8月18日(金) 快晴 エスファハーン滞在
起床(0500)朝食(0700))出発(0900)金曜モスク(0915〜1100)鳩の家(1118〜1132)アルメニア教会(1148〜1250)昼食(1252〜1405)買い物(1405〜1422)33アーチ(1432〜1434)橋下チャイハネ(1440〜1512)ハージュ橋(1530〜1550)イマーム広場(1602〜1700)ホテル着(1725)夕食(2000〜)
12−1 夜中
午前0時30分頃6時間おきのシロップと、忘れるとまずいので早かったが8時間おきの錠剤を飲む。昨晩は、順さんは都合2回トイレに起きた。緩い状態の改善のみ遅れている感じだが、体温は平熱に戻ったと考えられる。
12−2 朝の決断
午前5時00分頃の測定では、36.3℃で、血圧は106-66であった。やはり血圧はきわめて低い。これは解熱剤の影響だろう。ただ倒れるような数値ではない。終息状態では無けれども悪い方向には向かっていないだろうと判断した。午前5時40分頃トイレ、やはり緩い。
モーニングコールは午前7時05分、昨日と同じように肉声だ。それを聞いて、添乗員氏に返す梅干し等を持って食堂へ行く。順も朝食を食べるというので一緒に行く。食欲が出るほどに回復はしてきたらしい。ツアーメンバーが皆、どうしたと訪ねる。メンバーにも迷惑をかけたことは確かだ。今日行くかどうかは、9時の集合の時点で結論を出すと言うことでよいか確認してから、部屋に戻る。午前8時30分に順に最終的に今日行くかどうか確認をした。
順はそのつもりで用意していると言うことで、最終的に血圧と体温を測り判断する。血圧は111-73、体温は36.7℃であった。少し上がってきた感じもするが、食事をした後なので心配な体温ではないと判断した。それでも念のために、今日は血圧計と体温計は持ち歩くことにする。
左はホテルのロビーにある郵便ポスト。私設のようだ。ここにはがき6通を投函したが、一月たったが、未だ届いていない。あの6通はどこに行ってしまったのだろうか・・・
12−3 出発
午前9時00分に集合してバスに乗り込む。順はまた最後尾を選ぶ。則は最前部が空いていたので、そこに移ると、既に前の席に座っていた人が順と席を替わってくれた。
12−4 金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ) 9:15〜11:00
最初の見学地は金曜モスク。金曜モスクというのは、各街に街に必ずといってもよいくらいにある名前で、ペルシャ語の○○○(すみません聞き逃してかつ確認もしませんでした)が英語のフライデーと混同され、いつの間にか現地の人々も金曜日のモスクで通用するようになって今に至っているらしい。ここは昨日もきたようで、外観については外の人たちは写真を撮るなどしたようだった。何らかの理由で中に入れなかったらしい。理由は聞かなかった。我々には有り難いアクシデントだったということか。
中庭を挟んで東西南北に4つのイーワーン(*1)が向き合うように建てられている。それぞれが見応えのあるものになっている。左は模型だが門やモスクのファサード部分が水色に塗られているので、4つのモスクの位置関係が、ガラスの反射はあるものの、理解できるだろう。4つのモスクは回廊で結ばれている。これはブロークンクロス、すなわち卍型を象徴したものだとガイド氏は言う。
*1 イーワーン及びイランイスラム寺院建築の特徴の解説はこちらを参照されたい。
12−4−1 修復
当地の金曜モスクの歴史は古い。元々はファイヤーテンプルつまりは拝火教寺院のあった場所だったところに、イスラム寺院を建設したようだ。右ではひとつのモスクだが、点線で囲っていた部分に元々の拝火教の寺院があった。何回もの火災を経て、更にはパーレビ時代に行われた意味のよくわからない修復?(せっかくのモザイクを塗り固めて近代的な柱風に見せたらしい)によって、元の形は柱や壁の中に塗り固められているのが実態だ。
