8月8日(火)快晴 テヘラン・ケルマンシャー・ハマダン
起床(0330)軽食(0430)出発(0450)テヘラン空港着(0520)搭乗(0625)離陸(0638)軽食(0700)着陸(0721)ケルマンシャー空港発(0750)ターク・イ・ブスタン洞窟(0805〜0850)CP(0913〜0920)ダリウス大王戦勝記念磨崖浮彫(0935〜1005)CP(1043〜1047)カンガヴァール(1100〜1140)休憩(1220〜1233)昼食(1325〜1430)サンゲシール(1440〜1450)コンバデアラヴィヤーン(1500〜1525)買い物(1530〜1545)ホテル着(1550)夕食(2000〜2130)・・・走行距離およそ200q
2−1 朝
何しろ4時過ぎの起床だから、則などは気になってうつらうつらでどうしても浅い眠りになった。その点順はしっかりと睡眠をとった感じだ。3時半過ぎにはそうこうしているうちに則は活動を始めた。
朝食は4時40分からということで、少し早めにいく。それでも添乗員のYさんを始め数人がもう食べていた。
定刻の5時を少し回って出発。道もさすがに昨日よりはだいぶ空いていたが、いかんせんバスは遅い。結構かかってしまった。
2−2 テヘラン空港(国内線ターミナル)
空港は大混雑だ。デリーの国内線ターミナルよりも込んでいる。最初に男女別に、すべての荷物をX線に等してターミナルビルに入る。我々は団体チェックインということで、荷物を置いてゆったりと待つ。
出発ロビーに入るためには、再度検査がある。ここでも男女別ということで、女性の方は長い列になっていて、則は順が出てくるまでしばらく待たされた。出発ロビーは広い。空港に飛行機に直接乗れる「腕」はない。飛行機までバス移動だ。現地ガイド氏の計らいで、最終のバスに乗る。何故かといえば、ターミナルビル内はよく空調が効いているが、飛行機の中が結構暑いのだそうだ。
2−3 飛行機 6時38分離陸・・・IR283便
6時25分に搭乗をした。離陸は6時38分だった。あっけないフライトだが、最初に国際線の時と同じように、飴が配られた。7時になるとあわただしく、軽食が配られる。それもそうだ。もう少しで着陸なのだから。7時21分には着陸した。どうも今回の旅は、飛行機に関しては順調だ。後が怖い気もする。なぜなら、かつて定刻に出ないことで有名な航空会社に乗った際に定刻よりも早く到着し喜んだ次の帰国便が、半日以上遅れた経験があるからだ。
2−4 ターク・イ・ブスタン洞窟 8:05〜8:50
さてさて、イラン最初の観光地は、ターク・イ・ブスタン洞窟。ササン朝の浮き彫りの残る洞窟だ。洞窟と旅行会社の旅程表にはあるが、実際は「巖」のようなものだ。日本でいえば、臼杵の大仏のような感じで、岩を削り取って、そこに彫刻をしてある感じのものだ。何で、洞窟という名称を用いているのか不思議だった。形的には、「龕(がん)」と言った趣だ。
さて、ここでみるべきものは3つの部分からなる。左側からみて最初と次の二つが先に述べたように、岩をくりぬきそこに彫刻を施したものだが、最後は単に岩に彫刻したものだ。
第一の構造は、アーチ状にくり抜いた岩屋の外側を飾る羽の生えたキューピットのような像、そしてくり抜いた巖の左の壁面、そして右壁面、それから正面のパートに分けることができる。
外側には、羽の生えた、胸の隆起した女性とおぼしき人物が左右に配され、花と思われるものを持っている。以降もそうだが、各時代を通じ、乾燥しているこの地域においては水が重要なためであろう、「人々の集う場所=水のあるところ」ということで、こうした岩に彫りつける絵画あるいは線刻文字が存在するところには泉がほぼ必ず存在した。
さて、窟の入り口上部を飾る像は、地球の歩き方(以下「歩き方」と略記)によれば、天使と表現され、それは日本における飛天に引き継がれるものとなっている。そこまでの系譜をたどれるかどうかわからないが、勝利の女神であるニケの像とも解説され、ギリシア・ローマ系の影響が強く表れたものだ。後に述べるように、この彫刻群はササーン朝後期時代のものであり、同時代に同じようなものが日本にも存在したというだけで、系譜をたどるものという存在ではないように思われた。
正面の上部の像は、王の叙任式の図で、ゾロアスター教の光輪を受ける儀式が描かれている。下部には甲冑をつけたホスロー2世(在位590〜628)の騎馬像が彫られている。
