3月31日(金)
   ヴァナラシ(ベナレス) デリー(泊) 晴

ホテル発(0515)・・船上(0545〜0635)・・車発(0645)・・ホテル着(0700)・・昼食(1230)・・ホテル発(1400)・・空港着(1430)・・機内へ(1530)・・S2-115(1600発1720着予定)・・離陸(1555)・・食事(1615)・・着陸(1715)・・空港発(1752)・・ホテル着(1808)


7−1 朝
 昨日は疲れたせいもあって、則は朝は4時過ぎに目を覚ました。順さんは、3時頃サイレントアザーンとおぼしきものがあってそれで目を覚ました。
 順:血圧127−78 パルス63 体温35.9
 則:血圧153−94 パルス58 体温36.0
 今日予定されていた日程の後半部分、つまりサルナートの早朝ガンジス沐浴風景見学と黄金寺院見学(これは実際にはヒンズーの祭りが昨日から始まっているなどの安全上の問題から今回はキャンセルされた)を除く、沐浴見学後に食べる朝食後から昼食までの歴史公園地区の見学は、急遽変更した昨日のうちに済ませてしまったために、午後は休憩タイムとなった。我々にもガイドさんにも、そして何よりも長時間走って来た運転手さんにとって骨休みになればと思う。でも、我々がホテルで朝食を食べている窓の外(我々が朝食一番乗りだったので窓側の席を偶然与えられた)では、車を一生懸命に磨く彼の姿が食事の間中続いていた。

7−2 ガンジス川へ
 さて早朝ガンジス川沐浴風景見学。朝5時20分の出発。同じホテルに泊まっていた日本人の団体は、15分の出発だった。
 運転手の技量だと、5分差は十分に取り戻せる時間だった。道も空いていたので、途中ヒンズー教の一団に道を塞がれはしたが(正確には彼らを我々が邪魔したが)、直ぐに目的の場所に着いた。
 まだ辺りは少し暗い。車を降りた場所のほど近くで、チャイを飲む。この街に最初に訪れたときの入れもとと同じ素焼きの入れ物だった。

7−2−1 乗船
 45分に小舟に乗る。小舟には5人乗った。
 何故5人なのか説明がいるだろう。船頭、ガイド、我々の外に現地のガイドが乗ってくる。このガイドはしかしながら、ほとんど我々の目に触れる限りの所では仕事をしていない。昨日のガイドと同じ人だ。昨日も同様であったが、このガイドの役割はたぶん、現地の主に経済的な理由によるであろうルールと、治安の悪さに対する臨機応変の対応上の理由の二つが考えられる。まさかあの暇そうな人は何をしているとも聞けずじまいであった。
 船は二つの火葬場近辺の間をCの字のように回る。Cの両側が川岸と思ってもらいたい。それからCの書き始めの所からやや上流の火葬場近辺までさかのぼる。それから川の中央付近を下り乗船場所を通り過ぎ、今ひとつの火葬場まで行き、それから引き返し元の場所に戻りCの字が完成する。

7−2−2 沐浴風景
 沐浴風景の場所に来て気がついたのは、日本人観光客が多いことだ。3割近くを占めている。同じようなルートをたどっている男性二人のグループとは遺跡やホテルで何度か顔を合わせたが、今回の旅では意外なほど日本人に会わなかった。しかしここに来て昨日の夕食時にはツアー客の10数名の一団に会ったし、川から岸辺を見てもけっこう日本人とおぼしき人がいる。勿論小舟やもう少し大きな船の乗った一団も。
 船は沐浴場のいくつかを通過してゆく。解説書にはガートは64あると書いてあったが、実際にはもっとあるそうだ。が、それらにも流行り廃りがあるようで、多くの人で賑わっているところとさっぱり人のいないところがあった。
 沐浴をしている人々は当然のことながら老若男女。赤ちゃんからお年寄りまでだ。若者は泳いでいた。
 寺付近ではヒンズー教の読経の声が拡声器で流れたり、鐘の音がしたりして、沐浴風景以外にも楽しむことができた。伝統の体操のようなものをしている人々もいたり、洗濯屋さんもいて熱心に商売をしていた。そんな川で沐浴をしているのだ。
 そのうちに太陽が対岸の地平線から登り始めた。ご来光は、やがて水面に達し、荘厳な雰囲気を醸し出した。寺院などの建物が朱に染まった。
 火葬場は写真禁止であり、我々もそれに従った。下流の方のマニカルニカガートでは、4体の遺体が荼毘に付されており、4筋の煙があがっていた。薪を積み上げた上に遺体を置いて火葬するといういともシンプルなものだ。
 そこから引き返し、乗船した場所で降りた。


7−3 朝食
 ホテルに帰ってから、一旦部屋に戻り、7時過ぎからオープンしているというので、早速に朝食を摂りに行った。ここのホテルは早朝出発の観光客がいるから、それなりに大変だ。その分朝食の提供時間は遅れるのだろう。
 朝食に特筆すべきものはないが、ミカンは食べていたが街の中でミカンとともに今を盛りと売られているブドウは食べていなかったので食べた。偶然であろうが、青臭かった。 食事をしていると、日本人の一団が観光から帰ってきた。そのころを潮時に、我々は部屋に戻った。それから5時間あまり、ボーっと過ごすしかない。則は、写真の整理をしながら昨日から今朝までの日記を書いた。順は写真をスライドショウにしてみていたが、いつの間にか寝入ってしまった。

7−4 飛行場
 昼食を食べて、それからほぼ一週間前にここに来たときの自動車の修理工場の写真をホテルの窓から撮ってから、飛行場に向かった。
 飛行場は混雑していたが、添乗員さんともう一人が手伝ってくれたので、チェックインはスムーズに終わった。
 空港内のチェックは厳重で、航空券を提示し建物の中に入る。チェックインの後、搭乗待合室に向かう際にまた手荷物には全てタグを付ける。我々は問題なく通過したが、ナイフなどを持っている人がいたりして(今時珍しい限りだ)セキュリティーチェックでかなりの人が引っかかっていた。

7−4−1 サハラ航空
 サハラ航空は、デリーから出るときのフライト状況は軒並み遅延表示だったので嫌だったが、早めに搭乗開始になった。ここでも、手荷物を更に調べる。そうしてようやくバスに乗り込む。飛行機は定刻前にテイクオフし、当然ながら定刻前に着陸した。
 飛行機では食事が出た。明らかに則は太った感じだ。ヤバ。機内で明日の打ち合わせをしていて、我々が日本でオプションを申し込んでいたのが伝わっていないことが判明した。エライ事だ。勿論我々の通りになることになったわけだが、P社が悪いのか現地のI社が悪いのかは定かではないが、明日の朝になってからでは遅すぎただけに、ガイドさん共々少しあわてた。

7−5 ホテル
 結局明日は8時半の出発となった。着陸も早かったのだが、荷物の出てくるのが遅かったので空港を出るのに少し時間がかかったが、ホテルは飛行場から至近なので、直ぐに到着した。そして今最後の日記を書いた。重たいから、スーツケースにコンピュータ類も忍ばせてしまうつもりだから。
 
<ホテル> ラディソン 454号室