1月5日(金)
アルジェ (モーリタニア王家の墓) (ティパサ遺跡)
ホテル発(0808)モーリタニア王家の墓(0905〜0946)ティパサ(1040〜1220)昼食(1240〜1415)シェルシェル(1445〜1550)ティパサの水道橋(1610〜1622)空港着(1810)搭乗開始 33JK (2225)離陸(2305)食事(2320)チュニス着(2410)
9−1 朝
最後の観光となるこの日は、少し郊外へ出かける。しかし、そう遠くはないので、8時とゆっくりとした出発だ。
それでも当然我々はレストランの開く6時15分には朝食に行っていた。すると、もう覚えてくれたのか、レストランのスタッフが何も言わなくても二人分のオムレツを焼いてくれた。食べる物は変わらない。ホテルはご覧のようにあい変わらず閑散としている。
9−2 モーリタニア王家の墓(0905〜0946)
永らく砂に埋もれていたために石組みなどが残されていたようで、ナポレオン三世が発掘費用を出して発掘させたそうだ。が、ただでは済むはずもなく、発見した物は全て持ち去ってしまったとのこと。今は何も残っていない。以前は中に入れたそうだが、今は全ての入り口がふさがれてしまっている。
また、石の間にたくさんの穴が開いているが、これはご多分に漏れず、石を固定していた鉛を武器にするために取り去ってしまった名残りの穴だ。当然、ナポレオン以降のことだ。
それにしても巨大な石を上手に積み上げて組んでいる。また、その間々の円柱も形がよい。1世紀にこれだけの技術がこの辺りにはあったのだ。なお基壇部分は方形であり、その一辺が正面の門(疑似門?)と接している構造。柱はイオニア式で作られている。このあたりも女性的な感じがする。
ここで注意しなければならないのは、モーリタニアという現存する国家との関連。モーリタニアとは、ムーア人(ベルベル人とアラブ人の混血?)の国といった漢字の意味であり、現存のモーリタニアと古代のモーリタニアとは厳然と区別されるべきもの。現在のアルジェリアの西部にあった、ローマの属国、後にローマは州として併合。
遺跡付近では目の前に地中海が広がっていた。その海近くにはビニルハウスが並んでいる。潮風から農作物を守るために、この辺りで多くなされている農法だという。中で栽培されているのはトマトなど。
写真の左上の入り江の辺りの黒くなっているあたりが、次に訪れるティパサの遺跡付近と言うことだ。望遠で見たがよく分からなかった。
9−3 ティパサ(1040〜1220)
地中海交易で栄えたカルタゴが、紀元前7世紀に造った都市。しかし6世紀のビザンチンの襲来により徹底的な破壊を受け、7世紀にここにアラブが侵入してきた時は、無人の廃墟と化していた。「ティパサ」とは、アラブ語で「荒廃した町」を意味している。
現在、眼にすることができる円形競技場、公共浴場、神殿などの遺跡は、ローマ帝国の支配が始まって最初の2世紀の間に建てられたものだ。
ここにも世界遺産のマークがあった。入り口には土産物店が建ち並び、ようやく観光地らしい観光地に来た感じだ。
入ってまず円形競技場を見る。ライオンなどの動物と奴隷などを闘わせたという。グラディエーターの世界だ。観客席や周りの壁はかなり崩れてしまっているが、楕円形の広場部分ははっきりそれと分かる形が残されているので、早速順と則が勝負。どっちが優勢か分かるだろうか。
それから神殿といわれるところへ行く。ただ、どういう神を祀っていたのかは定かでなく、かなり古い物らしい。ただ、階段部分はよく分かるように残されている。その中央当たりにあるのが生贄台というので、則が生贄になる。「どうしてそれが分かるのか?その根拠は?」と食い下がって質問する人がいたが、なかなかきちんとした説明はない。学者がそう言っているというのが、まあ大体の説明だったが、それは致し方あるまい。我々だって、日本の歴史について聞かれたらそう答えるだろうから。だいたいガイドはガイドで学者ではない。無理な要求はしない方がよい。