洞窟の左右の壁には王の狩の様子が彫られている。獲物を追い込んで狩りをするという方法のようだが、船上で演奏する楽隊までいたりする。
ただし、左側の彩色された彫り物は、後世の物だそうだ。
第二は中央の小さめの洞窟。前者より200年以上前のもの。シャプール2世(309〜379)と孫のシャブール3世(383〜388)の像が彫られている。
第三は上の2者の間に在位したアルデシール2世(379〜383)がローマとの戦闘に勝ったことを記念したもので、3体の肖像が彫られている。中央のアルデシール2世が、右のアブラマスダー神から王権を受け取り、左のミトラ神が祝福しているところが描かれている。足元には横になった人の姿が彫られているが、ローマの皇帝との説明があった。ただし、この王が歴史的にそのわずかな在位中に果たした役割などは伝えられていないようで、これは長年のローマとの戦いの中での、模式的な構図なのだと思う。
そのすぐそばに泉が湧いていた。
2−5 チェックポイント
イランの旅行記を見ると、必ず出てくるのがポリスチェックの話である。国の中を縦横に走る道路の要所、つまり大きな都市に入る手前とか道路の分岐点とかそういった場所にはチェックポイントが設けられている。2キロ手前から、予告が行われ、車はその前に来るとスピードを落とす。観光バスは必ず書面のようなものの提示が行われる。これが1時間に1回くらいあり、5〜10分とられるので、旅行時間に結構影響を与える。したがって、またポリスチェック、またポリスチェックという記述になるわけだ。この旅行記で、時として「CP」と略記することがあるが、それはチェックポイントのことだとご理解いただきたい。写真は後日本当はいけないCPでの我がドライバーの申告手続き中の図。
その最初の洗礼を受けた後、本日のメインイベントであるダリウス大王戦勝記念磨崖浮彫へ到着した。
2−6 ダリウス大王戦勝記念磨崖浮彫 9:35〜10:05
2−6 世界遺産:ビストゥーン
9:35〜10:05
ダリウス大王戦勝記念磨崖浮彫も先に書いたようにご多分に漏れず、泉のそばの場所にある。オアシスの場所ということだ。しかしながら、このダリウス大王戦勝記念磨崖浮彫の掘られている場所はかなり高い岩の上の方にある。その麓まで行っても、なお70メートルの高さを残す。それはさておき、まずは麓に出るまでも数十メートルの高低差を稼がなければならない。 右の写真は入り口から少し登った位置から取ったもの。緑の線で囲んだ部分にダリウスの像がある。
まず最初に現れるのが右に示した、少々おかまチックなヘラクレス像だ。これは割合と新しいもののように思えた。というのも、その下にライオンの彫刻があり、その上に寝そべるようにしてヘラクレスといわれる像があるのだが、そのライオン像はかなりおぼろげになりつつあるからだ。明らかに時代的なそして彫刻手法的にも差があるものがある感じだ。詳細なことはわかっていないのだろうか、たいした説明もなかった。(ユネスコの世界遺産登録にあたっての評価書には「The Seleucid figure of Heracles」とあり、セレウコス時代かあるいはそれ以降のものであることが解った。ちなみに、ライオンについての言及は見いだせなかった。)
その次は、5メートル四方はあるだろうか、大きな線刻のもの。これも時代は比較的新しいものだ。さてその碑文の脇から崖道になる。といっても、登山というよりはハイキング程度。数分上れば目的のダリウス大王戦勝記念磨崖浮彫に到着する。
この磨崖彫刻には期待を持っていた。というのも、東京で開催中のペルシャ文明展の関連行事として行われた講演会の中で、講演された大津忠彦(筑紫女学園大学文学部アジア文化学科教授) 先生が言及していた遺跡だからだ。
ケルマンシャー〜ハマダーンの間の街道の要所にあるこの磨崖彫刻は、次に訪れるカンジメーナ同様に古代ペルシャ語、エラム語、アッカド語などが楔文字で併記されており、これらの言語の解読に役立ったらしい。これらはロゼッタストーンと同じような物語がある。右の写真は、その一部を拡大したもの。何語の部分かは不明です。申し訳ない。ご覧のように今でもその線刻をはっきりと読み取ることが出来る。ただし、この時代に道がどう付いていたのかとの疑問も残る。地上高相当のところにある(一番上の写真でミドリの右の黒っぽいところは調査用の階段)のだから、かつての人がいくら目がよかったとしても読めなかったように思う。
