2010年5月2日(日)タリン滞在 曇りのち快晴 暑い
起床(0500)散歩(0630~0710)朝食(0710~0750)タリン散策(0910~1650)
2-2 散歩
外は今にも雨が降りそうなどんよりした天気のように暗い。まだ朝食まで時間があるので、近くの散歩に出かけた。
相変わらず町はひっそりとしている。夜中には少し付いていた電気も既に消えていて、自然の太陽光だけとなっている。ネオンもない街で唯一活動している液晶スクリーンの所まで行って見ることにした。
出かける人もチラホラと姿を現してようやく町は目覚めかけているようだ。そんな中をしばらく歩いて来た。古そうな建物もあったりしたが、やはり新しい建物が多く目に付く。他の町と何ら変わりはない普通の町並みだ。公園の木々はまだ葉を落としたままで、寒々としていたが、歩いているとそれほどの冷たさは感じなかった。ただ、町の人はまだ冬のコートを着ていた。
ホテルへ戻ると既に朝食が開始されていたので、まっすぐにそこへ向かい、ビュッフェスタイルの朝食を摂った。
出発まではいくらか時間があったので、部屋でのんびりした。
2-3 タリン散策①
郊外地区(0925~1015)
9時10分ホテルをバスで出発する。まず東へ向かう。消防署や放送局などを横目に見ながら進んでいく。
途中、カドリオルグを通り抜ける。ここは、ロシア皇帝ピョートル1世が1718年から別荘地として使用していたバロック様式の宮殿と公園がある。これはエカテリーナのために造った物で、夏の宮殿と呼ばれる。
また、この辺りには、昔ながらの木造の家が数多く残っている。エストニアの伝統を今に残す建物群だ。
それからバルト海のタリン湾を見る。以前は不凍海だったそうだが、最近では凍るようになったとか。気候変動の影響らしい。
ルサルカ像という女性の像は、海岸線にあり、台座がけっこう高い。かつて1893年にロシアの軍艦ルサルカが沈んだのを悼んで建てた様だが、今では市民のシンボル的存在になっていて、結婚式を挙げた男女が記念撮影に来たりもする。シーズンには花嫁姿を見ることもできるとか。何故、ロシアに起因する像がシンボルとなっているのか、そもそもルサルカとは何者なのか、説明があったのかも定かではない。
バスはこの像を左手にみながら海岸線を右に折れて高台に上ってゆく。
タリン・マップ
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歌の原【タリン歌の祭典広場】 (0925~0950)
最初に到着したのは、「歌の原」(地球の歩き方)というところ。英訳のTallinn Song Festival Grounds からすれば、タリン歌の祭典広場ということになる。この種のものは他のバルト三国にもある。
ここでは5年ごとに歌の祭典が開かれる。そのとき、高い塔のてっぺんに聖火が点される。祭典の記念プレートが、参加者の数が彫られて並んでいた。この祭典は、1869年から始まり、1969年には100年記念を迎えた。
ただ、今の建物は、1960年に造られたもので、43段ある階段がステージとなる。天井は、板張りのように見え、音響がとてもよい。下で手をたたくと、鳴き龍の如く腸にまで響き渡る。
この音楽祭は、コンクールではなくステージに立つ人と観客が一体となって大合唱をして盛り上がるのだそうだ。手前にある芝生がその観客席で、10万人は座れるほどの広さがある。ちなみにステージには、23,300人が立てるそうだから、ものすごい歌声になるだろう。
ここは1988年の9月に歌の革命の現場となった。ソビエトの支配に抗議して、150万人いた国民のうち30万人もの人がここに集結して歌で独立を訴えたという。ここで一番大事にされる歌が、国家「我が故国、わが誇りと喜び」と第二国家「わが祖国、わが愛」。ロシア支配当時は、国歌を歌うことが禁止されていたので、グスタフ・エルネサクス(Gustav Ernesaks)という人が国家に代わる曲を作ったという。それがこの年にソ連支配以来初めてエストニア語で歌い、独立への気持ちを高めた。彼の像は、2回目の祭典の時に会場を見下ろす所に造られた。 その祭典以外には、ドッグレースやビール祭り、そり遊び、マイケルジャクソンやマドンナなどコンサートも開かれた。