写真左は中央の生け贄台で早速生け贄になった則。イード祭(犠牲祭)で殺された羊と同様に舌を出しているのが分かるだろうか。古代においては、動物を神に祀ると称して、肉を食べる機会としたのだろう。犠牲祭もまた同様だろうか。ごちそうであったことは確かだろう。
その向かい側にドクマヌスを挟んで教会がある。あまりはっきりとした遺構は残されていない。ビザンチン時代のものだという。「それは中央にある柱で分かります。」とこちらは根拠を示して説明があった。ただ、事前に調べていった本によると、これをさして神殿と書いてあった。
後世、教会としてモスクとして転用されたと思われる遺構もあった。
二つとも階段と少しの柱、周りの少しの壁だけが残されているだけだ。
それからカルドを通って行くと両側には店跡があった。
次に貴族の館へ行った。広い庭には井戸の跡が、また、部屋であったろう所にはきれいなモザイクが残されていた。幾何学模様だが、きちんと計算され尽くして作られている。いつ見ても見事なものだ。これだけの物を残しているのだから、かなり見事な屋敷だったのだろう。
それから公衆浴場へ。蒸し風呂にするために火を燃やした地下部分がしっかり残されていた。風呂も水のプールとハマムが残され、水のプールの壁にはフレスコ画が描かれていたと言う。残念ながら図柄ははっきりせず、かすかに彩色が見られることからそう説明された。
それからガロン工場という所に行った。ガロンというのは魚のソースで、海に近いこの地ならではのことだろう。魚を入れておく水槽などに、魚を傷めない、細菌を発生させないなどの工夫が既になされていた。このようなことからも、ここがかなり発展した町であることが想像できる。
次はローマ初期の教会へ。テイパサは、ローマ帝国の支配下にあった時代から、北方民族のヴァンダル人が侵入するまでの間、敬慶なキリスト教徒の都市であった。その遺構は、バシリカ式聖堂に見られる。9つの身廊を備え、建立された4世紀当時は、アルジェリア最大のものだった。
しかし5世紀のウァンダル族の侵入でティパサからローマ人を追い払い、キリスト教から改宗しないキリスト教徒を右手と舌を切り落としたということがあったそうだ。そのためかこの大聖堂跡は今も聖地として崇められている。ここにも床にモザイクが残されている。ここのも絵ではなく幾何学の模様だ。風景的にはアーチを通して見える地中海が素晴らしい。
それをもっとよく見ようと城壁に上った。城壁があると言うことは、ここまでが都市だと言うことだ。その外は・・・そこの先には古い墓地があった。ティパサのネクロポリスはカルタゴ時代最古のものの一つで、紀元前6世紀から紀元前2世紀の間に建設されたと考えられるものだ。ただ、我々が見たのは、2人用などがあって蓋のない物で、事前に調べていた蓋のある墓とは違っていたので、ここがそれなのかどうか自信はない。この墓は戦没者ようだと言っていたので、カルタゴのネクロポリスは別かも知れない。ただ、蓋がないのを幸いに、すぐに入ってみた則だった。順も一緒にと誘われたが、まだまだ墓に入るには早すぎるので、遠慮した。
次は劇場。観客席が4段しかない。かなり広い劇場なのに、どうしてこれしか観客席がないのだろう。実は、かつては3000人の収容能力があったそうだが、19世紀半ばに、新しい病院を建設する際にその石材として利用されてしまったとのことだ。後ろへ回ってみると観客席へ上る階段がしっかりと残されていた。ただそう高くはなかった。実際にはどのくらいの規模だったのか、これは調べようにも資料がなかったので、これ以上のことは分からない。質問すれば良かったのだろうが、この頃になると歩くのも疲れてきていて、付いていくだけになっていた。
最後はニンファエム(泉)。ここは「泉水殿」といい、この大理石でつくられていた。「聖なる泉」とされる。
遺跡とは関係ないが、観光中に遺跡の中で面白い花を見つけた。ランの一種かな?と思ったりもした。ニュージーランドで見たものに似ている気がしたからだ。初め一輪二輪程度見つけただけだったが、目が慣れてくると結構たくさん咲いていた。
