8月15日(火)快晴 曇り 小雨あり シラーズ滞在
起床(0530)朝食(0600)出発(0803)CP(0817)ペルセポリス(0900〜1200)昼食(1230〜1350)ナクシェ・ラジャブ(1355〜1413)ナクシェ・ロスタム(1418〜1507)拝火塔・ゾロアスター教墓穴車窓より(1507〜)北門(コーラン門)通過(1604)エマームザーディェ・アリー・エブネ・ハムゼ(1610〜1628)ハーフェズ廟(1633〜1650)市内散策(1700〜1842)ホテル着(1846)夕食(2000〜2135)就寝(2230)
9−1 朝
朝はいつものように早い。昼食も早いのであまり無駄な時間はない。朝食を済ませ出発の準備。
今回の旅の究極の目的はペルセポリスに行くことにあった。冒頭(表紙のページ)にも書いたが、我々はマグレブ3ヶ国のうち、チュニジアとモロッコは訪れた。後はアルジェリアに行くだけだ。同じように、ヨルダンのペトラとシリアのパルミナは既に訪問している。中東の3Pと呼ばれる遺跡のうち残すはイランのペルセポリスだけだった。アルジェリアのようにいつかは訪れたいと思っていた地だ。そしてそれは今日実現する!
昨日のロングドライブを別として、いつもの時間である8時に出発する。
9−2 世界遺産:ペルセポリス 9:00〜12:00
ペルセポリスまではシラーズの市街地から57qの距離にある。およそ一時間の道のりだ。バスは順調に走って9時過ぎには到着した。
ペルセポリスはアケメネス朝ペルシア帝国の都(「新春祝祭都市」とでもここでは一応書いておきたい)で、この王朝は西はエジプト、東はインドまで勢力を拡大した。BC512年頃から造られ、アレクサンダー大王によって滅ぼされるまで存在した宮殿だ。ところで、イタリアナポリの考古学博物館にはダレイオスVとアレクサンダーの戦いを描いたモザイク画がある・・・そのダレイオスVの部分が右写真
バスが近づくと何本もの石柱が遠望できた。この遺跡は、他の遺跡と大きく違う点があるという。それは、この地が厳密には政治の道具ではあっただろうが、「政治を司る地ではなかった」ことだとガイド氏は解説してくれた。新春祝祭挙行のための式典会場というような性格を持つものだと言うわけ。したがって、ここにはハーレムはあっても、大極殿のような政策決定機関のための施設あるいは王の政策伝達機関のための施設のようなものはない。そればかりか、神社仏閣のたぐいもないという。純粋に新春(イラン歴正月=春分の日=)を祝祭するためだけの施設だったようだ。・・・この説には反論もある。たとえば、日本語版ウィキペディア2006.08現在の記事では、『エラム語の行政文書は、少なくても紀元前509年から紀元前457年までの物が発見されている』とあり、政治に無関係ではなかったというわけ。しかしながら、政治的中心ではなかったことは否めない事実のようだ。・・・逆に言えば、「新春祝祭を理由に貢ぎ物を渡しダレイオスに拝謁すること」そのものが治世の重要な一部であったのではないのか。
新春祝祭挙行のため帝国の様々な地方からおびただしい人が祝賀の詞を伝えに集まったのだろう。後に述べる大階段のレリーフはそのことも物語っている。とはいえ、エジブトからインドの西端までを手中にした世界最初の帝国においては、日本の参勤交代とは比べものにならないほどの苦労があっただろうと思われる。毎年行われたのかどうかは定かではないが、たぶん春分は毎年やってくるのだから毎年行われたのであろう。前年の使者が帰国すると同時に、また次の年の使者を仕立てる計画に取りかからざるを得なかっただろう。
さてこの新春祝祭用常設建造物とも言うべきペルセポリス主要施設は、基壇の上にある。基壇といっても壮大なエリアの中の基壇であり、もはやそれは台形上の盛り上がった大地と同意語とも言うべきものだ。
ペルセポリスの理解のためには、遺跡全体が俯瞰できた方がよい。その写真はこちらから得ることが可能だ。Wipipedia英語版からの引用であるが、著作権上の問題は表示により回避されているようなので、直接利用している。上記リンクはペルセポリスに飛ぶ。右下方向が「東」になる。
