8月11日(金)快晴 カシャーン・ヤズド
起床(0530)朝食(0700)出発(8002)フィン庭園(0807〜0910)テベ・シアルク(0915〜1000)高速道路(1013〜)料金所・CP(1022)分岐点(1047)ハンジャン村写真撮影(1105〜1110)羊穴通過(1125)トイレタイム(1128〜1140)アブヤーネ村(1145〜1250)昼食・休憩(〜1430)ハンジャン村写真撮影(1447〜1451)高速入る・ヤズドまで363km(1505)料金所(1508)CP(1541)トイレタイム・水購入(1555〜1610)ササン朝砦遠望(1720〜1725)ナイン町散策(1728〜1755)CP(1805)キャラバンサライ通過(1825)夕日(1825)CP(1910)ヤズド着(2005)夕食(2010〜2110)ホテル着(2130)就寝(2330)・・・朝34℃ 走行距離380km
5−1 朝
昨日の夜寝苦しかったのは則だけではないことが朝食の時判明。クーラーが添乗員氏始め皆だめだった様子。添乗員氏は、皆さんから電話がないので私だけかと思ったといっていたと言っていたが、それだけメンバーは臨機応変に対応できる旅慣れた人たちなのだろう。
朝食はヨーロピアンスタイル。でも、パンはおいしい。すぐに堅くなるのでボックスの中に入っている。レストランに現れなかったのは一人。一番の若者、というかダントツの若者。この先例があって、初めてアースウオーカーになれるのだろう。
出発は8時。ところで昨晩からの話題は、ヒースロー空港での爆発事件。我が家はCNNなど見ていないので、よくわからないが、空港は全面閉鎖だし、大変な騒ぎらしい。こちらは、欧米人が寄りつかなくなっているイランをのんびりと旅している。
5−2 フィン庭園 8:07〜9:10
ほぼ定刻に出発。フィン庭園に向かう。といってもホテルからバスで至近。
フィン庭園は、イスラムの世界で縁起のよい数とされている4つの区画に、中央のプールを境に分けられ、最奥部には玉座があり、そこには昨日も見たバードギールによって背面から涼しい風が供給されるようになっている。
さて、このフィン庭園はアッバーズ一世によってその基礎が築かれたものだが、何より有名なのはその中に付属するハマムだ。というのも、この公園、別名「キャビール庭園」ともいわれている。時代が下って、ガージャール朝時代の善政を行い人々から慕われていたアミーレ・キャビールという宰相が暗殺された場所であるからだ。幼少の国王を盛り立てていたのだが、それを疎んだ皇太后が暗殺者を仕向けるた。国王はそれに気づきやめさせようと使者を使わしたが、その使者もとらわれ万事休すで、ハマムの一番高温の部屋に当たる場所で手首を切られ、たぶん出血多量で死に至ったのだろう。ちなみに、このキャビールの伝記をイラン第4代大統領ラフサンジャニが書いている。
ハマムを見て、自由時間となった。我々は根性無しだったので、庭園内にあるチャイハネに直行した。チャイハネには水の流れが店内にもうけられており、園内自体も、たくさんの水路と噴水で冷やされているのではあるが、更に一段と涼しかった。
5−3 テベ・シャルク 9:15〜10:00
次に今日一番に期待していたエラム期の遺跡が残る、テベ・シャルク。元々文明創世記に興味のある私どもは、今回唯一のエラム期の遺跡を、ペルセポリスに寄せるのに劣らぬ大きな期待を寄せていた。実際問題、世界遺産登録がリクエストされている遺跡で、ジグラットとしては現在発見されているもので世界最古ではないかと推定されているものだ。(現在32のジグラットが確認されており、テベ・シャルクは一番最近発見されたジグラット。)
テベ・シャルクはフィン庭園からはそう遠くない距離だった。ここは、いろいろな形容詞がついているが、未だ発掘が今日もなお続いている場所で、今後も発見がなされることが期待されるが、年に2週間しか発掘するチャンスがないということだった。後で現地のガイドさんに通訳しながら聞いてもらったところ、第一には資金の問題、それからこれを発掘しているグループが調査を行っている場所がたくさんあること、そして発掘は高温のために冬期に限定されてしまう、こうした理由だそうだ。それでも2001年4月の西畑義明氏の旅行記の写真よりは数段発掘作業が進んでいることがわかる。ちなみにネット上で現在この写真しか確認できなかった。(英語版Wikipediaの説明ページはこちら)