チケット売り場がある、南の門から我々は入る。気になったのは、寺の表示。鉄板にペイントで描かれている何のことはないものだが、鉄板の一部が切り取られている。落書きしたらこうはしないだろうし、また何か問題の表示があっても、塗り固めればよいだけの話、あるいは完全に下地を塗り直し再度書けばよいだけの話だろう。
さて、南門を入ると、そこには時代時代に寺の変遷や、修復の後、あるいは古い層の様子などが実物や写真や図で示されている。しかしながら、いかんせん英語表記はないので、現地ガイド氏の解説だけが頼りである
12−4−2 日干し煉瓦のモザイク
外観もそうだが、内部も含めモスク全体を4つの構成するモスクのファサード部分を含む中央の大庭に面している部分およびミナレット以外は概ね日干し煉瓦あるいはそれをカバーしている土色をした壁であって、外観上は他のモスクに比べて質素そのものである。とても外からでは、かような重要なモスクには見えない。これは創建が古いと言うこともあるし、また創建時に国が縮小期にあり財政的な問題も絡んでかようなものになったらしい。しかしながら逆に、日干し煉瓦を組み合わせたモザイクの妙を見ることができる。
天井など、そのモザイク上の組み合わせは、その組み合わせの博覧会のようであり、またその妙で美を競っているようにも見える。煉瓦そのものも大きさを様々組み合わせるというようなことをしている部屋もあった。
またチンギスハンの孫であったオモタイが攻め入りこの地を統治したが、この地にあるときに改宗を行い、その名が刻まれている小モスクもあった(後段に写真がある)。(←この項修正あり。「12−4−6」参照。)
12−4−3 地下の礼拝所(ウインターホール)
更に、一段低い地下になっている部分にも、つまりは巨大な地下室といって良いのだが、そこにも礼拝場所が確保されていた。これは冬の寒いときに礼拝を行うものということで、地上からの灯り取りは、地上に埋められた大理石の基盤部分から、大理石を通過して入ってくる光を取り入れてあった。15世紀にティムールが造らせたものだそうだ。(ティムールは現在のウズベキスタンの英雄。一代でティムール定刻を築き上げた。1380年頃からペルシャを支配下に置いた。)
12−4−4 ほかにも
回廊部分などにもモスク創建時の日干し煉瓦をわざわざあらわにして見せている部分盛り、このモスクが現在は建築史上も重要な位置にあることを示している。
一つのモスクの床のタイルは一部不規則に並んでいるところがあった。もはや通過してきた時代を通じ、それらの古さの違いは素人の目では確認は全く出来ないが、壁面と平行していない部分は、かつて拝火教寺院であった時代の名残であるという。基礎となった拝火教寺院は、このモスクとはおよそ30度ほど傾いてそもそもは建立されていたことがこれによりわかる。先に示した模式図の通りになっている。
これは非常に興味深い点だった。イスラム寺院はメハラブの位置により、言い換えればメッカの方向により、建築方向が規制される。そのために拝火教寺院と同じ方向には建立できなかったのだろう。
12−4−5 シーア派
ここでの自由時間は全体写真などを撮り過ごした。ここでイランイスラム世界、すなわちイランにおけるシーア派のモスクの特徴をいくつかあげておきたいと思う。
12−4−5−1 ミナレット
第一に、ミナレットであるが、これまで訪れた国々で尖塔を見たときに、そこに十字があればキリスト教の教会であり、そこに三日月のマークが掲げられていればそこはイスラム寺院という認識でいた。しかしこの国のミナレットに三日月マークはない。そこにあるのは、トルコなどで見ることができたファティマ(ファーティマ)の手のような、人間の手のひらだ。これはイスラム教シーア派における五大聖人、予言者ムハンマド=モハメット=、初代エマームのアリ、ファティマ、ハッサン、フセインを表している。つまり、尖塔に手のひらが掲げられてあれば、それはシーア派のイスラム寺院であるということを示している。もっとも、手のないミナレットもある。先にも書いたが、ミナレットのないモスクもある。
12−4−5−2 ミハラブ