一番興味深いのは、そのレリーフの姿だ。中央上部にゾロアスター教の最高神であるアブラマズダー神が描かれている、これはこのレリーフがアブラマズダー神によって祝福を受けているものだということを示している。時代は拝火教全盛期だったというのもわかる(このアブラマズダー神と目されるシンボルについての異説は後で言及する)。
下部左三分の一くらいを立った姿の3人が占めている。一番左がダーラヤワウ一世、つまりはダリウス大王で、残りの二人は従者のようだ。そしてダリウス大王は一人の人物を踏みつけており、ギリシャ人と考えられ、ギリシャとの戦いに勝ったその内容であることが、文字を読めない人々にもわかるように示されている(と思う)。このパターンは受け継がれて、アルデシール2世がローマ人を踏みつけている図に至るのであろう。
また下部の右側の残りの三分の二には首の部分を鎖でつながれた9人の人物が描かれている。これらは、たとえば一番右の人物は背の高い帽子をかぶっており、そこからスキタイ人であることがわかる。他も特徴があり、それが各部族を征服支配したという実態を表現している。
スキタイ人というのはカスピ海のあたりに興った国で金の文化で有名だが、歴史の彼方にどこに消えたのか定かでない国だという。他の8人についても聞こうと思ったが、現地ガイドさんに、それはペルセポリスで説明するとあしらわれてしまった。ものには順番というものがあるというわけだろうか。
ところで、ペルシャ展で解説してもらった先生もおっしゃっておられたのだが、この絶壁の上70メートルにあるレリーフまで鉄の階段が延びているが、これらはかなり前から研究者や保存する作業のためだけのものになってしまっているらしい。これだけの観光資源であるから、少し残念な気がした。もちろん話を聞いていたので、およそ500oの望遠レンズを持参したので、鮮明に写すことができた。また双眼鏡も持って行ったので、ダリウス大王のご尊顔も間近に拝謁することができた。
ちなみにダリウス大王というのは、アケメネス朝ペルシャ帝国第3代の王ダレイオス1世(在位前522〜486)のことだ。
また、この碑文の英訳はこちらにある。
実はである!この記録は現地にいたときと、帰国してからと二回に分けて作成している。今回調べ直す必要があるので、イランの世界遺産について再度あたってみた。その結果、ユネスコのページの2006年7月13日(奇しくも則の誕生日だ)付のニュースでBisotun(ビストゥーン)を世界遺産に加えたと報じている。そこで急遽題名も変更した。ユネスコによる解説ページも既にできあがっている。このBisotunを先にも述べたように大津忠彦教授をはじめとする学者たちがフォーカスしているゆえんがっそこには書かれている。ちなみに、’06歩き方では、わずか5行で紹介している。次年度版の書きようが楽しみだ。
2−7 カンガヴァール 11:00〜11:40
次に訪れたのが、カンガヴァール。パルティア時代(BC248〜AD226)の遺跡。ここはまだ未発掘というか、だいぶその後の人々によって荒らされてしまった遺跡だ。この遺跡の情報は「歩き方」にはない。しかし各種旅行記にはけっこう記述されている遺跡で、英語版WikipediaではKangavarのAnahita寺院として記載されており、その代表的な遺跡であることがわかる。なお、そこからのリンクだが、このページに更に詳細に言及され写真もある。 参考1
階段と数本の柱が立ち並びその面影を残してはいるが、殆ど廃墟と化している。転がっている石にはナンバーが付られているので、調査の手は入っていることがわかる。が、そうした無秩序の中から当時を想像するのも遺跡巡りの面白さだ。
発掘はまだまだというか半ばあきらめの感のある風にも見えるが、この遺跡は、拝火教の水の神であるアナヒ−タを祭ったものとも言われ、ほぼ正方形の形をした200メートル超四方の基壇の上に、100メートルを少し下回る第二の基壇があり、更にその上に祭壇が設けられていたらしい。つまり、三層の構造なのだろう。水の神の祭壇と言うことだから、山から当時既にサイホンの原理を応用し、祭壇上部まで水をくみ上げることに成功していたに違いない。あがめつつ、その水は基壇もしくはその下部での庶民や神官たちの暮らしを支えていたに違いない。往事、ハマダンからバクダットまでは基幹道路だったらしく、40q毎に宮殿が建てられていたともいう。この遺跡の奥にはモスク(それは時代が当然違う・・・つまりこの地がその後の人々に使われ廃墟化が進行したと言うことだ)があり、その近くに列柱が見られる。それがこの回りを覆っていたと言うことだから、発掘が成し遂げられればその壮大な姿がよみがえることだろう。モスク手前には、15世紀頃のものと見られる排水路等もあった。また基壇の正面右側手前部分には、いつのものかは聞きもらしたが(たぶん時代は下っていたと思う)、スチームバスルームの施設跡も見ることが出来た。
