5月3日(月)タリン(エストニア)=国境越え= リガ(ラトヴィア) 快晴後曇
起床(0300頃)健康チェック(0500)朝食(0650)出発(0810)国境(1100)リガにて昼食(1300~1420)リガ観光(1430~1805)ホテル着(1815)夕食(2000~2100)就寝(2130)
3-2 リガへ
出発(0810)トイレ休憩(0930~0950)国境(1100~1130)
今日は国境を越えてラトヴィアへ入る。といっても、両国ともシェンゲン協定批准国なので、特に審査とか手続きもない。
バスは8時10分にホテルを出発。町を抜けると牧草地や林などの間を走っていく。それが延々と続くので、あまり面白くない。
1時間も走るとトイレ休憩。もう?と思ったが、一応トイレに入った。一端外へ出ると、そこに小さな店が併設されていたので、noriのポケットから出てきた5クローンを使い切れないかとものを探してみると、ベビースターラーメンのようなものがちょうど5クローンだった。これで今度こそ本当に使いきった。
その後も何もない単純な道を走る。途中に墓地があったが、朽ちかけた十字架が立ち並んでいるだけだった。
11時、ようやく国境に着いた。(noriの写真の側がラトビアで、junの方はエストニア。ともにまだここはエストニア領。)
まず両替。ドライブインのような所の一角にそれはあった。日本円は駄目というので、たぶん一番レートがよいと思われるユーロから両替をした。ただし、エストニアのこともあるので20ユーロだけ両替した。13.45ラット。
その後コーヒーでも飲もうと、カウンターに行ったら、まだここはエストニア領内なので、大きなユーロを見せたら、扱わないと断られた。
またバスに乗る。が、どこが国境線なのかわからない。係員がいるわけでもなく、もしかしたら保険のチェックがあるかも知れませんということだったが、そんなこともなく、通り過ぎた。
11時45分頃からしばらくは海岸沿いを走った。深い青色で、太陽に輝いてきれいだった。
リガ(リーガ) マップ
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3-4 リガ観光(1430~1805)
食事が終わるとリガ市内の観光となる。まずはバスに乗って移動。
リガはバルト三国のほぼ中心に位置し、経済的にもほかの都市をリードする存在だ。13世紀末にはハンザ同盟に加盟し、町は急速に発展していく。教会や商家など、旧市街を彩る建築はこの頃に建てられたものが多い。その後16世紀から19世紀にかけてはポーランド、スウェーデン、帝政ロシアの支配下に入った。第一次世界大戦前の19世紀後半には、ドイツに属した後一時期独立を果たす。しかし第二次世界大戦が勃発するとソ連が侵攻、その後ナチス・ドイツに変わり、再び戦争末期にはソ連が侵攻しするという悲しくも歴史に翻弄され続けた町だ。
そのゆえんは、バルト三国最大の都市であることが物語るように、天然の良港をかかえる「バルト海の真珠」とも表される戦略的にも価値の高い位置にあったといえるだろう。
リガ城撮影(1440~1445)
黄色い建物の前でバスストップ。バスの中の解説がよく聞こえないので、いったい何故止まったのかわからないままにカメラを片手にバスを降りる。
黄色い塔に向かって皆がシャッターを切るのを見て、これがリガ城であると知る。
ドイツ騎士団長が1470年までここに住んでいた。この頃のリガ城は軍事的目的が強かったので、石の厚い壁で覆われたシンプルなものだった。回りは堀で囲まれ、城壁で囲まれた市街からも分離されていた。後にはポーランド、スウェーデン、帝政ロシアとそれぞれの支配者が住むところとなり、最初のラトヴィア大統領の官邸にもなった。18世紀から19世紀にかけて改築が進められ、現在は宮殿のような姿になっている。
城の北側部分はラトヴィア歴史博物館と海外美術館に使われ、ほかの部分は再び大統領官邸として使われている。
城というからもっと大きくて堂々としているのかと思った。思いの外小さかった。
ユーゲント・シュティール建築群(1450~1505)
また、バスに乗って少し移動。その時にも車窓に見られたユーゲント・シュティール建築。確かにかなり凝った装飾だ。
「ユーゲント・シュティールというのは新芸術、つまり今までになかった新しい芸術ということ。建物全体ではなく外側の装飾だ。19世紀後半に登場した。ドイツ語圏における「アール・ヌーヴォー」と考えてよい。
