8月20日(日)快晴 テヘラン
起床(0600)朝食(0700)出発(0800)ニヤバラン庭園(0834〜1000)考古学博物館(1050〜1250)昼食(1255〜1400)米大使館前(1414)絨毯博物館(1435〜1600)空港着(1640)搭乗(1855)<IR−800>
14−1 朝
いよいよ帰国の日である。5時に目覚ましで目を覚ます。うつらうつらしていたが、未だ5時にはだいぶ早いと思っていた。道路の音がやけにするなぁと思っていたが、やはり時間は時間だったらしい。まず健康チェック。相変わらず則の血圧が異常に高い。順も上がってきたが、今日までは降圧剤は飲まないようにした。荷物は昨日のうちに整理していたが、整理しすぎて一つの方に入れすぎで、一つの方が空きすぎて結局また一からやり直した。そうこうしているうちに7時になったので、朝食に行く。
朝食はアメリカンスタイルなので食べやすい。この頃になると順の食欲も戻ってきていた。テーブルにも沢山並んだ。
14−2 ニヤバラン庭園 8:34〜10:00
昨日行く予定だったゴレスタン宮殿に代わって急遽行くことになった所だ。昨日ダメでも今日は大丈夫ではないの?と思いながらその辺の情報がなかったので、また誰も聞こうともしなかったこともあってそのまま行くことになった。が、思ったより遠くて、また車のラッシュということもあって、到着までに30分もかかった。
が、まだ開館前ということで建物の中に入ることはできなかった。しばらく庭園を散歩して時を待った。水と緑の豊かな庭園だった。
王族が夏を過ごした離宮だそうで、ここにはいくつかの宮殿(建物)がある。いずれも王朝の遺品が展示されている。イラン最後の王(パーレビ)の若いときの写真もあったが、今でいうイケメン。なかなかカッコいい。
当然ながら贅沢品の羅列だ。列強からの贈り物もたくさんあった。中でも半地下室になっている部屋は、夏涼しくするために工夫されたもので、客の接待などもここでしたそうで、調度品は当然のことながら立派だった。(右はパーレビが少年時代を過ごした部屋。玩具や少年時代に描いた絵などが保存されている。こうもきちんと残っていると、王政復興を待ち望んでいる人がいるというのもどこか真実みを帯びてくる。)
14−3 考古学博物館 10:50〜12:50
帰りの道も混んだ。とにかくここテヘランの道路状態はすこぶる良くない。車が溢れているばかりでなく、それらが交通ルールなどないも同然の運転をしているので怖いことこの上ない。それでも、我々の運転手はそのテクニックでスイスイと脇道を抜けて目的の地に着くができた。
考古学博物館、博物館好きの我々にとってはもっと早く来たかった所だ。
イラン全土から集めた紀元前6000年前から19世紀までの考古学的・歴史的美術品を集めたイラン最大の博物館。建物は本館と別館に分かれている(歩き方による)。が、残念ながら別館は工事中ということで閉鎖されていた。
入ってすぐにイランの成り立ちなどの説明が延々とあったが、その辺のことは既に調べて頭に入っているので、早く中を自由に見たいと思った。が、やはり実物を前に説明を聞くと理解の助けになるので、結局はガイド氏と共に中を歩いて見て回った。
まずは大きな壺に驚かされる。逆にエラム期の印章はとても小さい。こちらは精巧な作りに驚かされる。
ガラスケースの中には時代毎にまとめられて小型の壺や動物像などが収められている。その中にこぶ牛を見つけたときは何となく懐かしさを覚えた。ペルシャ展で印象に残っていたからだ。
世界遺産の一つ、チョガーザンビルから持ってきた門と窓というのもあった。ガラス窓としては世界最古のものだそうだ。ガラスを伸ばす技術がなかったので、円筒形のものを枠で囲ってある。それでも十分に明かり取りにはなったらしい。
ハムラビ法典もあったが、これはコピー。本物はルーブル美術館にあるそうで、返して欲しいと要求しているとのこと。でも、昨日の中央銀行宝物館にはインドから戦利品として持ち帰ったものもあるのだから、全部元の国に返せということになれば、世界中ひっくり返したような騒ぎになるだろう。(だいたいハムラビ法典も元々はペルシャもイラクからぶんどってきたものだったはずだ。)
更に先へ進むと、ペルセポリスのアパダーナ(謁見の間)にあった「ダレイオス1世の謁見図」がある。椅子に座ってるダレイオス1世とその後ろに立つクセルクセス1世などがくっきりと残されている。これはオリジナルだそうだ。顔もしっかりと残っていて、どうやらムスリムの攻撃からはうまく逃れたようだ。
