1月2日(火)

バトナ(119Km)コンスタンティーヌ ジェミラ遺跡 セティーフ

ホテル発(0734)塩湖、塩店(0823〜0900)コンスタンチーヌ散策(1000〜1135)昼食(1330〜1440)ジェミラ観光(1540〜1830)ホテル着

6−1 朝
 今回の旅程では比較的ゆっくりめの7時30分の出発だったが、それでもまだ外は薄暗い。アルジェリアに着いたときに、「こちらの人の時間の約束はあてにならないことも多いので、イライラしないように。」と言われたが、そういうことは一度もなく時間はきちんと守られている。バスの出発も遅れることはまず無い。今回のスタッフがこの上なく良かったからかもしれないが、時間の店で不快なことはあまりなかった。

6−2 塩湖、塩店(0823〜0900)
 しばらく行ってから塩湖でバスストップ。ただ塩湖というだけでなく、ここでは塩田を作って塩を精製している。当然店もあって販売していた。他の人はたくさん買い込んでいたが、我々はそれを見ていただけです。ハイ。
 ここは日本人が好んで訪れるところのようで、なんと日本語の説明書まで書き加えられていた。誰かが頼まれて訳したものだろう。そういえば必ずと言って良いほど、ツアーにはその土地の塩を買い求める人がいる。但し、重いのでスーツケースの重さと相談だ。
 それからしばらくは、穀倉地帯のようななだらかな丘陵地帯を走っていった。

6−3 コンスタンチーヌ散策(1000〜1135) 
 コンスタンティンはアルジェリア第4の都市であり、学園都市としても知られている街。若い人たちが集まっているということもあって、女性の姿などを見ていると自由な格好をしている人が目立った。
 まずはグレートモスクで撮影タイム。中に入れないので、外壁の隙間からの撮影となった。それが結構面白い格好だったようで、通りすがりの人たちに好奇の目で見られていた。
 次はシディラシッド橋へ。下を見下ろすと目が眩むような高さがある。ここはルメル峡谷。こうしたたくさんの橋があちこちに架けられていてこの街の呼び物の一つになっている。その断崖絶壁のいつ滑り落ちてもおかしくないような所に古い家が建ち並んでいた。これは、オスマントルコ時代に建てられた物で、貧困層の人々が住んでいるので立ち退きもままならないのだそうだ。新しく立てられた高層アパート群とは際だった違いを見せている。ここでも観光客が珍しいようで、警官が周りの交通を遮断して我々のバスに便宜を図ってくれた。
 次にまた橋にへ行って写真撮影。遠目にシディムシドの吊り橋が見える。ゾッとするような高さの吊り橋を渡っている人がいる。が、撮影としてはいい被写体になる。
 と思っていたら、次に行ったのはその吊り橋。エエッと思ったが、吊り橋自体はしっかりしていてそれほどの揺れもないので、渡るのに怖さは感じなかった。ここから見る景色も素晴らしい。峡谷を渡す橋はこれら以外にも大小たくさん見られた。見学に来る人にとっては素晴らしい景観だが、住んでいる人たちにとってはどうなのだろうか。
 バスに乗って、ローマ水道橋を見たりしながら次へ移動した。写真は、車窓からだったので、隣を走っている車の荷台の荷物が写っているがご勘弁願いたい。

6−4 昼食(1330〜1440)
 ここでも街のレストラン。無理矢理に割り込むような形で席を作ってもらった。添乗員さんが、ガイドさん達と同じ席にしようとしたら、男性の中に女性が一人というのはダメだと言われたとかで、しばらく席を求めてウロウロしていた。このあたりにいかにもイスラムという感じがした。
 昼食のメニュー<スープ、ビーフ、プリン>。ここでは、スープが二種類出てきた。写真のひよこ豆のスープが美味しかった。則はハリッサ(マグレブでよく見かける香辛料)を運転手さんからもらって食べた。彼は則がそれを好きなのを知っていて、気がつくと自分たちの分をよく回してくれた。(右上のもの)
 その後店を移してお茶タイム。砂糖無しのティーを頼んだ。ティーと言えばミントティー。店によってはミントの葉がたくさん入っていたりする。ここのは進んでいてヤカンではなく、日本でよく見る酒をつぐ機械のような物でさっと出してきた。