模式的な図は下記の通り。
9−2−1 正面階段から入る
入り口を入るとまずは段差の小さい階段がある@。馬でも上れるようにそうしたらしいが、人にとっては上りづらい。この階段、歩き方には「一つの岩から5段分の階段を切り出し削ったもの」と書かれているが、現地ガイドは6段分と説明した。ユネスコサイトのNHKビデオを見ると5段分のように見える。またこのゆっくりとした作りは、為政者が年寄りが多かったからと現地ガイドは冗談ともとれる発言をしていたが、確かに馬を通すためであったというのは理由の一つと思うが、全体を考えた調和とか荘厳さを演出するというような心理的な効果をもねらっていたのではないかと思う。この階段は保護のために木で覆われている。観光客はそこを歩く。この階段は「く」の字状になり、左右で一対を成す。ひとつのステップは幅が31pで高さが10センチ、幅6.9メートル。写真は一対の左側の階段で、イラン女性の一団が見学に来ていたのだが、何人かが振り返っているのがわかるだろう。彼らは我々を物珍しそうに見ているわけ。この階段の形式は、過日(8月8日記載)見たカンガヴァールのアナヒータ神殿と同様。
そこを上りきると、クセルクセス門(万国の門)Aに着く。クセルクセスの門の往事の姿などは、先のNHKビデオで再現している。入って行く方の門柱はかなり破壊が進んでいるが、振り返ってみると人面有翼獣神像のレリーフが形が分かる程度に残されている。ただし、顔はムスリムに壊されてしまっていた。これは先に東京で開かれた「ペルシャ展」にレプリカが置かれていたので懐かしさを感じ嬉しくなった。
その先は、兵士の通路B。少し窪みのあるところに兵士が武器を構えて立っていたのだそうだ(写真参照)。その通路に、イラン航空のシンボルになっている双頭鷲像Cが2つほど見られた。うまくできなかったものは、宮殿の中には飾られずこういうところに置かれたのだそうだ。それが今こうして多数の目に触れ残っているのは皮肉な結果だ。運命というのはわからないものだ。則は美学として最後に花咲くというのが好きだからこうした感情を抱くのかもしれない。
9−2−2 百柱の間
沢山の未完の彫刻が残る未完成の門Dを抜けて、百柱の間Eへ行く。未完成の門付近は、色々興味深いものが残っている。未完であるから、残存物は制作過程がよくわかる、貴重な考古学資料だ。継ぎ目の部分には楔が打たれていたり、円柱とその台座の間には窪みがあり、そこにはかつて鉛が詰まっていたり(これはうまく合わせるという意味と耐震の意味がある)、巨石を運搬するためのあるいは柱として持ち上げるための、引っかけるための彫刻を残した部分など興味を引かれた。写真はその一例。ここにロープを引っかけて横倒しの柱を持ち上げたのだという説明だった。
さて百柱の間は文字通り10×10の100本の柱が立ち並んでいたというが、今はその雰囲気を感じ取らせる程度に柱の一部が残っているだけだ。これがたとえ屋根はなくとも、林立して残されていればさぞ見応えのあるものだろうにと残念な思いだ。もっともそれだからこそ遺跡を味わう楽しさがあるとも言えるが。
また、いくつかある門の壁には属国の民族の姿が数段にわたって刻まれ、その上の玉座に君臨するペルシア王、さらに王の頭上にはゾロアスター教の最高神であるアフラ・マズダ神がいる。右の写真で、下から四分の一くらいまでとその上部が色が違うが、ここまで埋まっていたと言うことになる。また各浮き彫り像の多くは残念ながら偶像崇拝を嫌うアラブ人(ガイド氏はイラン人はこんな事はしないと言いたげだった)によって破壊されている。
9−2−3 中央宮殿
アパダーナの東門へ行く前に、中央宮殿Fの門がある。そこには牡牛に襲いかかるライオンや兵士のレリーフがある。この兵士の表情が穏やかなのは王から離れたところにいるため気を抜いているからだというほんとかどうか疑わしい説明が皆を笑わせた。確かに緊張感はない感じのレリーフだ。
