3月29日(水)
  パトナ ナーランダ大学 ラジギール ブダガヤ(泊) 晴

ホテル(0800)・・ナーランダ大学跡(1010〜1115)・・昼食 ラジギール法華ホテル(1135〜1230)・・竹林精舎(1233〜1255)・・ビンビサーラ王の牢獄(1300〜1303)・・霊鷲山(1307〜1350)・・ガヤ(1500)・・ホテル着(1525)


5−1 朝
 則は朝は3時過ぎに目を覚ました。未だ未だ体が日本時間を刻んでいる感じだ。このまま印度旅行が終わればよいとも思うが、問題は最終日の飛行機だろう。
 4時40分過ぎ、アザーンのようなものを聞いた。遠くからのもので、アラーアクバルなどとも聞けなかったので、正確にはわからないが、こうした共存社会ではずいぶん他の宗教者にとっては迷惑な話だろう。地域的に隔離するのがよいかどうか解らないが、難しい問題だ。日本のモスクではどうなんだろうかと、思いが既に日本に及んでいる。
 順:血圧120−81 パルス62 体温35.5
 則:血圧135−88 パルス51 体温35.6
 さて今日は5日目。 実は今回の旅行で画期的なのは、旧来のような姿に戻ってきていることだ。というのは、夜にのんびりと言うよりも恐ろしく早寝早起きなので、この日記を則が現地でつけていると言うことなのだ。今のところは。そして、今日はオンタイムでこの部分を書いている。
 この印度旅行の目的地(正確にはネパールのルンビニへ向かう出発点)に着くまでに丸々2日間を要したことは既にふれたが、帰路は深夜便なので、日程にはその日数も加わっての9日間であるので、実際は9−2−1=6で正味は6日間。春休みの短い時間を利用しての旅行だから仕方がない。今日は実質は3日目で、旅も中盤にかかったというわけだ。(右の写真は、近くの公園でサッカーなどに汗を流す裕福な人々。)

5−2 出発
 朝8時にホテルを出る。今日の行程は比較的ゆったりしたものらしい。P旅行社の作った予定では7時出発だったが、8時とゆっくりになった。その分朝食もビュッフェスタイルが可能になり、朝食自体も楽しめた。朝食は南印度のスタイルを中心としたものということだったが、ベジタリアン中心のものであり、食べやすかった。

5−3 ナーランダ大学
 さてさて我々の運転手は3時間の予定の所を2時間10分でナーランダ大学跡に到着した。9百万冊の書物に1万人の学僧と2 千人の導師を擁した仏教修道の中心地で、5世紀から12世紀にかけて全盛を迎え、玄奘三蔵もこの地に留学したという。
 ここはガイドさんの一番の推薦の所だ。大学の定義がすこぶる難しいが、南アジアから極東にかけての中では少なくとも最古の大学(学問所)の一つだろう。実際に現地における解説の人もアジアの三つの古い大学の一つという説明をしていた。 
 発掘されている僧院群跡=大学跡=は全体の四分の一程度ということで、跡は現在の市街地の下に未だ埋まったままというのは、ベナレスなどと同様だ。
 我々はこれまでに仏教遺跡をいくつか見てきた。中国とパキスタンだ。何度か書いたように公園化著しい印度の仏教遺跡は勘弁して貰いたいと思う気持ちに代わりはないが、ここのものはその規模と言い、保存の状態と言い、特筆すべきものであることは事実だ。

5−3−1 成り立ち
この大学、というか釈迦の高弟であるシャリホツ(舎利弗・・・釈迦十大弟子の一人)の死後、アショカ王によって、シャリホツの遺骸を埋葬してそこにストゥーパ?を建て、かつ僧院も建てられたと伝えられる。その地をもとに、5世紀、7世紀、9世紀と壊されては建て直され、その度に古い僧院の上に新しいものが建てられたとのこと。従って、僧院跡も三段構造になっている。最初の二回は大地震によって、そして最後の一回は何度も書いてきたようにイスラムによって破壊された。

5−3−2 僧院
 三層構造にある僧院の形式をよく伝えているのは、bPと2の跡だ。他のもので発掘が進んでいるものは、概して一番上の第3番目の、つまり9世紀のイスラムに破壊された僧院跡を復元しているだけだのように思えた。
 僧院の個室の大きさは、タフティバイや黄河故城などのそれよりも大きい。広さも高さも十分な大きさがあり、中にはプロ野球選手の合宿所のように、先輩後輩の二人が同居する形のものもあった。古い二世代のものにはベットが作られている。ベットの長さからして(幅はゆったりしていた)そこの居住していた人の身長は極端に高い訳ではないと想像できるので、部屋のスペースは日本風に言うと四畳半位あり、勉学には十分だったに違いない。部屋の中も工夫されており、灯り用のロウソク立てや本棚などもあった。 日本風にマットを敷いていたと言うような半分冗談かとも思える説明があった。ただ、最新の9世紀のものはベットがない。
 入り口もアーチ状になっていたが、それがせり出した形のものか楔形の完全なアーチ型のものか、それは何世代のものがそうなのかと言った、建築様式的な進化の過程はどうも説明されず、遺跡という形骸化した保存が先行しているように思う。印度がそれなりに豊かなからだろうが、欧米や日本の学者による発掘のような形式の発掘がなされているのだろうか。その時代、時代の文化に迫るものがあまり感じられなかった。
 食堂らしき所には、大きな井戸と米倉があった。米倉は、せり出した形のものだった。 
 本当は煉瓦の組成の違いなどを聞きたかったけれども、そのあたりはあまり定かにできなかった。
 一つ興味深かったのは、雲母のキラキラする効果を鏡に似せて、釈迦の像を照らす工夫をしていたらしい、その残骸があったことだ。また、そこへ行くための入り口は頭を下げなければ入れないよう低くなっていた。