ここからは街を見渡すことが出来る。
ちなみに天皇皇后両陛下が訪問された際にも、ここでさくらさくらなどが披露された。そのときの歓迎の様子がやはりユーチューブでみることができるが、その歓迎ぶりは特筆に値する。枢軸側国家だった日本の天皇に暖かい歓迎の意を示してもらったことは、感謝しなければならない。
タリン港(1000~1015)
北欧などからのフェリーが到着するタリン港へは、トイレ休憩で行った。ちょうどフェリーが到着した所で、降りてくる人で賑わっていた。が、まだシーズンオフなので、観光客は少ない。もう少し暖かくなると、高速艇も走るようになり、更に賑わいを増すという。
更にバルト海クルーズなどの船が寄港してくるシーズンには人であふれかえるようになるそうだ。
普段は北欧、特にフィンランドからの人が多いという。この人達は、エストニアの物価の安いことに目をつけて、買い物や、ゴルフ、スパなど娯楽のためにくるのだそうで、週末はこの人達が大勢やってくる。フェリー料金を払ってもここまできた方が安いのだとか。
2-4 タリン散策②
港から旧市街山の手地区へ(1029~1200)
旧市街は山の手と下町に分かれているが、山の手には貴族や聖職者達が住んでいた。為に、貴族的な雰囲気が残っている。今は、国会議事堂や首相官邸、大使館など役所関係が多いので、平日はひっそりとした街となっている。
下町は職人や商人の街であったので、今でも土産物屋やカフェが多く、賑わっている。
バスに乗って旧市街のまずは山の手を目指す。
中世には一番高かったというオレフ教会が見えた。大砲塔であったという「ふとっちょマルガレータ」の横を通り過ぎた。また、この辺りはギルドハウスがたくさん並んでいたそうだ。かつてのメーン通りだった。
街を取り囲む城壁は、13世紀から16世紀に造られたが、今は大部分が取り壊されて新たな建物になった。かつては2.35kmあったが、今はそのうちの1.85km残っている。城壁を造っていたエストニアでよく採掘される石灰岩は、細工しやすい反面脆いので、常に修復が必要だったからである。18世紀以降特にその変化が著しい。ただ壊滅的だったのは、第二次大戦のソ連軍の爆撃だった。
城壁の周りには堀や城門、跳ね橋があった。跳ね橋は既に無く、城門は2カ所に残るのみだ。また、街を守るには見張り塔は27個有り、そのうち1個が無くなって26個は残っている。この辺りにはその塔がたくさん連なって残っているので、「塔の公園」と呼ばれている。
右側には鉄道の駅があった。かつてはサンクトペテルブルクまで列車が出ていたそうだが、今は採算がとれないとかでない。ただ、モスクワへの夜行列車はある。地下鉄がないので、交通手段の主なものは、バスや車だ。
その後もホテル街やエストニアでは珍しいという二つの塔を持つ教会などを車窓に見ながら、「のっぽのヘルマン」の下でバスを降りた。オレフ教会の塔もよく見えた。
のっぽのヘルマン(1029~)
「のっぽのヘルマン」というのは通称で、50.2mの高さがあり、この街のシンボルの一つである。城壁の外にあり、監視塔の役割があった。「ふとっちょマルガレータ」とは、カップルだというような話もあるとか。
その塔の先には常に時の支配者の旗が翻っている。今はエストニア国旗だが、支配されていたときにはその支配者のものが掲げられていた。ところで、エストニアの青黒白の三色旗は、日本のイメージからするとあまり明るい印象ではないが、それぞれに意味がある。青は、海や空と共に、国花である矢車草を表し、黒は、農民の大地を、白は将来への希望を表しているのだという。(国旗はWikipediaから)
トームペア城(1032~)
かつての城壁に沿うようにして坂を上って行く。石畳の道になった。ここからが旧市街地区ということだ。(石畳の石が丸を帯びている地域が概ね山の手地区で、四角い石が敷き詰められているところが下町地区らしい。)
トームペア城は、現在は国会議事堂として使われているので、中に入ることはできないが、外装だけでも楽しむことができるような建物だ。
元々は、13世紀の初めにデンマーク王が建設したもので、その後ドイツ騎士団によって改築され、18世紀になって、エカテリーナによってバロック様式のピンクの宮殿として更に改装された。その元々の部分は、西側と北側の石灰岩の壁なので色も黒っぽくわかりやすい。