そのダレイオス1世の像ではないかと思われる首のない立像がある。それにはエジプトの影響なのかヒエログラフが書かれていた。
続いて百柱の間にあった「牡牛の柱頭」「階段のレリーフ」なども保存状態が良くしばらく目を奪われた。
これらペルセポリス関係のレリーフは絶対に見逃してはならないものだろう。
それから先へ行くと、青い色の壺があった。この色はラピズラズリ(瑠璃色)というとても貴重なものなのだそうだ。
ササン朝のブースへ行くと都市遺跡ビシャブールのモザイク画が何点か並んでいた。シャプール1世がローマの捕虜に造らせたものだと説明をしていたが、確かにそのような感じがした。
ようやく1周して自由時間になった。が、これだけ?という感じがした。最大の博物館にしては資料が極端に少ない感じがしたからだ。1階部分だけで、それもそう広いとは言えない建物の中だ。ガイド氏から自由時間をもっと上げましょうかと聞かれたが、皆そう長く要求しなかったのはそのせいだ。正直ガッカリだった。
また、ガイドブックもインドの国立博物館同様無かった。正確にはちょこっとだけペルシャ語の中に英語があるミニブックがあっただけだ。ガイドブックを買うぞ!と思っていた我々は大いにガッカリだ。(でもこのことはある程度予測していた)
14−4 米大使館前
昼食の後、元アメリカ大使館の前を通過した。というよりわざわざその道を選んで走ったのだ。
絶対に写真はダメと歩き方には書いてあったが、カーテンを閉めた窓から写真を写した。木々の間から見えるその建物は荒廃していなかった。
いまだにそのまま残しておくのは何故だろう。則は、持ち主がまだアメリカなのだろうと言っていたが。
14−5 絨毯博物館 14:35〜16:00
最後の最後の見学は絨毯博物館。我々には縁のない絨毯だが、目の保養にはなる。確かにすごい。これも前の王の妻の一人が集めたものを展示しているのだそうだ。
最後の王朝は確かにすごい財力を持っていたようだ。だからこそ革命が起こったのだろう。それでも、そのパーレビ王朝を懐かしむ風潮が最近出てきたというのだから、これから政治はどう動くのか・・・。
ま、それに関係なく、革命で王朝を倒したといっても、その時代の王宮や財宝などを奪い合ったり処分したりすることなくこうしてきちんと管理しているのは、イラン人の文化に対する見識の高さを伺い知ることができるというものだろうか。
やはり歴史が古い国というだけのことはある。文化文明に対する理解度があるのだろう。
14−6 空港へ
さて、いよいよ帰国の途を辿ることになる。1日目から目にしたアーザーディタワーも見納めだ。1971年にペルシャ建国2500年を記念して建てられたこのタワーは、客を歓迎する意味を持つそうだ。今は見送りをしてくれている。
空港では例によって男女別に検査を受けて中に入る。ところが、2回目のチェックポイントは入り口は男女別なのにその後は一緒になっているので、2列が1列になるという変な方式を採っていた。
そうやって中に入ったのに、もう一度外に出て軽食を摂るためにレストランへ行った。これは現地会社に添乗員氏が強く申し入れて実現したらしい。こういう点はなかなかやる添乗員氏だ。
それから再び搭乗口へ行く。ここも待合室へ入るには男女別々の入り口を通る。今回はなかなか厳しくて殆どの人がピーとエックス検査に引っかかっていた。順は2番目でスムーズにいったのだが、男性の方がそのような人が多かったせいか大分則を待たなければならなかった。
いよいよ搭乗開始となったときに問題が。チケットではなく搭乗券がないと中に入れないという。我々はそれを持っていないと話したが頑固に入れてもらえなかった。添乗員氏を待って、その添乗員氏が団体だと説明してもダメで、しばらく待たされてようやく許可が降りた。いったいどういう事なのだろう。そういえばいつも記念にと渡される搭乗券の控えが今回はもらえなかった。その辺りに問題があったのかも知れない。
また、2人の席がバラバラだった。こういうことも初めてだったが、これに関して添乗員氏は何とかしようという気は全くなかった。というか、団体で交互にかえればよい位に思っていたらしい。で、仕方なく、乗り込んでから近くの乗客(外国人)に交渉してどうにか並び席を確保した。3人席のもう一席はイランの人で、一時帰郷して日本に戻る?という人で、日本びいきで助かった。彼は、食事の時も日本茶をリクエストするほどだった。機体はインチョンへ向かって無事に飛び続けた。