階段の手すりの上にある山型のようなものは、上から順に、日、空、水、土を表し、中央の門が天国への門を表しているのだそうだ。
中央宮殿そのもはあまり記憶にない。
ちなみに左のものは、カバーされている屋根を試みに取り払った想像図(フォトショップで加工したもの・・・則制作)。保存のために致し方ないとは思えど、絶対この方が風情がある。
9−2−4 アパダーナ(謁見の間)
さて、見たかったペルセポリス、その中でも一番見たかったのは東階段Gに残されているたくさんのレリーフ。兵士や高官、属国から献上の品を運んできた使者などが細かく表現されている。着ているものだけではなく髪型にまでそれは及んでいる。それを見て、どこの国の使者か分かるそうだ。
なるほど説明を聞いてみてみると確かに、髪型も、衣装も、貢ぎ物もそれぞれが特徴を持って表されている。素晴らしいレリーフ群だ。
ただ惜しむらくは、ここも保護のために、大きな覆いがつけられていることだ。陰影のないレリーフは写真にはあまりくっきりとは映し出せなかった。
それから階段を上り謁見の間Hへ行く。高い柱が何本か立っていた(残っていた)。高さは20mもある。これが遠くから見えていた柱だ。本来は36本あったそうだが、今でも12本ほど残っている。歩き方では36本だが、英語版Wikipediaでは72本となっている。感じとしては72本か。これらは構成建築材として使われてしまったらしい。この上にレバノン杉の屋根が付いていたというのだからすごい広さだ。
9−2−5 博物館
ダレイオス1世の宮殿(冬の宮殿)は鍵かかけられているというので入れず、素通りしハーレムなどを見ながら博物館Iへ行く。
ここには発掘された壺やライオンと闘う王のレリーフ(レプリカ)などがあった。左は、土管である。水道システムが整っていたことを示している。これが紀元前の話なのだから、我が歴史は恥ずかしくなるくらいに短い。
この博物館は(そんなに解るわけではないが)英語の説明が名称程度で、ほとんど無いので、あまりりよく解らないことが多かった。撮影は、ノンフラッシュならOK。博物館の写真は、スペースの関係で9−2−7の部分にも載せた。
9−2−6 アルタクセルクセス2世王墓
そのあと自由時間になったので、アルタクセルクセス2世王墓Jまで登った。これはペルセポリスの背面の山の中腹に作られたものだが、登った理由は正確には墓を見るためというよりも、そこまで行くと全体が見渡せるからだ。
確かに素晴らしい景観だった。全体の位置確認をしながら、再度「歩き方」に目を通し、今歩いてきた道を確かめた。遺跡の中に立ってしまうとその偉容さを実感しにくいが、こうして丘の上に登ってみると、改めて感動がわいてきた。
見渡すと、もはや列柱の多くが失われている今、高さはそう感じられないが、代わりに広さを感じる遺跡だった。
なおアルタクセルクセス2世王墓は、初めて目にする十字型の墓だった(但しこの場合は十字の下がカットされた形)。
9−2−7 出口へ
その後、またアパダーナの東階段を見に行き、グルリと回るようにして北側の階段まで行き、そこからクセルクセス門へ行った。このときには一人も観光客がいなかったので、ゆったりと写真を撮った。
この頃になるとアザーンのような大音響が聞こえてきた(こんな大音量のアザーンを聞くのはこの国に来て初めてだった・・・だからといってお祈りをはじめる人は皆無だった)。するとぞろぞろと人々が出口へ向かい始めた。昼休みなのだろうか?と思いながら出口を出ると、例によって水飲み場があったのでそこでバンダナを濡らしちょっと一息を入れた。すると、そこから帰りかけた家族が、一緒に写真を撮ってくれというので、モデルを相務めた。今回の旅ではこのようにモデルを頼まれることが非常に多かった。よほど外国人が物珍しいらしい。右の奥に写っている家族が、写真を撮ってあげた家族。
行きがけに覗いた本を買おうか買うまいか迷いながらまた本屋へ行った。
