の道だと思われたのである。彼らは妻を抱擁し最後の挨拶を交わし、子どもたちを抱き上げると時に涙を浮かべながら長い別れの接吻をした。そして次の瞬間、彼らはまるで他人の手を借りたかのように、目的を遂行した。彼らは妻子が生き残って敵から陵辱を受けることやその他の災いを想像し、こうした措置のやむを得ないもと自らを慰めた。結局このような大胆な行為に逡巡したものは誰一人いなかった。あぁ!なんと痛ましい運命の犠牲者たちよ!彼らは己の手で最愛の妻子たちを殺したが、それがその場合のもっとも軽微な罪に思われたのだ。とはいえ、彼らは己の手でなしたことに激しく苦悶し、殺された者達よりも一刻でも長く生きながらえればそれだけ彼らに長く不正を働らいているように思われた。彼らは時を置かず、自分たちの所持品を積み上げると、それに火を放った。そして自分たち全員の処刑者として10名の者をクジで選出すると、それぞれ妻子の傍らに横たわり、彼らを腕にしかと抱くと、この痛ましい勤めを果たさねばならぬ10名の男達の前に首を差し出した。そして男達は逡巡することなく、全員を切り倒したのである。その後彼らは同じように、自分たちの運命をクジで託した。すなわちクジを引き当てた者が、他の9人を殺害してから、最後に自分自身の息の根を止めることとなった。彼らは皆、それを実行するのも、また逆に苦痛に耐えるのも同じだと信じたのである。ついに9人の者が首を差し出して死んだ。ただ一人生き残った者は、倒れた大勢の者達を見渡した。それは彼らの中にとどめの一撃を必要とする者がいないか確かめるためだった。彼は全員が間違えなく死に果てたことを確認すると、宮殿に火を放って激しく燃え上がらせ、そして懇親の勇気をふるって己の体に剣を突き通し、家族の者たちの傍らに倒れた。彼らは自分たちの中の誰一人として、生き残ってローマ人の手に引き渡されることなど無いと信じて、死んでいった。この悲劇があったのは、クサンティコス月の第15日(今の3月末頃か)だった。犠牲者は女子供を含め960人だった。
 その部屋がクジ引きの部屋と呼ばれるのは、10ヶの陶器の破片が発見されているから。破片には名前が書かれていた。くじ引きに使われた陶器かもしれない。この破片の中には党首のベンザイールという名前も見つかっている。
 はたして本当に自殺があったのか、調べる術は「ユダヤ戦記」にしかない。しかしマサダの戦いが行われているさなか、ヨセフスは普通は従軍する者であるが、宮殿の中庭にいたという。ヨセフスが演説したのと殆ど同じ内容をベンザイールがしたことになっている。・・・しかしながらそれ以上のこと旗に記録があい限り誰も分からない。それ故、ヨセフスの記録を今は信じて自決があったとしている。ローマ軍側の記録も他にない。
 ところで、何故かような方法を選んだかだが、自決とは、ローマに支配されるくらいなら自ら死を選ぼうと集団で自殺したことを言うわけだが、ユダヤ教では宗教的に自殺は許されないので、まず、男は家族の女子供を殺し、それから10人を選び、最後の一人だけが自分で死ぬと言う方式を採用したらしい。これがたった一晩で行われたそうだ。攻め込んできたローマ軍は960人もの遺体を目の前にして、勝ち誇ったというよりかは恐れのような感情を抱いたのだそうだ。生き残ったのは女性2人と子供5人のわずか7人だった。
 これが異邦人に徹底して抗戦したユダヤの英雄のように見なされ、「マサダの悲劇を繰り返すな」という合い言葉の元に軍隊の宣誓式もここで行われていた、という時代もあったようだが、最近では、シカリ派が周りに虐殺行為をしていたことや、やはりいかなる理由があっても自殺は認められないことなどの理由で、軍隊の宣誓式は行われないそうだ。