リガの建物は、古くて13世紀のものが殆どで、その頃はヨーロッパではやっていたルネッサンス様式だった。ルネッサンスというのは真ん中に1本線を引くと左右対称になっている、所謂シンメトリックで、直線を中心とした様式。しかし、リボニア戦争やその後の戦いで破壊された。ようやくスウェーデンの統治時代になってから修復され、それはロシア時代になっても続けられた。基礎の部分は13世紀のものが多い。
装飾の新しいものは1800年代終わりから1900年代初めの頃建てられた。バロックと似ている部分もあるが、バロックは曲線を多く用いており、また年代も違っている。
ギリシャ神殿のような柱を使う様式は、バロックの後にヨーロッパで広まった新古典主義(ネオクラシック)になる。それにゴテゴテした装飾を付け加えたものがユーゲントシュテールと考えて良い。これはドイツから広がった。フランスのアールヌーボーとは年代的には一緒だが、少し違う。アールヌーボーではキノコや葉など自然のものを取り入れているが、ドイツでは大きな顔を張り付けるのが多い。
また、ここでは、ギリシャのような像や人間の形をそのまま張り付けるものが見られる。」
その様な解説を聞きながら、しばらくはそれらの建物を両側に見ながら、町の中を歩いた。ライオンやドラゴン、熊など動物の装飾もあった。
以下はいずれもアルベルタ通りにあった。
○1904年作。2002年に修復が終わった。動物や植物、喜怒哀楽を表す人面、女性などの彫刻が見られる。
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中央市場(1518~1538)
ツェペリン型の倉庫で、かつて飛行船の格納庫・修理場だった。
周りにはフリーマーケットのように小さな店が並んでいるが、毎日出ている。
中に入るとまず強烈な臭いだ。ピクルスなどの売り場から入ってしまった。香辛料もある。野菜や果物は種類が豊富だった。日本のものとそう変わらない。肉のマーケットには、固まりが並んでいた。豚の顔も鼻付きであった。ソーセージは、こちらでは作らないので、ドイツから持ってきている。
麦類は、ライ麦、小麦、大麦、カラス麦の4種類を作っており、手作りのパンを作ることが多い。
乳製品はこの辺りの酪農地帯で作っており、チーズは種類も多かった。
他にも蜂蜜や缶詰なども揃っていた。
外へ出るとそこにもたくさんの店が出ていた。特に花屋の一画が綺麗だった。花はよく売れるという。というのは毎日が聖人の日で、クリスチャンネームがその聖人と同じだとするとその日にパーティーなどを開いてお祝いする。そのときにプレゼントとして花を持っていくのだという。
中よりも外の方が人が多いように思えた。そのせいか、外へ出ると、「すぐそこに目つきの怪しい人が居ます、間違いなく狙っていますから注意してください。」と添乗員さんから言われた。出稼ぎでスリに来る人がいるそうな。(一番最初の写真は翌日に聖ペテロ教会の塔の上から撮影したもの)
聖ヤコブ教会・国会議事堂(1621)
聖ヤコブ教会は、1225年には記録に出てくるような古い教会だ。尖塔の途中に突き出たようにあるのが、鐘のあった所。かつては市庁舎広場で処刑が行われると合図として鳴らされた。やがて、不倫の女性が下を通と鳴るといわれ、それがしょっちゅう鳴るので、女性から苦情が出て取り外されたとか。ただ現在は、2001年のリガ800年祭の時に付けられている。
その隣にあるのが国会議事堂。掲げられているのはラドヴィアの国旗。この赤は、独立戦争の時に流された血の色を表しているそうだ。
三人兄弟の家(1624)
三人兄弟が別に住んでいたというわけではない。時代の異なる家が肩を寄せ合って建っている。
右端の白くて少し傾いているのが長男という扱いだとか。15世紀に建てられて、一番古いということだろう。当時、窓の大きさで税金がかけられたために、小さくなっている。しかし、入口は大きく余裕がある作りになっている。真ん中が建つ頃には窓税が無くなりました、と説明があったが、では、税金は何処にかけたのだろう。聞きそびれた。一番左の末っ子の頃には窓税ではなく間口税になっていたために窓が大きくなっている。代わりに細長くなった。時代の違った建物の様子がわかるということだ。長男の煉瓦が見える部分がオリジナルで、様子がわかるようにと残してある。
大聖堂広場(1629)
ここは明日入りますということで通過。ただ、説明だけは歩きながらしてくれた。
ここは司教がいるので、司教座教会となる。司教が座る椅子のことをギリシャ語でカテドラと言い、それがある教会をカテドラルという。ここの司教の本家は、ブレーメン。そこからやってきた司教が、原住民から牛の皮一枚分の土地を手に入れて建てたのが、この教会だとか。牛の皮を細く長く切って丸く囲んだというのだが、どこかで似たような話を聞いたような木がする。まあ、そんなことで、1211年に建てられた。その頃の地面は今よりも低く、そのことがわかるように入口の所が低く残されている。