最終的に100US$と言うこととDVDがPALだったので変換が手間なのもあって、購入しなかった。そのDVD+BOOKの本には、在りし日の様子がパノラマになって表されている。この巨額な値段は不当と思うが、50US$だったら買っていただろう。そのくらいに、ここペルセポリスでも想像をかき立てないと、在りし日の姿は再現できない。
代わりに20ドルで本を買った。ただ、不思議なことに、ドルは使えるのに、店の人は殆ど英語を解さなかった。
後日、このページを作成する過程で、ペルセポリスの往事の姿を見せてくれるページを見つけた。NHKのも興味深いが、こちらは勝とも劣らない。
9−3 昼食
レストランは中央にあるプールを囲むように木陰やテントにテーブルが並べられている。我々は木陰の方。日ざしを遮るだけでかなりホッとする。食事の内容はいつもの通り。そろそろ飽きてきた向きもあるが、郷に入っては郷に従え。でも、汁状のものが出て、則にとっては結構行ける食事だった。
その後、ベドウィンのテントのようなチャイハネでチャイタイム。かなりの盛況で、外国人観光客の団体が、我々の外に2組いた。さすがに一大観光地だけのことはある。食器にも、ペルセポリスの兵士のレリーフを模した模様が施されていた。
9−4 ナクシェ・ラジャブ 13:55〜14:13
一休みした後、バスに乗って、と思ったらすぐに下車。これなら歩いてきても、という距離のところにこれはあった。大きな岩3カ所ほどにレリーフが残されている。ササン朝の王やアフラ・マズダー(Ahura Mazd?)そこに見られるが、アブラマスターが人の形として初めて表されるようになった頃の物だそうだ。
正面のレリーフがササン朝を開いた初代の王アルデシール1世(在位226〜241年)の叙任図。神と王が対峙しその後ろに神官と武官(ヘラクレスを模しているらしい)が付き従っている。相対している二人のうちの左がササン朝初代王のアルダシール1世で、右がアフラ・マズダー神。二人の間にいるうちの一人は、皇太子(prince)である孫だそうだ。あまりよく見ることが出来ないかもしれないが、神の後ろにいるのは女王とその従者で、神権(その象徴のリング)を授けられたのを身をもって祝福しているのだそうだ。その左にある顔はこのレリーフの15年後に創られたものだそうで、死刑者を決定するなどの力を持っていた者だとの説明がなされた。
左側はそのシャープール1世の行進図。シャープール1世は、ササン朝の基盤を作った王とのことで、兵士を従えての行進となっている。ただこの頃になるとあまりの暑さに説明もいい加減に聞くようになってきていたので、あまり詳しい内容は記憶に残っていない。人物それにしてもこんなに大きな岩にこれだけの物をよくぞ彫り上げたものだと思うが、それだけ権力顕示欲が強いということか。
右側のレリーフはササン朝2代目の王、シャープール1世(在位241〜272年)の叙任図。やはり神からリングを受け取っている。神の頭には、ペルセポリスで見た山型の印(日、空、水、土を表しているというアレ)になっている。顔の部分だけ、写真左上に拡大した。何とか、階段状に冠がなっているのが解るかと思う。
また、左側に添乗員のYさんを入れたので、だいたいの大きさが想像できると思う。
9−5 ナクシェ・ロスタム 14:18〜15:07
ここはアケメネス朝の王の墓が4つほど造られている所だ。
いずれも十字の形に大きく掘られている。十字の中ほどには入り口のような物があり左右に柱があって宮殿のような感じになっている。その上の方には王を担いでいる大勢の家来がおり、最上部にアフラ・マズダを真ん中にして左に弓を持った王が描かれている。
ダレイオス1世の墓の下部横にあるレリーフは、シャープール1世騎馬戦勝図でササン朝時代の物。中央に騎馬のシャープール1世。その前に跪く2人のローマ皇帝(エデッサの戦いで捕虜となったヴァレリヌス1世とフィリポス)。王の背後には、ゾロアスター教の指導者が描かれているというがあまりはっきりしない。また、王の右手は7万人の捕虜をつかんでいる事を表す様な描き方がされているというような説明があったが、暑さと疲れで頭がボーッとしていてあまりはっきりとしていない。