5−2−9 北の宮殿
 ヘロデはこの山頂に宮殿を築いた。西にも北にも造ったのだが、北の方が規模が大きい。
 北の宮殿には、上・中・下の3つがある。マサダの菱形の台形の北側のとがった部分を利用して作っている。上はヘロデ個人用の物。床のタイルは紀元前1世紀の物で、ローマから運ばせた物だという。当時のままが残されている。イスラエルに残存するモザイクでは一番最古の部類のものだ。風呂場で見たのとデザイン的には同じで、当時はこの模様が流行していたのであろう。ベランダに出てみると中・下の宮殿も見ることができる。
 ヘロデは巨大建築物を造るのが好きだったが、その前提にはかなり緻密な計画の元に、当時の建築技術の粋を集め、しかも他人が発想しないようなものを作っている。装飾なども手を抜かった。模型でも分かるように、北の三つの宮殿はデザインが違っている。夏非常にマサダは暑いが、北側で太陽が直接はいりにくく、しかも死海からの涼しい風がくるように考えられていた。ヘロデも眺めたであろうベランダから見える風景はすばらしい。地形も少し変わっている。泥灰土(でいかいど)と言われる土で出来ており、鉄砲水で流れてきた川の中の内容物が水を吸わない地形をこすり切り刻んだような感じで、荒涼感を増す風景を作り上げている。
 上から20m下、階段を103段下ると中の宮殿に着く。登りを考えるとぞっとする階段だ。が、危険であるということで中に入ることは出来なかった。中の宮殿は客達の娯楽施設がある。もてなしに使った物だ。
 下の宮殿は、更に15m下、階段を62段下がったところにある。客達の寝室があったそうだ。柱は珍しいドーリア式で、壁にはフレスコ画も残されている。寝室や浴場もあったそうだ。また、その一角(浴場)から3人の遺骨(男と女と子供)が見つかったそうで、自決の時の物ではないかとされる。女の頭には頭皮が残り、三つ編みの髪の毛もあった。女性用サンダル、ランジュウという名前の矢尻、兵隊の鎧のパーツ等が見つかった。
 妊婦のガイドさんの足は早い。トコトコと傍目で心配するくらいの早さで降りていく。最初に中の宮殿の脇を通る。円形だが今は入ることが出来ないので、そのまま通過し下の宮殿の道を急ぐ。途中で振り返ると下の宮殿が崖からそそり出ている構造なのがよく分かる。
 下の宮殿は、そのままだと狭いので柱をつけてせり出すような形で面積を確保していたという。フレスコ画もきれいに残っている。床はモザイクがあったが今は残されていない。柱はドーリア式になっていた。ただし、輪切りにした石の上に石膏を塗り大理石の模様を施し、大きな石から切り出したように見せかけていたという。柱頭はコリント式で、菜食がされていてかなり派手なものだったと伝えられている。東側には寝室もあり、小さいながらローマ式の風呂もあった(遺骨発見の場所)。
 一渡り見学が終われば、35メートルまたもと来た階段登らなければならない。則は足手まといにならないようにと、少し早めに登り始めた。途中でガイドさんが鳥の鳴き声が聞こえるといって、小型の黒っぽい鳥を指さしたけれどもそれどころではなかった。

5−2−10 浴場の上から
 浴場の所へ戻り、その上に乗って周りを見回すと、目の前に死海がよく見える。
 海水の塩分濃度が約3%であるのに対し、死海は30%の濃度を有する。1リットルあたりの塩分量は230gから270gで、湖底では300gを超える。ガイドさんは、イスラエル側では38%もあると言っていた。

5−2−11 死海
 死海はちょうど、目の前の所で北(左側)と南(右側)に分かれている。北の死海は自然のままだが、南の死海は既に干上がっており、そのために現在は北から水路を使って南の部分に水を流し込んでいるのだそうだ。ここに来るまでにその水路を見たが、両岸が塩で真っ白になっていたのが印象的だった。
 水を取り入れる水門も見えた。(前の項のところに掲げた写真)南に引き込まれた水はいくつかに仕切られていて、もう湖ではなくプールです、ガイドさんはと表現していた。つまり我々がtまっているホテルは元死海の巨大プールに面してあると言うことだ。その水は工場で取り上げられている。これはヨルダンと共同で開発した技術を使っていると聞いて驚いた。敵対しているばかりではなさそうで、イスラエルの人はヨルダンに観光にも行きと聞いてなおびっくりした。
 この南と北を分ける部分だが、もともとはワジが運んできた堆積物であったらしい。