広場前には写真パネルが何枚も並べられていた。明日が独立記念日なので、その関係のものかも知れないが、通り過ぎるだけだったので、確認もしなかった。
市庁舎広場(1635)
ここでは大きな音楽と共にファッションショーが行われていた。民族衣装を来た子や最先端と思われる衣装の女性がいて華やかだ。その周りに人垣ができていて、ゆっくりと観光する感じではなかった。
ここにブラックヘッドの会館がある。元々のものは、1941年のドイツ軍の空襲で破壊されたため、このギルドハウスは2000年に再建、完成した。とはいえ、1334年当時のものを忠実に再現したそうだ。ここはグレートギルドの会員になる前の若者の社交場として存在した。正面に4体の像があるが、これはギリシャ神話の神々で、その上にはリガ、ハンブルグ、リューベック、ブレーメンの紋章が浮き彫りにされている。それらの諸都市と歴史的につながりの深い町だ。更に上には時計がある。元々のものは、あまりにも素晴らしい出来だったので、二度と同じものを造らせないように職人の目をつぶしてしまったと言われている。こういう話もどこかで聞いたことがある。
右上の方に聖ゲオルギウス(イギリスの守護聖人)の像がある。実在の人でカトリックの聖人の一人。 ドラゴンはキリスト教以外の宗教、つまりは邪教を表している。
この広場は処刑場だった。その処刑が行われた所にローランドの像がある。ローランドは実在の人物で、レコンキスタ時代のスペイン人。戦いの時に剣が折れてその剣先が南仏に落ちたという話がある。このローランドは公正のシンボルと言うことで、ハンザ同盟の都市には必ずこの銅像が市庁舎広場(ドイツ語ではマルクト広場)に建っている。ローランド像は、一つの寸法になっている。膝から足首まで、中指から肘まで、それぞれの長さが一つの単位となっている。昔取引をするときにこれで確かめたそうだ。つまりはこの広場では市が立っていたと言うことだ。
向かいには新しい市庁舎も建てられていた。
ついでだが、足元に「リーガにはじめてクリスマスツリーが登場したのは1510年」と書かれたものがあった。何カ国語かで書かれているのだが、何故にか日本語があった。
3-5 ダウガヴァ川クルーズ(1705~1805)
この頃になると陽も落ちてきてかなり寒くなってきた。
こんな時に何もクルーズなんてしなくても、という声もあった。本当は明日の予定だったのだが、明日の天気予報は雨、ということで急遽変えたのか、独立記念日の影響なのかわからないが、とにかく乗ることになった。
一番に乗り込んですぐ、上のオープン席へ行った。風が吹きっさらしの中で確かに寒い。半数以上の人は下の部屋にいる。我が家は防寒具を着て頑張った。
船からは旧市街地区がよく見られた。特にリガ城は、先ほどは木が邪魔してうまく写真に撮れなかったが、船上からはよく見えた。町の全体像もよくわかった。丁度クルーズ船も出航していった。
それから人が集まって見ている物があった。肉眼ではよく見えなかったのでとりあえず写真をとて見ると、それは「クリストファーの像」だった。川の渡し役だった巨人のクリストファーがあるとき彼が運んだ子供が、翌朝黄金となっていてそのお金でリガが創設されたという伝説の、その二人だ。オリジナルは木造で、博物館にあるというがこの像、何とも可愛らしいというか素朴というか。
それらを興味深く見ていたが、次の橋をくぐると、工場地帯のような感じで、おもしろみが無くなった。そこで下の部屋へ入っていく人もいたが、我が家は結局最後までその寒さの中で風景を楽しんだ。ある程度行ってUターン。同じ所を戻ってきた。
この川に面している今夜のホテルもよく見えた。
3-6 ホテル ラディソン BLU ダウガワ リガ ★★★★★ 637号室
ホテル着(1815)。
このホテルは、川に面していると旧市街地区がよく見えるというので、そちらが当たり。さてどうかなと思っていたら、全員が奇数の部屋、つまり川側だった。シーズンオフということで、こういうことができたのだろう。運がいい。
確かに部屋からの眺めはよかった。川の向こうに旧市街の教会の塔が立ち並んでいるのがよく見える。窓を覗く度にその光景が目に飛び込んでくる。
ただし部屋は狭い。小さめのベッドが二つ窮屈そうに並んでいる。荷物を置く台も一つしか無く、工夫が必要だった。ただし、余計なものとして3畳くらいのクローゼットがある。旅行中にそんなに洋服を持って歩くか、と思いながら、noriのスーツケースはそこへ開いた。ただし、台がなく床の上に直接なので、腰が痛くなる。サービスの観点が違っている。