正面には3頭のライオンの紋章がはめ込まれている。周りの葉っぱは柏で、エストニア人の強さや独立の意味が込められている。一番上のライオンは、13世紀頃のデンマークやドイツの支配に対する反逆の勇気を、中のライオンは、14世紀半ばの農民一揆を起こした勇気を、下のライオンは、1918年の独立を勝ち取った勇気を表しているという。1925年に制定された。しかしその後もエストニアは独立できたわけではなく、各国の欲望に翻弄され続けることになるが、国家意識が非常に強いことを思わされた。その関連で言えば、電車やパトカー、他にも国旗の色を使っている物が多く、国民の国に対する思い入れがあちこちで表されている。
アレキサンダー・ネフスキー教会(~1050)
トームペアの向かいにある。ロシアがこの地を支配していた1901年に、更にロシア化政策を進めようと建設されたのがこの教会。かつてここは広場で、マルチンルターの銅像があったが、それを撤去してこの教会を建てた。ロシアの聖人にちなんで付けられた。この人、元々はノブゴロド大公という実在の人物で、ドイツ騎士団から命がけで土地を守り抜いたということで死後聖人になった。「ネバ川で闘ったアレキサンドル」というのをロシア風に読むとアレキサンダー・ネフスキーとなる。サンクトペテルブルクの郊外にも同じ名前の教会がある。他にも通りやカフェ、料理店などにも命名されている。
今日は日曜日ということでミサが行われていたが、信者はロシア人のみで、エストニア人はいないということだ。ロシア人は、40万人の人口の約4割居る。大戦後に労働者や軍人としてやってきた人達の系列だそうだ。
ドーム型の塔には,11個の鐘がある。1898年サンクトペテルブルクで造られた。その中で一番大きいものは、高さ3m重さ15トンもある。音も非常に大きいそうだ。
中に入るとすぐ右手に日露戦争の犠牲者名を刻んだプレートがある。対馬沖での海戦だったというから、バルチック艦隊の一員か。
正面には大きくてきらびやかな祭壇がある。その両側にもやや小さめだが同じように祭壇がある。ヨーロッパ諸国で見慣れた十字架ではなく、聖人の一生とか業績とかを描いているようなものだ。
中は撮影ができないので、珍しく絵はがきを購入した。1枚10クローンを2枚。(最後の二枚の写真。左が中央祭壇、右の写真は左の祭壇。右にも祭壇がった。本当は日露戦争犠牲者の碑の写真がほしかったのだが、見付け遂せなかった。)
首相官邸
黄色い建物は、ステンボックハウスと言ってかつてここに住んでいた貴族の名。そのまま通称として一般的にこう呼ばれている。今は首相官邸。治安がよいので、特に警護兵などは置いていないのだという。そういえば、トームペアにもそういう姿は見られなかった。と言うより、兵士も警察官も目に付かない。国が国民を信頼しきっているということか、目に見えない所での監視が徹底しているということか。この国では、大統領も首相も議会が選出するので、国民が選ぶのではないそうだ。二つのポストがあるが、権力を握っているのは首相の方で、大統領は象徴的な存在だとか。
ここにプレートがある。ソ連軍にとって好ましくない政治家や知識人、土地を没収された農民など、3万人以上の人がシベリア送りで強制労働をさせられた。そのことを忘れないためのメモリアルプレートである。
そこを出て,しばらくは石畳の道を歩く。石は、丸いのと方形のとがあるが、オリジナルではない。以前は土の道だったを、歩きやすくするためにまず丸い石を、後に四角い石を並べた。道は迷路のようになっているが、これは戦いの時に敵を欺くためのもの。曲がりくねった上に、特に目印となるものもないので、敵が右往左往するようにと考えられているのだそうだ。
これはどこの国にも共通する戦略だ。
展望台一つ目(1104~)
展望台一つ目(1104~)
展望台は2カ所ある。まず1カ所目。
眼下に旧市街が広がって素晴らしかった。教会や城壁、塔などが一望できる。7km東には、先ほど行った歌の原が見える。天気が回復して青い空になっているのでいっそうそれらを際立たせている。