第二には、モスクには欠かせないミハラブのこと。すなわちメッカの方向を指しているくぼみも言うべき場所。概ねΩ字型に飛び出した部分がメッカの方向を指している。この方向にムスリムたちは礼拝する。またその横には、だいたい説教台が設置されている。ミハラブやその周辺がくぼんでいるのは、もちろんメッカの方角を指し示すという重要な要素もあるが、そこで説教や声高にコーランを唱え、参集者に届かせようとする意図もあるだろう。これは概ねどこも変わらない。上の写真は先に言及したオモタイを記念した小モスク。(←「12−4−6」参照)
しかしながら、シーア派においてはミハラブの形式がこれまで見たモスクとはいささか異なる。先にも書いたがミハラブはメッカの方の壁が少し外側に飛び出している構造であることに変わりはない。しかし我々がこれまで目にしてきたミハラブはそれで説明は終わりだ。しかしイランのミハラブは、外側に出っ張っているだけでなく、ミハラブ部分が人が腰掛けられる程度に掘られている。上の写真もよく見れば和kるのだが、窪地になっている。ミハラブの意味は、現地ガイド氏によれば、水の流れるところというペルシャ語から派生しており、それをアラブも習って作ったものだというのだ。従って、窪地になっているのだとか。皆が従い収束する場所とでも言った意味なのだろうか。ミハラブの意味はしっかり後で調べないといけないかもしれないが(ペルシャ語源というのは確かなようで、元々はミトラ教の祭壇のくぼみが由来らしい)、ともかくこの窪地を伴ったミハラブはイランのモスクを特徴づける一つであることは確かだ。
12−4−5−3 十字と卍(クロスとブロークン・クロス)
第三は、古代からのアーリア系の伝統、つまりはアラブの伝統ではない文化である、4を聖なる数字とあがめる伝統を忘れてはならない。もしくは、+(十字)の世界といっても良い。十字といっても、キリスト教の十字架のようにイエスの張り付けられた下が長い十字架ではなく、文字通り日本語の十か若しくは数学の加算記号+のようなほぼ等しい長さを持つ十字形だ。それは、4つに区分けるものという意味合いがどうやらあるらしい。そして、それと仏教で言うところの輪廻転生のような「時の永久なる繰り返し」を表す円運動の考え方が、ブロークンクロスすなわち卍形を生み出した。卍の形はイランのモスクのタイル芸術のモチーフの一つにもなっており、その形を良く見いだすことが可能だ。
東京都美術館で開催されていた(この記述現在は開催されている)古代ペルシャ展においても、そういえば印象的に卍形の首飾りが展示されていたことを覚えている(それは前1千年紀のイラン北西部で出土した金製品であった・・・イランのオリジナル文様といえよう・・・2−11(8月8日)参照)。
12−4−6 修正
先に、「チンギスハンの孫であったオモタイが攻め入りこの地を統治したが」と書いたが、この現地で聞いた説明は間違いのように思う。というか、我々自身のイランの歴史を全く知らないという無知ぶりを露呈したと言ってもよい。
イランには、13世紀から14世紀にかけてイルハン朝という、モンゴル政権の国が存在した。この国の始祖は「フレグ」という人物で、この人は確かにチンギス・ハーンの孫に当たる。しかし、イルハン朝(始祖フレグの尊称がイルハンなのでこう呼ばれる)がイスラム化したのはこのフレグの頃ではない。7代目ガザン・ハン(Mahmud Ghazan)の時である。8代目がオルジェイトゥ(Oljeitu)で、二人は兄弟。始祖から見るとひ孫。
この二人の時代にイルハン朝は最盛期を迎えた。またこの二人は宗教的には結構節操が無く、そもそもはキリスト教徒であったが後に仏教徒となり、しかる後に確かに「シーア派イスラム教徒」に改宗している。仏教を迫害したことでもっしられているらしい。で、どうも感じからして、オルジェイトゥの事を指しているようだ。始祖がチンギス・ハーンの孫と言うことと、イスラム教に改宗したと言うことをくっつけ合わせた結果なのだろう。このミハラーブの事を横の説明で「oljayto niche」と表現しているので、訳せばたぶん「オルジェイトゥのミハラーブ」と言うことだろう。いずれにせよ、この美術史的な価値を忘れてはならないだろう。