2−8 ドゥークとの出会い
しばらく走って峠の茶屋という風の場所で休憩をとった。そこで初めての飲み物「ドゥーク」を味わう。簡単に言えば、飲むヨーグルトのような発酵飲料だ。しかし、インドのラッシーとも違う。かなり酸っぱいらしくさすがの則も音を上げていた。・・・ここのものは特に印象が強烈だった。タマネギかニンニクのようなにおいがし、塩が入っており、やや発酵し、なおかつ酸っぱかった。
このドゥークは、イランのコーラに次ぐ国民飲料。というか、コーラを度外視すれば、チャイとともにまさに国民飲料たる位置を占めるものだ。確かにこの峠の茶屋での一杯の印象は強烈だったが、様々な味のものが存在し、特に牛のマークの付いているブランドのそれは比較的飲み易かった。
こののドゥークはレストランにはいると、もちろん小型のビン入りも出てくるが、時に1.5〜2リットルのペットボトルが、更にはピッチャーに入った自家製のものが出てくる。基本的には冷やして飲む。いや、冷やさないと旨くない。また瓶等に詰められているものは沈殿している場合が多いので、開栓する前によく振る。イラン人は相当大げさに振ってから飲む。ただ、発酵途中のものは、当然ながら吹き上げるので注意が必要だ。
左の写真はこの茶店の写真だが、人の立っているあたりに白いものが何本か置かれているが、こうした形で町でも売られていたりする。ドゥークを一行の幾人かは旅行中好んで飲んでいたが、一般に外国人には好まれない飲料のようだ。現地のガイド氏は、(それ以外の理由もあったが)変わったツアーの一団だと表していた。
2−9 昼食 1325〜1430
いよいよ当地の食事ケバブの始まりだ。野菜と肉と米だけ、しかもその量の多いこと。が、これはまだほんの序章に過ぎなかったのだ。イラン人はいったいどういう食生活なのだろうか。野菜と言うが、それはケバブの付け合わせ程度のものだ。基本的には、マトンをミンチ状にして串刺しにし、それを焼いたものだ。それ自体には大して味が付いていない。これに、大量の塩やこしょう、そしてライムを絞ってかけて食べる。全部この味にしてします感じだ。少なくともレストランに来るような人たちは、男も女もよく食べる。だから結構イラン人、男女を問わず太っている人が多い。米も半端な量を食べるわけではない。どんぶりにして二杯分くらいの皿に盛られた米を平気で平らげる。我が運転手などは、それでも足りずに、我々が残したものをもらいに来るくらいだ。ここでもわかるだろう、食糧難で金正日だけが太っていて国民は飢えに苦しみやせ衰えている北朝鮮とは全く違うのだ。イランに兵糧攻めは効かない。このことは冒頭に書いた。帰りの飛行機で一緒になったイラン人は、イランの女性は太っていて嫌だと漏らしていた。それくらい豊かだ。
そうそう、ケバブに話を戻さなければならない。基本的には、そして一番美味しいと思ったのが羊肉をミンチ状にしたケバブだが(レストランの奥でよくこのミンチにする大きな音を聞くことが出来る)、豚肉以外のものは我々の飽き具合を見ながらいくつか出してくれた。要するに、みな串焼きにしてしまうのがイラン料理なのか?牛肉や鶏肉そしてチョウザメ(キャビアフィッシュとガイドが説明)などが時によって供された。それからタマネギに輪切りがよく出てくる。これをそのままかじる。則は結構いけると思った。
2−10 サンゲ・シール *1 14:40〜14:50
予定にはないけれど行ってみましょう、と立ち寄ったのがここ。サンゲ・シール広場の中央にあるライオン像(?)。そう思ってみなければ絶対にトドだと思ってしまう。
このライオン像は、非常に古く紀元前四世紀頃のものという。歩き方の解説によれば、「アレクサンダーの命により彼の恋人?良き友?の死を悼んで町の門を守る」為に作られたとのことで、守護神のようなものだったのだろう。つまり、元々は2頭で一組だったらしい。このライオンは何でも曰く付きで、後の王(この地を占領した人=Mardavij=)が931年移動しようとしたが重すぎで叶わず、足の一本を壊したとか、誰かが現代になった爆破しようとしたとか、様々だ。このときに1頭派完全に破壊されたらしい。実際胴体は、ボルトで一部固定し、破壊を食い止めている。公園の中心に置かれ、記念碑となっているが、様々な異変を経て延々と2500年も受け継がれ伝えられて今日に至るというのは、驚異と言うべきだろう。