最初に付属の、博物館に行く。発掘されたものの多くは、たぶんテヘランの博物館に行ってしまっているのだろう、破片があるだけだが、それでも「推定7500年前」というような記載のものがあり、我々の目を輝かさせた。(上の右側の土器片の写真がそれ。推定7500-6250年前と書いてあった。)これらの最古の土器片は、全景写真で言うと左奥の北側に当たる部分で、そのあたりは当時は大きな池か湿地帯があったということだ。つまり、肥沃な台地が往時は広がっていたということになる。左の写真は甕類の写真で、一番右のものは5500年前のものという説明がついていた。
外にも、鏃と思われる石器や装飾品類、そしてシール(印章)なども見ることができた。
さて遺跡へ。遺跡の手前には、そこにあったか定かではないが(たぶん存在していたと思う)、大人と、子供と幼児の遺骨がある。写真のそれは、30-35歳くらいの女の人のもので、地震か何かで死んだらしい。説明では、collapse of the roof(屋根の崩壊)とあった。またオリジナルの朱色が残る壁の一部がある。残念ながらうまく写真が撮れなかった。後で知ったことだが、この時代の日干し煉瓦造りの家は、朱色で塗られていたというような話もある。
それからジグラット(階段ピラミッドのようなもの・・・ただしピラミッドは一説には墓というような説もあるが、これは聖塔・・・神に近づき神と交信する場、とされる。)に登る。有名なバベルの塔の伝説も、実はバビロンにあったジグラットを踏まえているのではないかと推定されている。さてイランのジグラットで有名なのは世界遺産チョガー・ザンビールであるが、残念ながら今回の旅程には入っていない。ちなみにチョガー・ザンビールは発見されている最大のジグラットといわれる。ただし、起源前1200年代のものと推定されているので、こちらのほうが古い。というか、このテベ・シャルクはイランで最古の遺跡とも言われている。世界遺産になる日も近いのではないか。
実際問題、下段部分は5000年前くらいという(右上の写真はその最下層部分)。一番この遺跡で古いのは、前述したように北側の部分の一角(写真左)で、ここが6500〜7500年前と推定されるエリア。この時代は気候ももっと温暖であり、このエリアの前には湖が広がっていたとも説明された。一節には、ジグラットの機能として洪水回避の施設としても機能していたのではないかという考えもある。
我々としてはもっとここにいたかったが、ツアーの宿命である。再び付属のミニ博物館に行っていたら、定刻前だったが皆集合したということで呼び出されてしまった。世界遺産に登録されることを確信して後にした。
5−4 アブヤーネ村 1145〜1250
さてそこからはアブヤーネ村に向かう。今日の目的地のヤズドへ向かう幹線道路を途中で折れて、山道を少し登る。少し行った所にやけに警戒の厳しいところがあって、ガイドの話によると今世界中を騒がせているイラン核処理場の一つだという。決してカメラを向けないようにと注意された。
そこから景色の良いハンジャン村という所を撮影してから、バスはいったんホテル前で停車し、トイレ休憩後村の外で我々を降ろしてくれた。
それはともかく、アブヤーネ村に入る。ここは今もって拝火教の影響が色濃く残るところだ。しかしながら、金曜日であり(先の記述と矛盾するが)、村人はあまり見かけない。店も多くは閉まっている。 ここに特徴の一つは、村人のコスチューム。男性は幅広のズボン、女性は膝下くらいのスカートに華やかな薔薇の花柄模様のスカーフをしている。昔は皆こういう格好をしていたようだが、今は観光用らしい。また、この地区の山の石は赤みを帯びているので、それで造った家々も今までの白っぽい家とは違って赤い。
しばらく町を散策しながら、村の背後の丘に登る。ここも未だ観光客用に道が整備されているわけではないので、けっこう不確かな道が続く。足下に家の広がりが見える。ここの屋根は平だ。頂上には昔の砦の跡があった。そこまで登っていくとナイスビューだ。足下に気をつけて下へ戻り、拝火教の教会に立ち寄った。拝殿まで上がって良いというので則は上がり、順は幼い子どもと遊んでひととき過ごした。
帰りに幅広ズボンの集団がいたが、葬式だというので、さすがにカメラは向けられなかった。これが正装なのだという。