12−5 鳩の家 11:18〜11:32
次に予定にないところだが、不思議な建物があったので立ち寄ってみた。鳩の家だと言うが、こちらでは鳩を食べるようなことはしないのだそうだ。ガイドさんは、平和の象徴をイラン人は食べるほど野蛮ではないとやや怒っていた。糞を肥料にするために飼っていたらしいが、今はそれに代わる物があるので活用はあまりされていないもよう。ただ、きちんと管理人がいて料金(チップ?)を払っていた。
上に上れたのだが、そして則は登ったが、順は大事をとって下で待っていた。上からの景色は良かったが、特に目につくものはなかったので、登る必要性はあまり感じない。
12−6 アルメニア教会 11:48〜12:50
イスラムの国にキリスト教の教会があるのは初めてのことではなかったが、イランという国の状況から考えると信じられないことだったが、目の前の教会はかなり観光客なども訪れていた。信者もいるのだろうが、女性は皆チャドルを着用していたのでその辺りのことは分からなかった。
アルメニアから技術者としてはじめ5,000人位を移住させたそうで、それがどんどん増えて、ドルファー地区を今はアルメニア地区というそうだ。
内部は撮影禁止だった。その内部には周りの壁一杯に旧約聖書からキリストの磔までの絵が描かれているなど普通の教会と全く同じ様子だった。ただ違うのは、アルメニア人で初めてキリスト教に改宗したグレゴリウスという人の苦難の姿が何枚も描かれていたこと。殉教を崇めるシーハ派の考えに共通するものかも知れない。それと顔の周りに羽の付いた奇妙な絵が何枚もあって、その意味は?
その後、付属の博物館へ行った。1914年から15年にかけて起こったトルコのアルメニア人大虐殺の記録も展示されていた。この件に関してイランは謝罪を要求しているとのことだが、トルコはそれに応えていないので、いまだに両国のしこりとして残っている。ただ、イスファハーンは確かトルコのイスタンブールと姉妹都市を結んでいたように思うのだが。
他にも世界一小さい聖書、髪の毛に書かれたローマ字、アルメニアのコインや衣装などの資料が並べられていた。暑かったこともあって、病み上がりの順さんの休養のために、集合時間より少し早めに切り上げて、ベンチで休んだ。
12−7 昼食と買い物 12:52〜14:22
教会から歩いてレストランへ。ここも盛況で歩くのも大変なほどだった。イランの人は外食が多いのか。それも家族であったり友だちであったりと大人数であることが多い。内容的には肉が盛りだくさんの昼食。後で同行の人が言っていたが、イスファハーンでも超有名店だったとのこと。混雑ぶりがうなずけた。
帰り際に店(コンビニとかキオスクとかいった感じのところ)があったので入ってみると結構面白いものがあった。値段も手頃そうなので土産になるものがないかを探していると、先に休憩の店で買ったジュースを凝縮させて丸くしたものがあったのでたくさん買い込んだ。
12−8 33アーチ 14:32〜14:34
ここエスファハーンはたくさんある橋が一つの観光の目玉になっている。というか、イスファハーンの川のようなこんなにたゆとう流れをイランに来てこれまで見てはいない。
この33アーチ、正式には「スィー・オ・セ橋」という名があるが、アーチが33あることからこうも呼ばれている。ここにも前日夜に同行の人たちは来たみたいだ。ここで迷子になった人がいるとかいないとか・・・。でもその会話には加わることが出来なかった。残念と言うよりも、二度来てもらって悪いという気がした。
見た目もとても美しい橋だが、歩いてみると更にきれいだった。夜はライトアップされるので更にきれいなことだろう。ちょっぴり残念だ。橋の端(左の写真の壁の外側)を歩くこともできるのだが、これはちょっと怖い。
12−9 橋下チャイハネ 14:40〜15:12
その後、名物の橋下チャイハネへ行った。橋の下の一画に椅子やテーブルを並べて店を開いている。キッチンもきちんとしていて何と水道も引かれている。食器類はそれで洗われているのを見て一安心。