更に先には海が見える。丁度ヘルシンキのフェリーが出航していく所だった。1980年のモスクワオリンピックの時にはヨットの会場になった。高いテレビ塔もそのときに造られた。
が、さすがに人が多いのと、あまり時間がなかったので、二人で写真を撮ることができなかった。
それから、次の展望台へ行った。日本人は先の方が好きだが、外国の人はこちらの方が好きだという。
旧市街の家
途中で崩れかけた塀があった。そこでガイドさんから家の造りについての説明があった。
以前は木造の家だったが、火災の被害に遭いやすいので、15世紀以降は石で造るようになった。当初はただ石を積み上げるだけだったが、地震もないのでそれで良かったそうだ。今はその上をコンクリートで固めてより丈夫になった。条例で石の家にするよう定めてあり、現在旧市街の家に木造は見られないとのこと。屋根は雪が積もらないように急になっている。そういえばこちらもやはり冬が長くて雪も多く、雪かきが大変だったそうだ。1週間早く来れば雪の中でしたよ、ということだった。
ハンザ同盟に属していたので、商人の家は1階が住居、2階3階は倉庫として利用していた。後に、住居部分が2階にまで広がった。
騎士達の住宅が多かったという路地には、騎士をドアに大きく彫り込んでいる土産物屋さんがあった。
2-5 タリン散策③ 下町へ
そこからまた迷路のような道を通って今度は下町へ向かう。
ネフスキー教会を背にして下っていく道は、「長い足の道」と名付けられている。これは山の手と下町を結ぶ一番古い道で、距離が長いのでこういう名が付いた。馬車で通れるほどの広さがあり、ゆっくりとした坂道になっている。この道のシンボルとなっているのが、大きなブーツの看板。この他にも色々と楽しい看板がこれから見られることになる。
その途中から右に折れると,「短足の道」。下町と結ぶ2番目に古い道で、下町への近道だ。そこに入るのに門がある。17世紀のオリジナルの扉が残っている。この門は、馬車は通れない。当時は夜になると閉めてしまうので人も通れなくなる。つまり、山の手と下町を遮断する門になっていた。そこを抜けると階段と坂道とがあった。急な石畳の坂道が古い。歩きやすくするために階段を造った。
その道際に「ヘリナ・ディルク」というガイドさんお奨めの小さな店がある。デザイナーの名前がそのまま店の名前になっている。オリジナルの食器や子供服を売っている。noriはめざとくそれを見つけたようだ。もう一つガイドさんお奨めの店が、その道を下りきった所にある。山の手が終わり、ここから下町に入りますという丁度そこにあった。「マチルダカフェ」というアンティック調のカフェ。ケーキが美味しいそうだ。
聖ニコラウス教会(1125~1150)
1230年に200人のドイツの商人によって建てられた教会。船乗りの守護聖人ニコラウスに捧げられている。がっしりとした造りは、非常時には避難所として使えるようにしたため。特に塔がしっかりと造られた。城壁がないときにはその役割も果たしていた。塔の近くは広場になっており、そこから下町が広がっていった。
しかしそのがっしりした教会も、ドイツに占領されていた1944年にソ連軍の攻撃を受けて倒壊してしまい、その後復元された。現在は博物館として、またコンサートホールとして使用されている。礼拝堂としては使われていない。
入口を入るとすぐに白黒の写真が展示してある。第二次大戦のソ連軍による爆撃にあったときのものだ。
中に入ると、地下に降りて大きな荷物を預ける。
正面中央にある主祭壇が聖ニコラウスの生涯を表したもので、この教会本来のもの。金に光る豪華なものだ。二重の観音開きになっていて、更に開くと40体の聖人の塑像が彫られているそうだ。両側にある同じようなものは、他の教会から持ち込んだもの。
ここで特筆すべきものは、15世紀に描かれた「死のダンス」という絵。オリジナルのものだ。本当は30mほどの大作らしいが、消失してしまって、現在はここにある7mほどのみ。皇帝や貴婦人、聖職者のそれぞれの横に骸骨のような人がいる。これが死に神。どのような人にも同じように死は訪れるということらしい。
奥には、銀の食器やトロフィーを並べてある小部屋がある。入口にはガードマンのようながっしりした人が立っていた。ブラックヘッドギルドの商人達の持っていたものだ。
ラエコヤ広場 (1153~1200)