5−2−12 宿営地
 目の前の荒地に四角く囲まれた物が見える。これはローマ軍がここを包囲したときに造った兵士達の宿営所で、全部で8つある。千人足らず(967人)のマサダを攻めるのに1万人ものローマ兵士がつかわされたという。そのうち3千人はユダヤ人の捕虜だったそうだ。正規軍団も第10団パルテンディスというのがやはり三千人くらい配備されていた。大きい宿営地には3千人もの人がおり、医療施設や神殿などもあったそうだ。
 宿営地の間には兵士が動けるように道路も整備されていた。更に、宿営地の少し外側には幅が2mが高さが2.5mの塀がが完全にマサダを囲むように作られ、更に数十メートルおきには監視塔が建てられた。石が崩れて道のようになっているのが塀で、その途中にある石の山積みになっているものは、その監視塔のあった場所。
  この宿営地、塀を巡らすことは、そこから軍事的な作戦(矢を射るなど)の為や、逃亡者を防ぐという直接的な軍事上な意味ももちろんあったが、中にいる人々への心理的な圧力にもなったようだ。事実、エルサレムも70年にローマ軍によって包囲されたが、取り囲まれてから三日後に陥落している。72年に落ちたミフォバルはこの石塀を作っている最中に陥落している。マサダの包囲網はなんとこの規模で二週間で完成しているが、落ちることはなかった。

5−2−13 ミクベの不思議
  マサダにはやはりミクベの跡が沢山残されている。水浴場だ。これはヘロデの時代ではなくシカリ派の時代に使われていたものだ。ミクベの水は40セラ(332リットル)以上との決まりがある。また清い水でないといけなかった。清い水とは何か。それは水源から人間の手によって切り離されていない水と定義されている。だから海の水に入ればミクベしたことになる。kわの水でも流れの中に入れば同様。わき水が溜まっているところ、雨を粋そうで集めたもの、等は適した清い水と言うことになる。しかしどこかの水をその時点では清くても壺に入れて持ってくるのは御法度。当然に、かような断崖絶壁の地において、その水はどのように調達していたかという疑問が出てくる。その疑問に答えてくれた。第一には、要するに天然の雨水や山からの鉄砲水を集めていたのだそうだ。このことの詳細は後に解き明かされる。
 とにかく貯水槽に水は汚れなく流れては来るシステムがある。その貯水槽から運んでくるわけだが、ミクベの横にも自然水を貯めるオサルという小さな貯水槽がある。そこは清らかな水を溜めておく。人が運んできた水は汚れているので、オサルとミクベは普段は栓をしてある水路でつながっている。水の入れ替え時には、貯水槽から壺などで水を運んできてまずミクベを満たす。その上で、清らかなオサルを少しだけ流し入れる。そうすると汚れを受けた可能性のある水を少量の清い水が浄化してしまうと言う理屈。このことによってミクベの水が清められると考えて済ませていたのだそうだ。要するに解釈の仕方で、どうにでもなると言うことか。このオサルという方式は今でも使われている。ミクベはどのくらいの頻度で替えるかだが、何百人も一日に入っても一月くらいは替えないこともあったとか。ちょっと汚い。
 これを聞いた則は、「僕ら子供の頃はトリスにちょっとジョニ黒を入れるとトリスがジョニ黒に変わったものだ」それと同じだと、訳の分からぬことをつぶやき、皆の失笑を買っていた。

5−2−14 貯水槽
  ではどうやって貯水槽に水を集めたのか。自然の水が自然にたまるに任せていたのではないという説明があった。
 水を集めるためにヘロデは水路と水路から水を流し入れる水門を造った。水路は上部と下部の2本造られ、水門、つまり水の取り入れ口は12あった。そこから大きな貯水槽に水が集められ、千人が3年間は使えるくらいの量が集められたのだそうだ。この貯められた水は、ロバによって要塞内部の居住地域のため池まで運ばれた。
 模型を見ながら説明してくれたので良くわかった。帰りがけにその実物を目にしてなおのこと納得。すごい物だ。
 上の細かな図をクリック来て別画面で拡大してもらいたい。画面左下と中央下から青の線が出ている。これが普段はワジとなっているところで、雪解けになると鉄砲水がおそう。その線上に左下からの青線を伝わっていくと4つ、中央下の青線を伝わっていくと8つの赤い印がある。これが貯水槽の位置。合計12と書いたものだ。そこから城内へはロバなどで運んで、城内のの貯水槽まで運ぶ仕組みだ。この仕組みもまたよくできている。8つの方はロバは一番高い貯水槽まで運ぶ。北側の門から入ったので、北の門は「水の門」とも呼ばれた。そこからは重力の力で下の貯水槽に枝分かれして送っていく。4つの方は、最終的には蛇の道の門から入ってそこの付近の一番高いところの水槽まで運んだ。なお水色の@がヘロデが使った風呂で、二つあるAが西と北の神殿の客用の風呂。
 貯水槽はほぼ毎年満タン状態だったということで、全部で六万立方メートルの良があったと言うことだ。この量は千人の人が普通に暮らして三年間暮らせる量であったという。