そこでチャイを飲みながら橋の下で戯れる人たちを見ていると、橋の上からは逆に見られていた。こちらの人は無遠慮に我々を見てはカメラやビデオを向ける。
少し離れたところにはボート乗り場もあった。
12−10 ハージュ橋 15:30〜15:50
ハージュ橋は王宮と市内とを結ぶ橋で、馬で渡ったそうだ。
上下二重の構造になっていて、上の方は王が夏に宴を開いたというテラスが設けられており、装飾もされていた。
下の方は、水量を調節する水門の役割を果たしているが、中央地帯はイランの人々の格好の休養場所となっていてたくさんの人が横になっていた。我々は下の方を歩いて渡った。水辺の階段にもたくさんの人が涼んでいたが、そこから水の中に降りて遊んでいた。金曜日だったこともあって、沢山の家族連れやアベックを見ることが出来た。
12−11 世界遺産:イマーム広場 16:02〜17:00
それからまたイマーム広場へ行った。そこで自由時間となる。時間の余裕があったからだろうが、我々に配慮をしてくれたようにも思えた。そうそう、かつて「エスファハーンは世界の半分」と評されていた。則は、昨日の観光をキャンセルして今日だけの観光となったので、「世界の四部の一観光」と言っていたが、もう少し割合が増えたかもしれない。
ここで全員の記念写真を撮ることになった。我々も記念写真の中に無事の収まる事が叶った。
12−11−1 マスジェデ・エマーム
この広場の周りには見るべき施設がいくつもあるのだ。その中から我々は人に勧められてここにはいることにした。
青いタイルが目にまばゆい限りに輝いているが、まずは入り口のイーワーンの天井がすごい。そこをくぐって中に入ると大きなテントが目に飛び込んできた。何と暑さよけのために設けられているというそのテントのために、全体を見渡すことができない。残念。それでも青で統一された装飾は細やかで素晴らしかった。
中央のドームへ行くと、観光客の一団がある場所を独占していた。ここは屋根が二重構造になっていて音が反響してこだまするというので、それを試してみたかったのだが、なかなか移動してくれない。仕方なく諦めて他に行こうとすると、突然その集団のガイドがアザーン*1(たぶん)を唱えだした。その声がとても大きく響いてきれいに聞こえた。このドームは、他に二重構造を利用し光が透けて差し込むようになっている。初めて見る光景だ。(左上の写真、光束が差し込んでいるのがわかる。)
*1:Quick Time をインストールしてください。・・・環境によってはだいぶ時間がかかって再生されます。ゴメン。
12−11−2 集合
他の人と合流してバスへ戻る。二度目の彼らは、チャイハネに行ったり、絨毯を買いに行ったりとそれぞれ自由な過ごし方をしていたようだ。あいにくと、お目当ての絨毯屋さんは金曜日で休みだったらしい。チャイハネ組はどうやら、美味しいお菓子にありついたらしい。
12−12 ホテル
ホテルへ戻ってから順は少し疲れたので横になった。夕食はどうしますか?と聞かれたが、だんだん調子が戻ってきていたので行くことにした。ホテ ル内の夕食なので何かあっても部屋に戻れると思うので気が楽だ。あるいはここもそう配慮してくれたのかもしれない。
ここでしばし、バスの運転手さんとはお別れだ。かれはこれから深夜にかけてテヘランに向けて走る。深夜か明日になるかもしれないが、久しぶりの我が家だ(歩き方によればバスで6時間)。
12−13 夕食 20:00〜
夕食は11階の回転レストラン。360度の夜景を見ながらグルリと食事ができるようになっている。車のライトだけではなく、ビルやモスクのライトアップされた灯りなどでダイヤモンドとまでは行かないが、それなりにきれいな夜景だった。
今日行ったモスクは?教会は?と聞いたが、あまり良くは分からなかった。
<ホテル>
アセマンホテル[Aseman Hotel] 503号室
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・シャワーのみ・石けん・シャンプー