ここがメーンの広場。そこを取り囲むようにレストランが並んでいる。かつてはそれぞれ違った建物だったようだが、今はそのように使われている。オープンテラスの店が多い。こちらの人は少々の寒さでも外の方を好むそうだ。
この広場は古くから祭りなど市の行事に使われていた。1441年にはクリスマス・ツリーが飾られたりもした。また、鞭打ちや処刑の場でもあり、1805年に農民反乱が起きたとき、蜂起の加担者72名が1806年にここで処刑されてもいる。
そんな一角を占めるのが旧市庁舎。この広場の看板と言える建物。1404年に完成したゴシック様式のもので、現在は博物館、コンサートホールとして使われる。博物館は常にオープンしているのではなく、予約が必要。塔は夏には展望台として上ることが出来る。
横には、18世紀になって付け加えられた黄色の出店が二つあり、奥の方は現在でもキオスクとして活躍中。その上に荷物をつり上げるための滑車がある。滑車はここだけのものではなく、当時は何処でも見られた。エレベーターなど無い時代だからだ。
中程にドラゴンの雨樋が二つ見られる。口から雨水が流れ落ちる。横には、荷物をつり上げるための滑車などの説明があった。
塔のてっぺんに立っている「トーマスおじいさん」は、当時人気者だったトーマスさんから名付けられた。現在のは1996年製の3代目に当たる。
そこから少し道を下って、ホテルまでの帰り道を聞いた。昼食後は自由散策になるので、各自でホテルまで戻らなくてはならないからだ。
その分かれ道に面白い建物があった。大きな赤い胡椒袋が滑車の所につり下げられている「ペッパーサック」という,やはりレストランのようだ。胡椒商人の家だった所を改造して使っている。
その斜め向かいにあるのが「オルデ・ハンザ」。ツーリストに喜ばれるレストランと言うことで、地球の歩き方にも載っている。衣装も料理も食器も中世風にしている。(この二つの店の写真は、3-7に掲載している。)
2-6 昼食 (1205~1305)
・ロシア風スープ ビーフストロガノフ アイスクリーム ビール(45×2)
昼食はロシアレストランの「トロイカ」。ロシアから独立して未だにロシアの脅威を感じていると言いながらも、未だにロシアの影響が残っている。
小さな入り口から入って地下に降りる。
まずはビールを注文。ジョッキで45クローン。冷たくて美味しかった。
スープは、大きなどんぶりのようなものに出てきてびっくり。具がたくさん入っていてスープというよりこれだけでもしっかりした一品料理だ。たぶんサリャンカ(セリヤンカ)というものだと思う。この店の名物の一つになっている。
メーンはビーフストロガノフ。肉は細かく刻んでああって、歯ごたえが残してある。その肉よりもソースの方が美味しかった。いい味が出ていた。
デザートはアイスクリーム。これも大きかったが、美味しくいただいた。
市議会薬局
まずは、ラエコヤ広場に面している市議会薬局を見に行った。
広場に面しているのに、路地へ入ってしまったので、見つけるまでに時間がかかってしまった。もう一度地図で確認をしてたどり着いた。
ヨーロッパの薬局としてはかなり古い部類に入る。しかもまだ現役だ。中には入らず、有名な、蛇の絡みついた看板の写真を撮った。
それから、広場の中央で二人の写真を撮って、旧市庁舎をもう一度確認してから、インフォメーションへ行って地図を手に入れた。と言っても、非常にわかりにくい地図だ。とりあえずは、noriが先ほど目につけておいた「ヘリナ・ディルク」へ行って、子供服を見ることにした。
土産物屋 「ヘリナ・ディルク」
山の手と下町の境目にある短い足の道まで行き、少し上がった所にその店はある。中に入るときれいに色づけされた皿やマグカップ、人形などに混じって少しだけ子供服があった。マグカップでも700~800円くらいで買えますよ、ということだったのだが、やはり洋服は違った。なかなか可愛いのもあったのだが、結構いい値段だったので、あきらめた。でも、可愛くて、カードが使えたら購入していたかも知れない。
その後、junは乙女の塔へ行きたかったのだが、地図を見てもどう行けばいいのかわからずあきらめて、ふとっちょマルガレータを目指すことにした。地図でどこにいるのかを確認してから、目的地を目指した。
