5月4日(火)am ルンダーレ宮殿 小雨のち曇り
起床(0400)健康チェック(0600)朝食(0620)ホテル発(0830)ルンダーレ宮殿(0938~1107)
4-1 朝
起床(0400)健康チェック(0600)朝食(0620)
起床は4時、となっているが、実際には、二人とも夜中に何度も目を覚まし、途中でパソコンに向かったりしていたので、熟睡したわけでは無い。
もうどうにも眠れそうもないので、4時には二人とも起きてそれぞれのことをした。6時になったので、健康チェックをしていつもの朝を迎えた。
今日は朝から雨。夕べから明け方にかけてはひどい降りだった。靄がかかっていて、塔の上の方がかすんで見えなかった。が、それはそれで幻想的だ。
それからすぐに朝食会場へ行った。6時半からなのだが、電気が付いていたのでいいだろうと解釈して中に入った。勿論一番乗り。
内容はいつもと同じ様で目新しさはなかったが、トーストと蜂蜜があったのが有り難い。
朝になってもま雨は完全には止んでいない。朝食後、少し小降りになっていたので、ちょっとだけホテルの前に行った。
その後は簡単に荷物の整理。連泊なので、それほど真剣にやる必要が無く、着替えなどはタンスの引き出しにそのまま入れておいた。
4-2 ルンダーレ宮殿へ
ホテル発(0830)
バスの座席は前方だけが割り当てられている。今日はそれほど移動時間が長くないし、雨なので、窓越しに写真を撮る我が家にとって条件が悪い日だ。どうぞ割り当てられませんように、と思っていたが、しっかりと前の席になっていた。しかも二人で1シート。最悪、と思っていたら、一組の夫婦がやはりこれを嫌ったのか、譲ってくれたので、何とか一人で1シートを使うことができるようになった。一人の人には、始めから1シートを割り当てているのに、不公平だと思ったが、まあ、これで良しとする。
しばらくは赤松林の中を走る。これはまつたけの親木だ。日本なら大騒ぎだが、こちらの人にとっては、せいぜい飼育資料になるだけのことだという。何ともったいないこと。 その後耕作地や牧草地が所々に現れるようになる。また、家々に国旗が掲揚されている。独立記念日のせいか。
雨がひどくなってきた。
4-3 ルンダーレ宮殿(0938~1107)
ようやく到着した宮殿は、まだ、係員が来ていないというので、待たされることになった。雨はどうにかやんできたようだが、冷たい風が遠慮なしに吹いてくる。それでも、塀の中には入れたので、写真を撮って待つことにした。
ラトヴィアのヴェルサイユ、と言われるだけのことはあって、外観が似ていた。と言っても、大きさや豪華さではちょっと及ばない。造りが似ているといった方がいいかもしれない。
この辺りはクールランド公国と呼ばれていた。元々はドイツ騎士団の領地だった。1518年マルチンルターの95箇条の意見書に端を発して起こった宗教改革で、人々はプロテスタントに改宗し、騎士団の存在意義が無くなった。為に彼らはポーランドの臣下となり、封建領主の道を選び、この辺りの土地を手に入れた。大公には騎士団の流れを汲むドイツ貴族がなり、ラトヴィア人は殆どが農民として扱われた。一部の小都市にはユダヤ人が住んでいた。
この宮殿は、ロシアの女帝アンナに愛されたクールランド大公ビロン公の夏の宮殿としてイタリアの建築家の設計による。この人は、サンクトペテルブルクの冬の宮殿やエルミタージュを始めとして帝政ロシアの数々の建築の設計をした人。内部の装飾はドイツ人とイタリア人の手による。
建設は1736年から始めて1768年に完成した。日本でいうと吉宗の頃だ。
第一次大戦の時は病院として、また厩舎として使われた。
第二次大戦の時には、ソ連軍の司令部として一部が使われた。
宮殿内部はロココ調の装飾で修復されているが、外側は大きく崩れてはいない。
そんな説明を聞きながら外で待っていたが、あまりにも寒かったので、現地ガイドさんが交渉して何とか中に入れてもらい、まずはトイレを借りることになった。
ようやく時間になったので、まずは靴カバーをはく。それからカメラ券を買いに行く。一人1ラット。シールをもらって見える所に張り付ける。
ルンダーレ宮殿
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