6−5 ジェミラ観光(1540〜1830)
 アルジェリアへの期待の一つがこの遺跡。先のティムガットが時間に追われてやや消化不良だったので、ここはじっくりと見てみたい。(ジェミラだけは写真を小さくしてある。クリックすると拡大する。)
 ジェミラは、狭い台地に開かれたローマの都市なので、南北にカルド、東西にデクマヌスという大通りを作るのがローマの都市作りの基本であったが、ここでは地形の制約からデクマヌスがない。
 なお、ジェミラとはアラブ語で「美しい」を意味している。それだけ完成された形で後世まで残されている遺跡である。
 入るとすぐに博物館があった。その庭先にはたくさんの石碑が並んでいた。これも邸宅の装飾であったり、墓碑であったりする物だろう。
 ほぼ完全な保存状態で残されているという全容を見渡せる場所からまず確認した。
 それから遺跡の中へ。
  初めに初期キリスト教時代の教会へ。奥に行くと半円形につきだした部分があり、 そこに祭壇があった者と思われる。ローマからビザンチンに移っても使われていた教会で、形として残されているものはわずかなので、それらわずかに残されている石などから想像することになる。ここで重要なのは、縄目のようになった○に十字の印の石があることだ。これはビザンチン時代に多く作られた説教の場を示すもので、それからもここが教会跡だと分かるのだそうだ。その横にある洗礼堂の内部にはモザイクが所々に残されていた。
 そこを出て職人通りを通ってメーンの、セプティミウス・セウェルス帝の神殿やカラカラ帝の凱旋門が一望できる場所へ出た。壮観だ。順さんの左肩(写真ではの少し上あたりに見えるのが、ティミウス・セウェルス帝の神殿であり、その神殿と順さんの顔を挟んで反対の位置に見えるのがカラカラ帝の凱旋門となっている。グルリと反対に向きを変えると劇場全体が見渡せた。この場所は高いところにあり、丁度劇場のそそり立った観客席の最上部にあたる場所で、ちょっと足がすくむ感じもしたが、劇場全体を俯瞰することが出来た。
 そこから神殿の方へ下りていく。この神殿は、この遺跡の中では一番きれいなものだと思う。行く前から楽しみにしていたのだが、期待を裏切らず、しばし目を奪われたほど見応えがあったものだ。本当はもう少しじっくりと見ていたかったのだが、ガイドさんはどんどん先を急いでしまってゆっくりできなかったのが何とも心残りだった。
  そこからアーチの門をくぐって劇場へ行く。これはギリシャ様式で、背景も考慮して造ってあるところからわかるのだと説明された。もう何度も目にしている劇場だが、その土地土地の条件をうまく生かして造るものだと感心する。
 それから古い町並みを抜けてカピトリウム神殿へ。古い町並みと言っても一般の住居跡とか金持ちの住居跡などが並んでいたらしいが、殆ど面影は残っていない。カピトリウム神殿には、円柱に囲まれた円形の回廊がめぐらされ、基壇の上にユピテルやユノー、ミネルウァといったローマの神々が祀られていたという。
 その先には生贄台やトイレなどがあった。 生贄台の台座のクローズアップは、それぞれの能力に応じた肉を捧げるという意味のもの。左下の分かりにくいのが鶏。今まさに斧を振り下ろそうとしている人も見て取れる。
 更に進んで市場へ行く。ここには、肉や野菜などをさばいた石のカウンタ−が並んでいた。また、粉などを測るためのロ−ト状のくぼみや石の物差しを備えたものも残っていた。窪みがますの役目を果たしていて、窪みの中央には下に抜ける穴が開いている。手で塞ぐなどしていて、そのしたに入れ物を置き、規定量はいったら手をどけて必要な分だけ量り売りしてもらう仕組みらしい。
 それから馬車の轍の跡の残るカルドを、牢獄の跡や下水の跡などを見ながら、いよいよ一番の見物、カラカラ帝の凱旋門へ行く。
 カラカラ帝とその父のセプティミウス・セウェルス帝、母のユリア・ドムナの栄誉を讃えて造られた門で、門の上にこの3人の彫像が置かれた台座の跡が見られる。ただこの頃になると既に日が落ちかけていてあまりうまく写真に残すことができなくなった。
 これで戻りましょうという時になって、則が「ここには売春宿の名残があるそうですが」とガイドさんに聞いて、急遽連れて行ってもらうことに。ガイドさんは忘れていたと言うし、添乗員さんは知らないということだった。それは1個の石に刻まれており、他の石碑の中に混じるように置かれているだけの物だったが、はっきりとその形を見ることができた。そこからの戻り道の途中にあった風呂を添乗員さんが「ここが浴場です」と説明したのを聞いた順が大笑いをして、皆がそこから<欲情>を連想して大爆笑となった。
 最後は博物館へ入場した。中にはモザイク画がたくさん展示されていた。なるほどこれだけのモザイクを残していたのはすごいと思ったが、内部は撮影禁止なので残念。

<ホテル着(1900) ホテルセティフス 109号室>
 バスタブあり。
 到着が遅かったので、即夕食。
  平たくたたいた牛肉。と言っても、結構ボリュームはあった。