再び印度へ
再び日本のカオスから世界のカオスへ



★私たちの隣町-私たちが飲み屋街を徘徊する町-、そこは、「日本の印度」と呼ばれている町。エスニック雑貨を扱う店やエスニック料理を出す店が多いことと混沌としている町のたたずまいに由来するらしい。インド人が腕をふるう料理屋も何故か多い。さて2008年、師走のざわめきに包まれている年末のある日、私たちはその隣町の駅頭にいた。そして日本のカオスから世界のカオスへ再び旅立った。

前回は仏跡を中心とした個人旅行であった。そして今回は印度の北部から中部の観光地のゴールデンルートを周遊するツアーを選んだ。印度の今回御旅の必然は、おそらくはツアーの参加者のほとんどがそうであっただろうと思うが、曜日並びでこの上なく最小の休暇で可能な最多の日数を楽しめるという日程上の理由が選択肢の一番を占めていたであろう。実際に参加者の一人は、この並びを4年間待ち望んでいたとも聞いた。ちなみに16日間のツアーで、noriが休暇を取ったのは僅かに四日であった。

★我々はいつの間にか世界遺産フェチになっていた。だから今回の旅行の目的の一つは、世界遺産巡りであったことは言うまでもない。しかも今回はトピックメーキングが待っていた。世界遺産サイト訪問数200達成を迎えることが予定されていたからだ。だいぶ前に、T社の社主は480の世界遺産を廻っていると読んだことがある。もちろん我々はそうしたことは叶わぬ身ではあるが、幾ばくかそれに接近したいとは思う。私たちが立てている目標は、333サイト。あまり意味はないが。その一里塚となる旅行だった。

★さて今回選んだのは、S旅行社。今回で4回目の利用かと思う。S旅行社の魅力は、ずばりアバウトなところ。これを嫌いだとこの旅行社は利用できない。しかしながら、今回はかなり管理されている旅行になった。それからまだ旅のレポートがこの時点では来ていないが、細やかさについて言えばE社に迫るものがあった。その分おもしろさに欠けていたと言ったら贅沢か。またこの旅行社にしては珍しかったのは、リピーター率が低かったことだ。だいたい10回は利用している人でいつもはほとんど占められている。一定の雰囲気ができあがっているのだが、今回はよい意味でそうしたことはなかった。(あとから来た旅日記はこの旅行記のダイジェスト版のような感じのものだった。)


★前回の旅は仏跡紀行だったから印度の印度的なものは、旅の中心課題ではなかったが、今回は前回よりはそれに接近するチャンスがいくつかの場面であった。特に強烈な印象は列車の寝台車の旅だった。駅に到着すると乗り込んでくる物乞い、足下に平気であめ玉の紙など投げる乗客、それを掃除に来て幾ばくかの金をせびる少年。こうした少年が乗り込んでこない低いグレードの車両の足下はゴミであふれていた。また添乗員がゴミをまとめて係に手渡すと、係はそれをためらうことなく、走行中の列車から捨て去った。シーツ無しには寝ることも出来ないベッドや、早い者勝ちで占めるパブリックスペース。この国にはいったい秩序というものはあるのか、とも感じた。それから使い走りの少年を伴って旅行している、3〜4才の子どもを連れた若夫婦。日本では考えられない光景が我々をいやが上にも、今旅しているところが印度なのだと感じさせた。

★前回と大きく印象を変えたのは「野良牛」の存在。デリーではほとんど見なくなった。聞けば、都会では牛を飼うことが禁止された結果だという。次第に野良牛は淘汰されたと言うことか。それでも駅で列車待ちをしていると、おもむろにプラットフォームから線路に降りる婦人がいた。彼女は降りるとしゃがみ込んだ。しばらくすると何食わぬ顔で、元のプラットフォームに戻っていった。とはいえ、駅に住んでいるのではないかと思われるような少年でも、プラットフォームの水場で石けんを使って体を洗っていたし、町の空き地でも同様の光景を目にした。衛生観念がないのではなく、たぶん衛生観念が我々と違うだけなのだろう。今回も幸いにして健康上のアクシデントにはそう大きなものには見舞われることはなく、16日間を旅した。そういえば、帰国時に提出させられていた検疫の黄色い紙も印度はいつの間にか該当地域ではなくなっていた。もちろんだからといって、印度の印度的なものがなくなったわけではないが、注意を怠らなければ問題は生じない。我々は今回も体重を落とすことなく増やして帰国した。


★今回の旅でサプライズがあったことを書いておこう。それはデリーで我々は半日離団して、別行動をした。その時のガイドさんが前回の方だったことだ。偶然ということは起きるものだと思った。彼は相変わらず時々は日本に来ているらしい。再会を喜んだ。
★最後にやはりムンバイの事件のことに触れないわけにはいかないだろう。何よりも最初に、日本人を含む犠牲者の方々の冥福を祈りたい。我々のツーアもこの影響で旅程からムンバイ近郊観光を外されたし、10人で催行のものが、いつの間にか半分になっていた。おかげで、旅行社は「出発前に添乗員が急遽病気になったので、現地駐在員がデリーからご一緒します」と、苦しい言い訳の電話をしてきた。もちろんそんなとってつけたような話をツアー参加者の誰も信じはしなかったけれども。円高で海外旅行のチャンスと言うが、それは韓国など一部のことだろう。日本自身が100年に一度という不況下ではままならぬものが実際はあるのだろう。前回のドイツ旅行と同様に、無理しても催行させようとする旅行社側の意向が見て取れた。急激なウォン安もある韓国などの近場はともかく、旅行業界がそう活況を呈してはいないように思えた。実際問題、帰国日の1月4日こそエアインディアの座席はまぁまぁ埋まっていたが、往路はガラガラだった。訪れた観光地もかなり空いていた。それはそれで、旅行する側には好都合だった。観光地が混雑して困ると言うことは皆無と言ってよかった。ムンバイとエレファンタ島の観光は回避されてしまったが、アグラ城の像のタクシーなど待ち時間無しで乗ることが出来た。まぁその分物売りの攻勢は以前にも増して激しいものがあったように思うが、持ち物に注意さえすれば危害が加わるわけではなく、それもまた印度的で観光内容の一部と見れば楽しめるものだ。印度でのテロは日常化しているとってはならないだろうがまぁ多い。添乗員も添乗中と言うこともあって最初はまたいつもの騒ぎと思っていたらしい。しかし今回のは同時多発であり、多数の犠牲者を出したし、犯人側の抵抗も長く続いた。観光への打撃は計り知れないことだろう。この打撃から一刻も早く立ち直ることを望む。