5月6日(木) am カウナス トラカイ 曇り後雨
起床(0530)朝食(0630)散歩(~0720)ホテル発(0900)トラカイ城(1007~1145)昼食(1225~1325)
6-1 朝
起床(0530)朝食(0630)散歩(~0720)
起きて、いつのように健康チェックをした。二人とも悪くない。ただ疲れがなかなかとれにくくなっている。
荷物を整えてから、朝食会場へ行く。noriは昨日他の国の人が座っていた高い椅子席に関心があったらしくその席をゲット。メニューは相変わらずのもの。ただ一つ面白かったのは、リンゴ。食べやすいように薄い輪切りになっていた。
その後、出発までは時間があったので、近くの散歩に出かけた。
何故か日の丸があったので、1枚パチリ。今回3カ国は、何処に行っても国旗が翻っていた。何度も外国に侵略されてやっと勝ち得た祖国というものに対する思い入れの違いかと思う。
更に少し行くと、聖ミカエル教会に出た。ネオ・ビザンティン建築のローマ・カトリック教会である。1893年にカウナス要塞のために建設された。1944年から1990年のソビエト連邦による占領下においては美術館として利用され、リトアニアが再独立を果たすとともにカトリック教会に戻された。
そこから前に伸びるライスヴェス大通りを歩いて行くとキオスクが開いていた。人通りはなかったが、もう営業しているということは人の動きは早いということだろう。
それから何と太陽光を発見。全てに付いているわけではないが、そういえば家の太陽光は活躍しているだろうかと思いをはせる。
カルベ湖
バスを下りると雨がポツポツと落ちてきた。風も冷たい。今日の気温は7度しかないということで、バルト三国に来て初めて寒いと感じた。タリンは氷点下を記録したという。
カルベ湖を挟んで撮るのがいいですよ、ということでまずは撮影タイム。
城への道の途中には土産物屋が並んでいた。フラフラとそれを見ながら行く。やはり琥珀が多いが、人工のものも多いので気をつけるようにという話があった。ただ素人目には見分けが付かないし、なにより安いのが魅力だ。
橋のこちら側に、遠目に城塞が見えた。1300年代にゲディミナス大公の息子ケストゥティス公によって造られたといわれる城跡だ。1350年にヴィタウタス大公が生まれた城とされている。
それから橋を渡ってトラカイ城へ向かった。橋の下に鶏がいますね、と添乗員さんが言ってくれたが、風が強さを増し、更に雨っぽくなってきたので、足早に通り過ぎた。
途中に木像があった(3454)。この城を建てたヴィタウタス大公の像で1994年に造られた。この辺りでは、木工製品、木工細工が伝統産業となっているのだそうだ。他にも木の十字架やイコンなどを造っている。
トラカイ城
この城は、14世紀後半にドイツ騎士団から守るために、ケストゥティス公が築城し、ヴィタウタス大公の時に完成し、カトリックの教会も建てられた。堅固な城で、騎士団に何度も攻められたが一度も完全には落ちなかった。しかし、16世紀にヴィリニュスが繁栄すると見捨てられて貴族の反逆者を幽閉する監獄となった。一時は修道院として使ったこともあったそうだが、1655年にモスクワの攻撃で破壊され、それから長らく廃墟のままで放置された。そのため周辺の人々が建築材として石を持ちだしてしまった。
1961年から修復作業が始められ、1985年に完成した。下の石は当時のもの、レンガの部分が新しく付け加えて忠実に再現した。
この城には天守閣のようなものが3つほどあり、15カ所の砲台がある。当時は丸い石を投石するタイプの大砲だった。
寝室
急いで2階に上がった。まず妃の寝室の方から入る。といっても寝室の雰囲気は全くなく、完全に展示物だけの資料館になっている。