5−3−3 自由時間
 自由時間になって、シャリホツの墓の上にこれも三層に建て替えられている寺院跡の裏側に回ると、警備員が100ルピー払えば接近禁止区域に入れてやるというような話をもちかけてきた。丁度誰も見えない所で、警備員の格好のアルバイトの場所なのだろう。勿論我々は無視している所に、丁度インド人の家族がやってきたので、もと来た道を戻るように退散した。退散すると今度は別の警備員が声をかけてきた。
そのあと、外の寺院群やストーパなどを見て歩いた。同じような建物がずうっと並んでいる。確かに広い。全部見ないうちに結構な時間になってしまったので、あわてて元来た道を復習をしながら戻った。確かに、これまでの中で一番感動したが、そのぶん土産物屋のしつこさも最高潮に達した。団体のツアーだと、後先ができるので、余分な時間があり、こうした輩との会話を楽しむのも旅の面白さではあるが、今回のような形だと、敦煌および新彊ウイグル自治区の旅の時もそうだったけれど、味気なく蹴散らして車に乗り込むだけだ。

5−4 昼食
 そこからまず法華ホテルに向かう。今日も日本食だ。こうした配慮は有り難いような有り難くないような。確かに健康にはいいだろう。体調を崩す人の多くは、インドの香辛料や油によるものだそうだから。

5−5 竹林精舎
 午後の観光の最初は竹林精舎。釈迦のためにビンビサーラ王がこの地に、釈迦に瞑想できる場所を寄進したのが始まり。ここは祇園精舎の鐘の声・・・の祇園精舎とともに、仏教寺院の祖とされるものだ。
  ただ現在は池と、その奥に釈迦の座像が置かれているだけの、公園になっているに過ぎない。地元民はともかく、閑散期でたまにしかこない観光客相手ではもぎりのおじさんもどこかに行っていていない。しばらく待ってから入場。池の周りを一周して外に出た。

5−6 ビンビサーラ王の牢獄
 次に、王の幽閉場所へ。ビンビサーラ王の牢獄とも言われる場所。ここはよくわからなかった。ガイドさんの説明も?だった。その後ホテルに帰ってきてもう一度聞いたけれどそれでも?だった。
 まぁこれは調べればよいことだが、要は政権争いの場となったと言うことだろう。息子のアジャータシャトルによって王が幽閉され、殺された。幽閉場所はその範囲を石で囲い示しているに過ぎないが、そこからはこれから訪れる霊鷲山が望まれた。またその幽閉場所は七重に囲まれていたとも言われている。
 ガイドさんの説明では、高さも六メートル位あったと言うことで、まぁかなり頑丈に脱獄などできないようにしていた牢獄であったようだ。ガイドさんの話の内容からすると、釈迦のあまり出来の良くない弟子、つまり悪い心を持った弟子の一人がこの話に関係しているらしいが、そこのところがどうも理解できなかった。

5−7 霊鷲山
 次に霊鷲山へ。ここは釈迦が好んで登った場所と言われ、弟子たちとともに瞑想した場所とも伝えられる。登山口にはチェアリフトが横にある。しかしそれはジャイナ教のお寺のある別峰に登るもので、霊鷲山には徒歩でしか行けない。もっとも霊鷲山とは言うが、丘のようなもので標高はどれ位か解らないが、少なくとも麓から我々の遅い足で20分とかからなかった。

5−7−1 上り
 ダラダラした長い階段が続き、きつい登りはない。10分も登ると視界が開ける。そこに見えるのは原生林とおぼしき樹海のような場所だ。およそ耕せる所は田畑になっていると思われたが、そうではないらしい。その辺りから少し行って左にカーブをとると道は左に折れる場所がある。そこを登っていくと、日本人が建立したという仏塔に登ることができる。しかし我々には余裕はないから、先を急ぐ。既にガイドさんは100メートル位先だ。
 霊鷲橋と書かれた小さな橋を渡ると全体の半分は超える。頭上にゴールの、チャルタがはためく辺りに出る。そこから誰かが下をのぞいている。後からそれが坊主であることが知れる。