*1:正確にはアケメネス朝とセレウコス朝の間のアレクサンダーが征服した時期。
2−11 コンバデ・アラヴィヤーン 15:00〜15:25
もともとはアラヴィー家の廟。壁面に漆喰の幾何学模様がきれいに残されている。メハラブの前の階段から地下に下りることができ、そこには棺が置かれていた。
外の塀には卍模様がある。これはこれから先何度も目にすることになるが、意味を知るのはもっとずっと後になる。・・・則はしっかりとガイドさんにきいていた。それは後から説明するが、重要なポイントだと言うことだった。
実は、東京で開催されていた「ペルシャ文明展」にも卍型の模様が紀元前1千年のものとして飾られている(右写真。図録より抜粋・・・著作権の問題もあり引用の範囲を超えないよう配慮した)。なぜ卍・・・という疑問はこの頃からあった。つまり、卍はイスラム化前からのイラン伝統の模様であったことが伺われる。ガイド氏の簡単な説明では、この卍が塀にあると言うことは、この廟の「建築様式」がイランの殆どを占めるシーア派のモスク建築の様式ではないことを物語っている。つまりはこの廟に納められている人物はシーア派の人ではなかった。つまり建築様式としても、非シーア派の様式の建物なのだ。その後この廟はモスク化(礼拝所化)されたので、これは建築様式は違うけれども、今ではシーア派の建物(モスク)であるよと言うことを明示せんが為に、塀に卍模様をわざわざ表しているのだと言うことだった。
つまりは、ここではこの卍模様は「イランのモスク」とでも言うような看板なのだ。
2−12 買い物 15:30〜15:45
道々にたくさんの果物が並べて売っているのを見て、欲しいという人がいたので買い物タイム。品数が豊富で店先にはどこでも山盛りの果物が並べられていた。ここでイランの通貨事情がわかった。イランで両替すると、だいたい10ドルで10000イランリアルで9枚来る。概算だが、10000イランリアル札は120〜130円程度となる。したがって、10000円というと日本では最高通過なので、ぞんざいに扱わないが、物価の安い(おおむね1/5〜1/10程度か)であっても10000リアル札はそんなに貴重なものではない。そこで現地の人は面倒なので、一桁外して表現する。つまりワンサウザンドだということになる。これは旅行者にとっては、逆に面倒この上ない。こう知ったのも、実は買い物のやりとりでの他の人のトラブルからだ。
さて我々は買い物はせずに見ているだけ。おやつにと、この場所でスイカが買い求められ、後に明日の洞窟見学後振る舞われることになった。スイカがだいたい2個で10000リアルくらいだったと思う。
2−13 ホテル着 15:50
いろいろオプションも入れて観光をしたが、それでも予定よりもそれでも早めにホテルに着いた感じだ。朝の飛行機があまりにも早かったからだろう。私どもにとっては、有難かった。中には、町へ繰り出した人もいたが、私どもにはその余力はなかった。洗濯にいそしんだ。
さてホテルの部屋は、フロントとは別棟になっているので、長い廊下を通り、中庭を抜けてようやくたどり着く。中庭には、朝顔やタンポポなど日本でお馴染みの花が咲き、また、リンゴも実をつけていた。
2−14 夕食 20:00〜21:30
メニューは昼間とほぼ同じ。野菜とカバブ。果物とお茶。野菜はとにかく量が多い。ナンはすぐに固くなってしまうので食べるのが大変だった。
ナンだが、二種類あったように思う。固くなるのが少し遅いやや厚めのもの、それから薄くて空気に触れるとたちどころに固くなりパリパリと割れてしまうもの。だから、ナンはだいたいポリエチレンのような袋に入れて供されたり、ビュッフェなどでは布がかけられている場合があったりだった。後に則はナンをビュッフェで採るときには皿を二枚重ねにして、っその一方を蓋のように使っていた。
<ホテル>
ブーアリーホテル[BOU ALI HOTEL] 306号室
ラーレ公園の中にある。
・TV・冷蔵庫・クーラー・スリッパ・風呂用サンダル
・石けん・歯ブラシ・シャンプー
・シャワーキャップ・バスタブ