そこにはヴィタウタス大公の肖像画とリトアニアにとって主な大公が並べられていた。添乗員さんによると、この4人の名前だけ記憶しておけばこの国の歴史は大丈夫ということだ。左から、ミンダウガス大公(最初にリトアニアを統治した。1253年にカトリックに改宗した。1263年に暗殺され、その後再び自然崇拝になる。)、ゲディミナス大公(領土を拡大し、首都をトラカイからヴィリニュスに移した。ゲディミナスの塔を造った。)、ヨガイラ大公(ポーランドと連合国となり、カトリックを受け入れた。叔父ケストゥティスに大公位を奪われて追放されるが、翌1382年、ドイツ騎士団の支援のもとにケストゥティスを捕らえて殺害し、大公位を奪回した。ポーランド王として即位すると1401年、リトアニア大公位をケストゥティスの息子ヴィタウタスに譲ってリトアニアの統治を任せた。)、ヴィタウタス大公(バルト海や黒海方面に勢力を拡大した。その後はポーランド・リトアニア連合としてドイツ騎士団に対抗し、1410年にはタンネンベルクの戦いで勝利を収めた。1430年、79歳で死去。彼の死後、リトアニアはポーランド王国に組み込まれてゆくこととなった。)の4人。
次の部屋も妃の寝室。ここには、キリスト教以前のものという青銅器などが展示されていた。またトラカイ城の位置を示している地図のようなものもあった。13~4世紀にこれだけの砦があったのだということを表している。青いのは木造で一つも残っていない。赤いのは木造と石造なので、一部残っているものもある。第9要塞はこの赤い部分の一つに当たるそうだ。カウナスの所がそうか?
次はヴィタウタス大公の寝室。彼はこの部屋で最期を迎えた。彼の胸像がある。また、1500年代ここがルネサンス様式に装飾され、短期間のみ王室の夏の住居として機能した。その頃のストーブの模様として使われたタイルやベネチアンガラスも見つかったとして展示されていた。
投石大砲もあった。こんなもので闘っていたのだ。どのくらい飛んでどのくらいの殺傷力があったのだろう。
謁見の間
タンネンベルクの戦い後すぐに、トラカイ島城はその軍事的重要性を失い、城は住居として機能が転換された。また、諸外国の特使達も招かれるようになった。
それがこの謁見の間。もてなしや会議なども行われた。
ここで開かれた最も大きなパーティーは、タンネンベルクの戦いの勝利を祝ってのもので、2週間も続いたそうだ。そのときの様子を表したのが、入って左側にあるタペストリー。左の赤いのがヴィタウタス大公、右がドイツ騎士団。勝利しても、相手を騎士として敬っていたというのがこれからわかるという。本来はそこにはフレスコ画が描かれていたという。壁一面フレスコ画があったそうだ。
タペストリーはもう1枚あって、こちらは「聖ヨハネの死」という宗教色の強いものだ。
この部屋には何枚かステンドグラスがあるが、これらは全て複製。
面白いのは姿見。この鏡で姿を見ると10歳は若く見えるというので、早速二人でパチリ。
3階の資料室
3階はゲストルームだったそうだが、今は全て資料室。
甲冑や武器などその頃の戦いの様子がうかがえるものが並んでいる。日本の武士と同じく、騎士道精神というのも1対1での戦いの中にあったものだ。モンゴルから火薬が入ってきて戦いの仕方が代わってからは、無用の長物でしか無くなってしまった。
小さなトラカイ城の模型があって、歴史の流れがわかるようになっているが、それほど熱心に話を聞いていたわけではないので、詳細はつかみかねた。 他にも生活の様子や歴史などがわかる資料が並べられていた。 カライメの人達の様子を紹介する部屋もあった。この人達はヴィタウタス大公の時代にクリミヤ半島から傭兵として雇われて連れてこられたそうだ。その数、200家族で400人。その系列の人250人ほどが、今でもこの国に住んでいるという。
最後にリトアニアの国章を見て螺旋階段を下りた。
それからjunはトイレに行った。数が多くてすぐに入ることが出来た。その間、noriは入口の売店に日本語のガイドブックがあるというので そちらへ行った。結局これはなかったので購入できず。