ペルセポリスのペルシャへ
(あれほどいた)イラン人の母国現代のイランへ



★私どもの日常は、日本のインドとも言われている町とともにあることは、インド旅行記の中で冒頭に述べている。インドはアリーア人の国だ。そしてアーリア人が中心になっている今ひとつの国はイランだ。イランという国名自体、「アーリア人の国」という意味なのだそうだ。そしてこの国の人たちは、我が町をはじめ特に私どもが何かをしに行く町新宿に、日本経済や国際情勢の変化の波に飲み込まれるほんの何年か前までは、沢山目にすることが出来た。彼らは祖国に戻って、元気にしているのだろうか。その国へ、今回は旅に出た。

★イランのこの時期(2006年8月)は実は微妙な時期でもあった。米国をはじめとする国々の、イランの核開発への圧力は、我々の訪れた月末を期限にして、その停止を強く要求していた。したがって、もう慣れっこになっている職場の人たちを除けば、管理職など自分の立場をも含めてであろうが、大丈夫なのかという声をあまた出発時には聞いた。実際問題、私どもの旅行中にも、ヒズボラとイスラエルの戦闘は激化していたし、ロンドン・ヒースロー空港の爆破未遂事件も起きており、世の中が平和だったわけではない。しかし則などは、やる方に行くのだから安全だなどという訳のわからない論理で、たいした考えもなく機上の人となった。機内はほぼ埋まっていたが、なるほど脳天気なツアー客などは我々以外にはいなかった感じだ。

★さて、なぜこの時期を選んで、わざわざ行かなければならないのか。その必然性はどこにあるのか。そもそもペルシャへの旅は、究極を言えば中東の3Pという言葉に誘惑されてであると言える。中東の3Pとは、シリアのパルミラ、ヨルダンのペトラ、イランのペルセポリスを言う。ペルセポリスを是非に見たかった。見て中東の3Pを完成させたかった。ただ、それだけではない、ペルシャは古代より引き続き延々とそこに人が変わることなく住み着いている地域の一つでもあるからだ。我々はペルセポリス以前の歴史にも興味があった。だから、今なのだ。イラクはおそらくは、私どもが生きているうちには、その地を踏むことは出来ないだろう。この期を逃すと永遠に機会が失われかねないという危惧が正直のところあって、イランへの旅に強く駆り立てた。
★さて今回選んだのは、S旅行社。個人旅行にしようとE社に見積もり依頼したらえらく高かったので、こちらに切り替えた。前にエジプトに言ったときに利用したところで、そのときの経験から安心感はあった。特にクレーム等の対応力は抜群と思っていた。このことは、結果的に今回の旅行では非常に助かることとなった。

★さてイランへの旅で最初に思いを強くしたのは、イランへの国際的圧力ということについてだ。イランに兵糧攻めは効かない。イランは砂漠もあるが、豊かな土地もあるし、灌漑設備も紀元前から続くシステムが今なお生きており、そうした幾星霜を経たものが整っている。イラクだって持ちこたえたくらいの効果しかない経済封鎖は(それ故の侵攻であったろう)、中東の穀倉地帯と言われる(この国に行って知った)イランには無意味とも思える。悪の枢軸という言葉で、北朝鮮などとひとくくりで考えられがちだが、それは全く違う。断じて違う。イランは「ふつう」の国だった。外国人にさえ強要する女性のマフラー&腰の線を見せないコートの着用はある意味異常と思うが、そうした例外はいくつでも他国でもあるだろう。子供に席をまず座らせる親や、平気でシルバーシートを占領する若者のいる日本だって異常と言えば他国の人が見れば異常だろう。もちろん困窮している人もいるだろうが、総じて言えば、ふつうの国程度豊かな国だ。町を歩く子供に裸足などいない。物乞いなど殆ど見なかった。更に言えば、たとえばモータリゼーションの発達は、日本をある意味しのぐものがある。

★イランの旅で一番の印象に残っている「物」は、これまで世界のいくつかの国を見て回ってきたが、それらの国々になくて、もちろん日本でもほとんど無くて(学校にはよくある)イランにあるものだ。これまでにあまり旅行記などで言及されているのを見たことがないが、私どもはこの「物」にえらく関心を寄せたし、強く印象に残った。それは何か・・・。私どもは、町のあちこちで、チルド・ウオーターを飲める施設を用意しているのを目にした。バザールなどでは一度に何人もの人が飲めるようないくつかの蛇口の付いたものもあった。これは、水道の衛生管理がきちんとしていることを前提にしなければ出来ない施設だ。でなければ、あっという間に伝染病が蔓延するであろう。これほどまでに水が豊かな国だと言うことは、イランに来て初めて知った。それからチルド・ウオーター・システムよりも数にしては圧倒的に多かったのが、喜捨箱。町の至る所にあった。しかしこれは果たして使われているのか怪しかった。
★今ひとつ意外だったのは、宗教が必ずしも人々を掌握していないという実態だ。ガイド氏など、「宗教はそれぞれの人間の心の問題」とまで言い切っていた。多くのモスクが建設中だったが、それらの完成は予定が立たないものばかりだという。アザーンの声も殆ど聞かなかった。各地に金曜モスクと称する、中心的なモスクがあるのだが、金曜日にそこを訪れる人の数は少なかった。私どもが出発前に考えていた「現代イラン=宗教立国(ホメイニ氏の国)」という姿とは大きくかけ離れていた。もちろん、外国人にだから気を許していったのだろうが、ガイド氏が言った言葉が印象に残る。「この国で危ないのはトラフィックとムッラーだ」。確かに道路を横断するのは、ベトナムに次いで難しかった。そして、「ムッラー」とは何か。それは宗教指導者だ。列強の軋轢が無くなれば、この国は自然に近代化の道を歩み始めるのではないのか。
★今回の旅行記には特徴がある。それは、読者には悪いが、結構しつこく書いていると言うことだ。これには訳がある。第一は、アルコールのせいだ。イランは厳格なイスラム教国でアルコールは観光客を含めて御法度だ。夜の時間がすることもなく、長いときがあった。これは日記を書くのに好都合であった。第二に、バスでの移動が長かったためだ。実は今回の旅行直前にノートパソコンを買い換えたのだが、そのおかげでノートパソコンの駆動時間が大幅に伸びた。だから、移動時間を利用して、退屈な土漠の疾走中などに書きためることが出来た。第三に、「地球の歩き方」などを含めて、日本語の資料が乏しかったため。勢い、海外のページに頼らざるを得なかった。特に英語版のWikipediaには大助かりだった。ほとんど資料の無いページはなかった。こうした資料を、旅行記の中に残しておこうと考えた。たぶん、これからイランへ旅する人たちの手助けになるだろうと思ったからだ。以上が、この冗長なイラン旅行記になった弁解の言葉だ。それなりに面白くは書いたつもりだが、やはり退屈感は否めないだろう。
★最後に今回の旅行では、ある事件が起きたことを書いておかなければならないだろう。それは、旅行中に順が病に伏せった日があったことだ。則はこれまでに何度も、旅行中に体調を崩すことがあった。例外なく、興味本位に現地の食べ物を食べたことによるものだ。順はしかしながら慎重派であるから、そうしたことはこれまで皆無だった。そして、海外旅行で初めて、現地の医者にかかることになった。医者の見立てはあっけないものだったが、その処方は的確だった。丸一日高熱で苦しんでいた順が、わずか一晩で回復した。直ってみればよい経験といえないこともないが、つらい経験だった。