それから先へ進むと、何なのかはっきりしていない塔が一つある。神殿とも見張り塔とも様々な考えがあるそうだ。
更に行くと井戸の跡がある。
その先には、以前はエラム王国の神聖な場所だったという所がある。ただし、それを知らなかったのか、妻と息子に挟まれたバハラム2世のレリーフを彫り上げてしまったのだそうだ。
その次にあるのがアルベシール1世騎馬叙任式図。左側のアルベシール1世が右側のアフラ・マズダから王の印を受け取っているという馴染みの図柄のものだ。足下には踏みつけたライオンがいる。これはパルティアの王をライオンに模している、つまりこのライオンは悪の象徴なのだそうだ。
それにしてもあまり知らなかった遺跡だが、まだまだ知らない物がたくさんあるのだな。
9−6 エマームザーディェ・アリー・エブネ・ハムゼ
16:10〜16:28
まだホテルに帰るには早すぎるというので、寄り道をした。たいしたことないだろうと入っていくと、まず足下に墓碑がたくさん埋められていた。なるべく踏まないように歩いてくださいと言うことだったが、地元の人は平気で歩いている。オートバイもその上を走る。そんなモスクだった。
中に入るにはチャドルの着用が義務づけられているので、入り口でそれを借りる。長い布を引きずりながら中に入るとビックリ。内装が鏡のモザイク張りになっているのでまばゆい限りだ。どこを見てもキラキラしている。
シャー・チェラーグ廟というもっと大規模な物もあるが、そちらは異教徒は入れないのだそうだ(かつては入れたという話もある)。
9−7 ハーフェズ廟
薔薇の花が見たいという人がいたので、また寄り道。が、残念ながら時期外れのようで一輪も見られなかった。
中央に丸屋根の建物にハーフェズという詩人の棺が安置されている。ここも地元の人にとっては一大観光地らしく女子学生の団体も来ていた。チャイハネで休みましょうか、といわれたが、皆拒否反応を示し、先へ急いだ。
なお、ハーフェズはイランの国民的な支持を持つ詩人で、「コーランのない家庭はあってもハーフェズ詩集のない家庭はない」とまで言われる人。酒(ワイン)と花(バラ)の詩人として有名。
9−8 バザール散策
急いでいった先はまたバザール。バスを降りて歩いていく途中に、キャリーム・ハーン城塞があった。円筒の模様がきれいだった。
バザールは道を挟んで両側奥深く続いていた。先に一方の方をみんなと一緒に歩き、後の自由時間はもう一方の方へもいってみた。ここはまさに庶民の生活空間だ。ドアノッカーの男性用と女性用で遊んだりしながらブラブラした。色鮮やかな生地、香辛料、そしてお定まりの則の試食(ドゥーク成分を固めたような白いもの・・・これは相当にまずかった)等々。そこで乾燥した薔薇の花をたくさん買い込んだ。ま、則の趣味といったところか。驚いたのは「千と千尋の神隠し」がここにまで進出していたことだ。VIDEO−CDとおぼしきものがあった。
フラフラ歩いていると、何人かの人に声をかけられた。則は必ず「イラン、グッド」と応えて相手を喜ばせていた。
帰り、またキャリーム・ハーン城塞を通りかかるとたくさんの椅子が並べられていた。野外コンサートが開かれるらしい。どんな音楽なのか聞いてみたかった。
9−9 夕食
一旦ホテルに入ってから夕食へ出かけた。コンサートの準備を見たからではないだろうが、今日は音楽を聴きながらという設定だったが、4人の男性は、にこりとするわけでもなく淡々と演奏していた。イランではタブーとされるネクタイをしていたので、他民族の出稼ぎ?(録音したが食器の重なる音などの雑音が多すぎた)
食事はビュッフェスタイルだが、内容的にはそう変わりはない。
9−10 ホテル
昨日と同じ。また1.5リットルの水が置かれていて感激。
<ホテル>
ホマ ホテル[Homa Hotel] ★★★★★
609号室
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