5−7−2 頂上の生臭坊主
 さてようやく頂上に着くと、先ほどの坊主がレイ状になったものを勧める。それを持って南無阿弥陀仏とかかれている小さな礼拝場のような場所に捧げろと言う。我々もちょっと引っかかったかなぁと思いつつ、それに従う。そこには、これぞとばかり一万円札などが置かれている。いやな雰囲気だ。我々が花を捧げると、金を要求した。則が10ドルという破格の額を出すと、日本の金がよいという始末。それでもこれしかないというと、今度は順におまえも納めろと言う。二人で一人だというと、それぞれに出すものだという。まったく困ったものだ。しつこい生臭坊主に、10ルピー札を出す。さすがに坊主もあきらめた。順さんは「だから仏教は廃れるのよ!」と怒っていた。則も同感だ。ちなみにここに書いた件は、全部日本語でのやりとりだ。

5−7−3 下り
 帰り道はガイドさんには先に帰ってもらった。気の毒だったから。なぜかと言えば、生臭坊主とのやりとりが、それだけでは終わらないと感じたからだ。案の定、我々が霊鷲橋の近くまで来ると木魚の音が聞こえた。それは祈りなどではないことがすぐに解った。
 道中下っていく道々出幾ばくかの金を要求する物乞いの人々への、客が来たぞという合図だったに違いない。今まで木陰で休んでいた彼らがもぞもぞと道に出てきて、何事かをしゃべり、手を出す。こうした輩が3人いたし、もっといい加減なのは木陰から水を飲みながら怒鳴った金をせびるものさえいた。困ったものだ。
 この時期たまにしか来ないカモの日本人が来たのだから、仕方がない。ちなみに戻るときに、道を清掃している人たちがいた。彼らによって道ははき清められているのであり、ここに書いた人たちによって仏教の霊場は汚されているとも感じた。そのことに腹が立ったので、少し長く書いてしまった。
 さて、下ってきたら丁度停まっていたチェアリフトが動き出した。バスから降りた一団が使うためだった。ガイドさんが乗りますかと声をかけたが、もうこりごりだ。もっともジャイナ教は繁盛しているのだろうが。

5−8 また長い移動
 そこから今日の目的地までは、また80q位ある。ガイドさんの言や資料では3時間かかる行程。途中のガヤで交通渋滞に巻き込まれたにもかかわらず、およそ2時間半でホテルに到着した。

5−8−1 ドライバー
 我々の車のドライバーのことをここで少し触れておきたい。彼はクーラーをよく効かす。車の方向による部分が多いのだろうが、日の当たらない後部座席は時にすこぶる寒い。ガイドさんに言って温度を上げてもらうが、すぐにもとの状態になる。こちらは寒さ対策が必要だ。
 しかしながら、これは文句のために書いているのではない。我々は彼に対してそれさえも我慢させる要素があることを言いたいので書いている。彼は、運転中は飲み食いはしない水は口に含むが、潤したらそれは道ばたにはき出す。禁欲的な性格なのだろうか。彼は途中休んでチャイをすすることはあっても、休憩時間以外は我々の行動を抑制することは全くない。
 そればかりか特筆すべき点は二つある。第1は道をよく知っていることだ。と言っても地図を見ないと言うことだ。これは印度のツーリスト対応の運転手はみなそうなのらしい。代わりに、道の途中途中で地元民によく声をかける。ガイドさんによれば道を聞いていると言うよりも、道路状態を訪ねているという。もっとも、右左を間違えたこともあるので、単にそういうことばかりではないだろうが、概ねそれは当たっているようだ。
 よく細い道を行く。ショートカットしたり、交通量の少ない道を選択したりしているためだと思う。だから、だいたい行程の標準時間を概ね70%程度で走りきる。これは驚異だ。
 第2点は、急ブレーキを踏まない。概ね70%で走りきるには、道路の選択だけでは達成されない。それなりのスピードを出さなければならない。しかし、だからといって、我々がつんのめるような急ブレーキは踏まない。そのテクニックはすごい。
 このことに由来して、我々はある決断をした。そのことについては明日ふれたいと思う。

5−9 ガイドさんと晩餐会
 夕食前に、我々はガイドさんの部屋に招き入れられた。添乗員の部屋に行った経験はあるが、現地のガイドさんの部屋に行ったことはこれまでにない。アルバイトのためにものを売るのつもりなら車の中や明日予定している列車の中でできるし、何故(なにゆえ)かちょっとわからなかった。
 とりあえず、われわれもつまみ用のお菓子と焼酎持参で部屋に行った。部屋には、我々が印度料理というとカレー以外に真っ先に思い浮かぶと言ったタンドリーチキンと、これまた我々がウイスキーとどちらがよいかと聞かれて選択したラム酒が用意されていた。そこでかなり飲んで話をした。かれが7時とこだわったのは、このためだった。8時からの夕食前にしたかったらしい。
 この話の中で、重大な決断をしたのだ。
 それから食堂に移って食事後、荷物整理を半分して寝た。

ガイドさんの名前とアドレス
Ravi Kumar
ravi_kr321pu@******.***.***
mobile phone No. 91-981037****

<ホテル> ロイヤル レジデンシー 107号室
 設備は整っていたが、お湯が出ず、水風呂。