5−2−15 シナゴーク・書物の部屋・監視塔
 ここにも当然といえば当然だがシナゴークがある。ヘロデの頃は厩舎だったようだが、シカリ派がシナゴークに作り替えたのだといい、世界でもっとも古い3つのうちの一つだそうだ(ガムラ=ゴラン高原にある=、ヘロデオン、マサダ)。
 そもそもシナゴークとは、第2神殿が壊されてからユダヤ人達の心の拠り所として集会所として造られた物なのだそうだ。今では祠があり、木の扉の中には今でも祈りに来る人がいるのだそうだ。その部屋の床下から二つの穴が見つかり、穴から古代の巻物(紀元前一世紀〜紀元後一世紀)が見つかったそうだ。タナハの写本だった。この穴は何かと言えば、ユダヤ教では古くなったタナハなどは捨てるのではなくこうして穴を掘って埋める、ちょうど宗教書物のお墓のような形にする。これをグニザという。シカリ派の作ったグニザのどうもようだ。
 それから「巻物の部屋」と呼ばれているところを見学した。ここからも、タナハの写本や外伝や自分たちシカリ派独自の戒律や思想などを書いた書物が見つかっている。14の巻物が出てきたが、そのほかにも道具などが見つかっている。それ故に名付けられている。
 この部屋はちょうど城壁のところにもうけられている部屋で、平和なときには部屋として使うが戦いの時になるとこの中を土砂で満たして壁を厚くして破られないようにしたもの。こうした構造はこの時代は一般的に見られた構造なのだそうだ。全長1.4qの中にこうした部屋が97も作られていた。シカリ派が生活していた当時は、この城壁の部屋でほとんど供給がまかなえたという話だ。
 同じような構造で、監視塔もあった。全部でマサダでは37の監視塔があった。二階部分は監視塔であったが、一階部分は鳩小屋(コロンバリウム)に使われていた。鳩は食用にし、その糞は肥料にしていたていた。天井部分は丸太を並べ、ヘナ土と漆喰で二階としていた。監視塔からは外へも降りられた。城内からは一階からの階段はなく(非常時埋めてしまえば役に立たないからだろう)ハシゴであがり下がりしていた。

5−2−16 ローマ軍の攻撃
 西の壁のあたりは他が断崖絶壁なのに対して少しなだらかになっている。白い土のあたりがローマ軍が埋め尽くした所なのだそうだが、元々やはり他に比べると攻めやすい壁であったことには違いなかったようだ。
 72年の冬にローマ軍はやってきてたった二週間で包囲網を作った。しかしヘロディオンなどのように、この精神的プレッシャー作戦は効かなかった。マサダは落ちない。それで城壁を破る必要が生まれた。そこで目をつけたのが、比較的なだらかな西斜面であった。盛森土をしていくわけだが、土と石混ぜて更に木の枝をさして補強しながらで3ヶ月も掛かって盛り土をようやく完成させる。その一番高いところに石の舞台を作り、幅が2.5m高さ30メートルの攻城櫓を繰り出した。城壁の上5メートルのところに顔を出すことが出来た。城壁を破るためには破城槌(アイル)という道具で、壁面をたたいて壊すしかない。しかしながらその作業はじゃまされてしまうので、攻城櫓の上から矢を射るなどして、妨害させないようにした。こうして攻め立てた。道具としては、カタパルトとかパリスタが用いられた。25s〜80sもある石を飛ばしていたようで、、その飛行距離は実に400mから800mも飛ばせるカタパルトもあったらしい。
マサダ防衛軍とて無抵抗であった訳はなく、大きな石を城壁から転がしてローマ軍を妨害した。使われなかった石も多数発見されている。73年春(3月の終わり頃か?)にとうとう城壁が破られる。そこで、防衛軍は材木が使われていたヘロデの宮殿から材木を持ち出し、木と土で即興の城壁を作る。これに対してローマ兵はたいまつを投げ、あえなく即興の城壁も炎上する。ここで、望みのないことを防衛軍側は悟ることになる。
 ここに至り、エルアザル・ベンザイールはローマ軍お手に落ちないために、自分たちの尊厳を守るために、自決しようという演説をする。その結果がくじ引きの部屋の所で書いたようなことになったわけだ。翌日朝あがってきたローマ軍であったが、不気味な静けさがそこにはあった。大声で叫んでみたら、その声に応じた人がいた。二人の女性と5人の子供であった。南側斜面の洞窟の中に潜んでいたのであった。若い方の女性がエルアザル・ベンザイールが演説して皆自決したくだりを語るが、ローマ兵達はその話を半信半疑で聞く。北の宮殿はまだメラメラと燃えていた。火を消そうと宮殿に近づいたローマ兵が見た光景というのは、ものすごい数の屍だった。そして、ローマ兵たちはその潔さに愕然とした・・・とヨセフスはユダヤ戦記で書いている。これがシカリ派の最後の物語。