9−4 昼食(1240〜1415)
入り口から駐車場までの間にあるレストランにて昼食。メニューは<魚のスープ、エビ・魚焼き、カジキ、みかん>初めての魚料理。美味しかった。
勿論我々は、自前で持参した醤油をたっぷりかけて味わった。他の人も、旅行社が持ち込んだ醤油をかけている人もいた。やはり日本人醤油がないと生きられない。
9−5 シェルシェル(1445〜1550)
紀元前4世紀にフェニキア人によって作られた街で、中心部の方へ行くと、凱旋門やローマ遺跡があるらしいが、そこへは行かず博物館のみの見学となった。ただ、添乗員の説明では、ローマ遺跡はイスラム軍が侵攻したときに破壊されて、数本の柱とわずかなモザイクが残されているだけだということだったが。
博物館は広場に面して建てられており、その広場にはフィトラカディオラカという面白い木が植えられていた。博物館は写真が禁止なので、記録はない。そこには世界に三体しかないと言われるクレオパトラやモリタリアの王ジュバの頭像や、ギリシアの神々の彫刻などが展示されている。また、本来は床にあったという大型のモザイクも展示されていた。これは三美人とかミューズ(音楽の神様)、農業風景などの絵のモザイクだった。
9−6 ティパサの水道橋(1610〜1622)
帰り道、シェルシェルの水道橋を見かけた。特に説明もなかったし逆光ということもあって殆どの人は気付かなかった。
確かティパサにも水道橋があったはずだと思っていたら、それについては説明があり、バスストップとなった。ただやはり逆光であまり撮影に適しているとは思えない。仕方ないと順は半ば諦めかけたが、何と則はどんどん先へ走っていく。それを見て他の人もどんどん奥へと進んでいく。順も途中まで行ったが、後ろから添乗員さんの「戻ってくださーい」と言う声が聞こえたので、それを伝えながら歩いていると、則の「2段じゃなくて3段だー。」という声を聞いて走って則の所へ行った。
これは事前の写真では2段にしか見えなかったのだが、確かに3段だった。これは見なければならないものだ。
走って行ったかいがあったが、後で、みんな添乗員さんから「現地の責任者に見つかったら旅行どころではありませんでしたよ。」といわれた。警備が付いていれば問題ないのだそうだが、やはり自由気ままに動いてはいけないらしい。
9−7 アルジェの空港で
アルジェの空港には、ほぼ予定通りに到着。すぐにチエックインの手続きに入ったが、ここでちょっとしたもめ事。
個人で手続きをするというので、我が家もそうしたのだが、カタールから日本間の搭乗券が、42のAD。これでは席が離れているから替えてくれと言ったのに「大丈夫、何も問題ない。」と取り合ってくれない。結果は同じグループの人が42Bだったので取りかえてもらったが、いい加減だ。左がそのいい加減というか、嘘つき従業員。また、添乗員さんのスーツケースが重量オーバーということで、なかなか手続きをしてもらえなかった。その間、待っていた我々に対して空港の係員が、「早く移動しろ」と何度も何度も言いに来る。ようやく全て手続きが終わって出国審査の方へ。
出国審査は何事もなくスムーズに終わり、待合室でしばらく待っていたが、1時間ほど遅れるとの情報有り、更に待つこととなった。ようやく搭乗手続きが始まり、受付を通り過ぎると、飛行機までの通路の所で、一人ひとりのボディチェックと荷物の検査があった。手荷物は全て開けさせられての検査で非常に時間がかかった。
9−7 カタールへ
21:05の予定が2時間遅れて23:05にようやく離陸。搭乗手続きを開始したのが22:25だから、実に40分もかかっている。全て乗り込む前のチェックのせいだ。
離陸すれば後は早い。すぐに食事が出た。サンドイッチとケーキの軽食だったが、実は、先ほど空港でお弁当のサンドイッチを食べていたので完食はできなかった。
24:10にチュニス到着。そのまま機内で待機。