この村で興味を引いたのは、日本の山車のようなものがあったことだ。正確には聞けなかったが、やはり祭りの時に飾って引き歩くもののようだ。それから笑い話が一つある。この村の名物は先の女性のコスチューム写真にあるように、バラの柄の大きめのスカーフだが、これを買い求めた青年が(本人は母親のためと言っていた)後でそれをよく見たら、「メイドインジャパン」と書かれていたそうな。一同、メイドインジャパンと書いておけば売れるからそうしているのだと言っていたが、則は案外日本製だと思った。
5−5 昼食
先ほどトイレ休憩をさせてもらったホテルで食事。食事場所は二階にあった。その室内で食事を済ませた後、階下に降りて、外のチャイハネでしばし休憩。横になれるだけに体が休まる。のんびりした。運転手もこれからの長旅に備えてか、寝ていた。ここから今日のホテルまでは相当かかる。
5−6 長いバスの旅
さて食事の後は走るだけだ。有料道路に出るまで幾分かかり、そこから料金所を経て、ヤズドまで363キロの表示。ウヘェと思った。バスもやはり推定100q超で走る。しかしポリスチェックもあるので、そう時間を稼げるわけではない。それにたまに写真休憩。
その休憩の時に、棍棒が2本あった。イランの男性はこれを使って体を鍛えるらしい。順は1本持ち上げるのがやっとだったが、さすがに則は右手で上げることができたそうだ。イランの男性はというと、それぞれの手に1本ずつ持って振り回していた。ビックリだ。(ちなみに一行でこれにトライしたのは、われわれ夫婦と添乗員のYさんとドライバだけだった。)
5−7 ナインの砦 17:28〜17:55
車は2時間くらい走って、ナインの町に入った。ここで添乗員Y氏から提案。丘の上のササン朝の時代の砦に登らないかと言う。皆そう乗り気ではなかったと思う。則は勘違いしていて、近くのバードギールを見に行くものと思っており、すっかりその気になっていたが、町中を通り、細い登山口について違うことに気がついた。(砦の全景写真の手前の道路沿いにあるのがバードギール。真ん中の半円形の中が貯水槽になっており、ここで冷たい水を確保している。この伝統があればこその、街中のチルド・ウォーターなのかも知れない。)
しかし行ってみればそれなりのことはある。現地ガイド氏のお気に入りの場所らしい。こうした添乗の方法は、この旅行社ならではであり、基本的に物好きな人たちの集まりだから、概ね許されるのだろう。
さらに砦を降りてきたところに、機織工房があった。左のような半地下の家の下は穴倉になっていて、暗い所で男性の機織が布を織っていた。見学に行くと、織った布を持ってきて商売を始めた。同行の何人か値切りながらが買った。
そんなわけで、則は到着はよくて7時半、8時と思っていた方がよいと順に言ったが、更に時計は進むことになるだろう。
5−8 ヤズドへ
ところで、現地ガイド氏に添乗員Y氏が、長いバスの中で時間的に余裕があったのだろう、日本人の印象を聞いてみた。その答えは、「ハードワーカー・日本製品(何でも高い)・着物(黒沢の映画の影響)・ナカタ・キチンキチンとしている(ガイドという職業柄)・杓子定規」といった感じだったらしい。その点、我が添乗員は日本人離れしてイラン風だというような評価をガイドしていた。
夕日が落ち、前にちらちらと大きな町並みが見えてきた。残念ながらヤズドではない。その手前のA・・・?という町だ。程なくまたポリスストップ、本当はとってはいけないと言われながら、強引にバスを降りて遠景を写真に収める
5−9 ヤズド 20:05
20時05分、ようやく目的地ヤズドの町中に入った。 まず食事を宿泊場所とは違う町中のホテルでとる。ビュッフェスタイル。ここに泊まれば良さそうなものをと思うが、これは食事内容の配慮かららしい。実際いろいろの食べ物があったが、みな強行軍のせいか、っ食欲はなかったように思う。
ここでノンアルコールビールを飲んだ。イエメンのときもそうだったが、そう悪い味はしなかったが、それでも清涼飲料水であることに変わりはなく、二度と飲みたいという気にはならなかった。ちなみに1万リアル、ビール代に払った。(後に町のキオスクのようなところで添乗員のYさんが缶ビールもどきを買ったら、2万リアル以上していた。輸入品だったせいもあるが、偽ビールは異常に高い。)
食事が終わると更に走ってようやく宿泊場所のホテルに到着。ここはコテージ風になっており、我々は三軒長屋の一軒だった。ともかくも旅装を解き、風呂に入り、荷物整理をして寝る。もう時計は23時30分を指していた。
<ホテル>
サファイア ホテル[Safaieh Hotel] ★★★★
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