5−2−17 皮なめし所
 文字を書き残すための皮を作るなめし所もある。2階から見下ろせるようになっているので、則は上から順はしたから写真を撮った。

5−2−18 西の宮殿
 これもヘロデの宮殿だったようだが、殆どを北の宮殿で過ごしたためにあまりつかわれなかったとか。見るべき施設も残されていない。

5−2−19 ビザンチン時代の教会
  壁に少し飾りが残されている建物だ。祭壇とされる所も小さい。ここで信仰を深めていた人々はラウラ(小道)といわれる集団で、週末のみここへ集まって祈り、そのほかは自分の洞窟で過ごしていたのだという。
 このあと、東の城門へのルートの貯水槽あとを見た。写真は前掲したが、外からは水路と分からぬ位壁面と一体化していて、やがて直径一メートルにも満たない穴が開いていて、そこに水は吸い込まれるようになっていた。その横に人が入れる程度の穴があり、そこから中に入ると巨大な水槽があった。エジプトの巨大な建築群にも驚愕したが、この知恵と努力にも同じような驚愕を覚えた。

5−3 昼食 1230〜1330 ソドムスアップルにて
 スープ、ガーリックトースト、パスタ、ピザorチキンor魚
 昼はエン・ボケックへ戻ってきてからした。ものすごい混みようの店で、後から来た日本人団体は入ることができなかった。日本人だからきっと予約はしてあったと思うのだが、先日の我々と同じように、この国では予約というのはあまり意味がないのだろうか。
 ただ、味は良かった。この国では、いやこの国でも、というべきか、昼食は美味しい。

5−4 死海浮遊体験 1350〜1450
 昼食の跡すぐホテルへ戻って着替えると、タオルを借りていざ死海へ。といってもホテルのプライベートビーチなのでそれほど人がいるわけではない。今は冬ということで、観光客も少ないのかもしれない。
  湖畔へ行くと風が冷たいが、ここまできて入らない法はない。エイヤッと水着になる。
素足のまま入ったが、やはり足が痛くてたまらずビーチサンダルを履いて入ることにした。足下には結晶となった塩のでっかい固まりがごろんごろんしている。でも、ヨルダンの時と違ってその結晶が見える。それだけ水はきれいだった。
 意を決して浮いてみると、これまたヨルダンよりも体が良く浮く気がした。のびをするようにまっすぐになっても浮いている。
 添乗員さんがきたのですぐに写真を撮ってもらう。それからもしばらくお互いに写真を撮ったりビデオを撮ったりして楽しんだ。順など気持ちよすぎてうっかり深い所まで行ってしまったためにうまく立ち上がることができずに体が1回転してしまった。
何度も出たり入ったりしているうちに二人とも首のあたりに白く塩が張り付いていた。それほど塩分が濃いのだろう。
面白かったー。
ガイドさんの話による死海の効果。
@ 誰でも浮く。(そう、則でも浮いた。)  A1回入ると10年若返る。 
B リラックス効果がある。(十分楽しんだのが効果だろう。)
C 滅菌効果がある。軽い水虫などすぐに治る。
D 低地にあるため酸素の量が他と比べて10%も多いので、喘息にいい。
E 長い悪い紫外線をシャットアウトし、短い良い紫外線のみ降り注ぐ。
F 体脂肪を取り、やせる効果がある。(さて、この効果、いつまで持つのか。)

5−5 午後はのんびりタイム
 その後は部屋に戻ってのんびりと過ごした。 
 記録の整理をしたり、体を休めたり、いい休養になった。