聖オレフ教会
次に目指したのは、中世では世界で一番であったという高い塔をもつ聖オレフ教会。当時は159mもあったそうだが、その後雷など9回も被害にあって今は130m弱になってしまった。といっても、旧市街ではまだ一番の高さを誇る。オレフというのは、伝説の巨人から付けた。
どこからでも目に付くので、わかりやすい。途中に三人兄弟といわれる建物が見られたが、壁がはげ落ちていたりしてあまり見栄えはよくなかったので、通過。
教会に近づくと、何と高い塔の上の方に人がいるのが見えた。どうやら上れるらしい。といえば黙って通り過ぎるはずもなく、ますは教会の内部を見学。質素な造りだった。
それから受付へ行って、入場料一人30クローンを支払った。切符を手にすると切符切りのおじさんがすぐに寄ってきて切符を切ってくれた。このおじさん、ずっとjunの後ろにいたので、noriは変な人がつきまとってきたと思っていたらしい。
さて、入り口を入ると人一人が通れるくらいの狭さの急な螺旋階段が続いている。ただ、壁にはロープが張ってあるので、それが頼りになる。二人して、一段二段と数えながら上っていくが、さすがに100段を超える頃になると息も絶え絶え。しかも上から下りてくる人がいると、体を壁にすり寄せてようやくの状態ですれ違わなければならないので、大変だ。その度に数がずれているような気がする。239と数えたときに展望所へ着いた。
そこは塔の屋根に無理矢理に手すりと歩く部分の板を敷き詰めてある。つまりは屋根の上というわけだ。
ここからの眺めは素晴らしかった。360度屋根の周りを歩けるようになっているので、ぐるりと一回りすると、この町の全容を目にすることができる。
先ほど歩いて来たトームペア城やネフスキー教会、聖ニコラウス教会など、もう一度確かめながら風景を楽しんだ。そればかりではなく、バスで通り過ぎただけであった塔の広場辺りの並んでいる塔の様子、城壁、そして、これから行こうとしているふとっちょマルガレータの場所などの確認もできた。この日は、天気がいいので見通しもよく、風もないので十分に堪能した。
ここへ来れば、この町が手に取るようにわかるという訳だ。
ただし膝はガクガク笑い始めていた。1周したので下ることにしたが、気をつけて下りねばならない。ロープにつかまりながら、また数えながら下りていった。すると今度は260という数になった。上りとは随分と違ってしまったが、疲れていたのとすれ違うときの声の掛け合いで数えるのを中断したりしたので、正確な数はわからない。
キリスト受難のレリーフやオレフの石像があると言うことだったが、塔で全力を使い果たして、そちらまで気が回らず見ずじまいだった。
2-8 買い物 (1550~1630)
途中で、商店街を見つけた。もしかしたらここに子供服を売っている店があるかも知れないと思って入ってみた。そこはちょうど日本でいうと地下街のようなところで、小さな店が並んでいる。残念なことに1階にそういう感じの店は見つからなかった。じゃあ、2階に行って見ようとエスカレーターの所へ行くと、地下に食品売り場があるというのを見つけて、そちらへ行くことにした。というのも、今夜は夕食が付いていないので、どこかで食料を調達しなければならなかったからだ。外食するということは、はなから考えになかった。
店はいわゆるスーパーマーケットだった。総菜売り場も見つけた。しばらくウロウロしていると我々の動きについて動いていたおばさんと目があったので、指さし方式でジャガイモとサラダを買った。それから別の所をウロウロして寿司の折り詰めを買った。こんな所に来てまでと思いながらもだ。それからアルコール売り場では、逡巡の末やはり赤ワインにした。これで終わりかと思ったが、肉がないと寂しいということで、先ほどの総菜売り場に戻った。するとまたあのおばさんが寄ってきて待っているので、焼き鳥を二本頼んだ。焼き鳥と言っても日本のように小さく切ったものではなく拳くらいの大きいものが、3~4つ串に刺さっているものだ。あまりにも大きすぎると思ったのだが、今更1本にともいえなくてそのまま無言。おばさんは並んでいる中から大きそうなものを選りすぐってくれた。
これで30クローネ位。持っている現金で間に合ってよかった。が、殆どの人はカード払いだった。