12月30日(土) アルジェ(601km)ガルダイア
モーニングコール(0530)朝食(0615)ホテル発(0706)ようやく白み始め(0730)アトラス山中(0800) 猿休憩(0815〜0825)祈り休憩(0917〜0925)羊昇天、トイレ休憩 21℃(0940〜1010)ジェルハ?昼食(1330〜1444)ラグアット散策(1555〜1636)トイレ休憩(1645〜1700)ホテル着(1948) 即夕食 E103号室 23時前就寝
3−1 出発 (0706)
右は泊まったホテルの外観。高台に立つ白亜のホテル。
旅の後半、アルジェに戻ってきたときには連泊する。
さて羽田を出発して以来ずっと移動が続いているが、今日も移動日。600kmあまりも移動するので、昨日の到着を考えれば早い出発だ。しかもまだ真っ暗。日が落ちるのは早いが、明けるのは遅い。ようやく7時半頃になって空が白み始めた。
北アトラス山脈を越える。徐々に山の中に入って行く。この辺りは国立公園となっていて自然が保護されている。そのせいか、途中で猿が出てくるというので、バスストップ。夕食の残りのミカンをえさにしばらく待ってみたが全く現れなかったので出発した。もっとも、現地ガイドは、「あそこに見えるでしょ。」と盛んに言っていたが。確かに木が揺れる感じがしたが、猿自体は見つけられなかった。
3−2 犠牲際(イード祭)0940〜1010
その後、しばらく行くとバスストップ。何事かと思ったら、お祈りタイム。少し待たされて、それが終わると誰彼と無く抱き合って頬をなすりつける。これもイード祭の一つなのだ。おめでとうと言うことらしい。
更にしばらく走っていくと、広場にヒツジを囲むようにして人が集まっていた。ガイドさんが、「イード祭の行事をやっています。」と言ってバスを止めた。見てもいいかどうかの確認をしてから、カメラを持って下りていった。
見ると丁度ヒツジを処理しているところだった。イード祭というのは別名犠牲祭と言ってヒツジを神に捧げる行事だ。旧約聖書にあるアブラハムがその息子を神に要求され泣く泣くその命を取ろうとした間際に神が、代わりにヒツジを捧げよ、と言ったという逸話に基づいて行われる。
ヒツジが苦しまないようにまずそののど笛を一気に切る。その直後だったので、血がヒツジの周りに溢れていた。その中の一頭はまだピクピクしていて最期のあがきをしているようで見ていられなかった。
その後きれいに皮を剥いでいく。最初に羊に管で空気を送り、全体をボールのように膨らませる。これは皮を剥がし易くするためだ。少し剥がしたところで、木に吊して解体をはじめる。さすがに手慣れた物でその手際の良さには驚いた。
このヒツジは、この後どうするかというと、貧しい人や近所の人、親戚にも配るのだそうだ。でも、各家庭でこれをやるわけだからたくさんのヒツジが配られる、まさにヒツジ三昧になるわけだ。
3−2.5 イード祭について
イスラム社会で用いられている暦は、英語ではHijri calendarと表記され、日本語ではヒジュラ暦と呼ばれる。太陰暦を採用しているので、我々が普段使っているカレンダーとは毎年10〜11日ずれる。つまり、11日くらい毎年は約1年を迎える。つまり、季節と同期しない。ラマダンの時期が次第にずれていくのはこのためだ。イスラムもカレンダー上重要な日をいくつか持つ。英語版wikipediaでは12ほどの例示がある。このうちイードすなわち、Eidという名称が付けられているのは2日ある。すなわち、ラマダーン月の次の月の一日(1st Shawwal)に行われるラマダンあけの行事と、今回の第12月10日(すなわちラマダンが第9月なのでラマダンあけから数えて70日目)に行われるイード・アル=アドハー(Eid ul-Adha)。これは盆暮正月のような感じで、相当の日数がアルジェリアではこの祝祭に費やされるという。この日は、神がアブラハムを試して、信仰の証として彼とその子イシュマエル(奴隷ハガルとの間の子)を殺そうとさせるが、彼が意を決した時に神の救いの手がのびるという伝説による。神は動物を犠牲にすることで、その代わりとなす事を許したという。このいわれに基づき、この日には生け贄の動物が神に捧げられる。捧げられた動物は、親戚、近所のものそして貧しき者に分与される。文化人類学的には、たぶん裕福な者からそうで無いものへの宗教的な富の強制的な分配といった意味合いをたぶん持っているのだろう。この日以降の数日は休みのようで、店々は閉まっている場合が多いが、肉屋だけは開いている。詳細については英語版Wikipediaの当該解説が詳しい。
3−3 昼食(1330〜1444)
それからまたしばらく走って昼食。この日はホテルでの昼食となったが、これから以降殆どの場合、イード祭でお休みの店が多いということと予約ということができないと言うことで、行き当たりばったりで適当な店を探すことになった。通常、バウチャー制度が整っているから、こうしたことは起こらない、そういう意味でもまだまだ観光が未整備なことを示している。従って、勢い地元の人と一緒に地元の人の食事をすることとなる。これが結構どこの地でも美味しかった。
3−4 ラグアット散策(1555〜1636)
途中ラグアットという町のグランドモスクへ行く。元々は教会だったところをモスクに変えたというので、ヨーロッパ的な様式が残されている。透き通った青空と、イスラムタイルの青がコントラスを成して、非常に美しかった。ここでも内部でガイドさんたちは祈りの時を過ごしていた。実は我々一行には、現地スタッフ4人がほとんど一緒だった。ガイドとその会社の人。おそらくは雇い主側。それと運転手とその補助。祈りをしなかったのは、この運転手助手の若者だけだった。
他にも14世紀のモスクやブルーモスクをまねて作ったというモスクを遠目に見た。こんな田舎のような町にも歴史があったことが分かる。
また、日本人がよほど珍しいのか、と言うより観光客自体が珍しいのだろう、たくさんの子供が寄って来てジロジロと見られた。
<ホテル着(1948)ジャヌーブホテル E103号室>
シャワーのみ、酒有り。
すっかり暗くなってしまって、ようやくホテルに着いた。時間もかなりおしているので、部屋に入らず即夕食となった。この時フルーツと共に初めてナツメヤシの実が出た。干し柿と同じように干しておくだけで甘みが出るというものだが、相当に甘かった。これもこれ以降毎回のように出された。
部屋は綺麗だったが、暖房の音がややうるさかった。