3、9月23日(木)
起床(0200)インスルブック・ホテル発(0804)アルプバッハ(0900~1000)ドイツ国通過(1050頃~1138)ザルツブルク着(1104)昼食(1215~1315)ザルツブルク散策(1125~1735)夕食(1800~1850)ザルツブルク・ホテル着(1915) ホテル:アレーナシティ 112号室
3-6-3 旧市街
細い商店街の路地を抜けていく。
ザルツブルクには14万5千人の人が住んでいるが、この旧市街には、6千人弱いる。
3-6-3-2 モーツァルトの生家
さすがにここは人だかりがしていた。中は写真撮影禁止なので、入り口のみ。
1408年に建てられたアパート。そのうち4階の3部屋を借りていた。台所は共同であった。
正面玄関の間口は小さく奥に長い。日差しを取り入れるために、必ず中庭が造られている。そんなアパートでモーツァルトは生まれた。そして17歳までここに住んでいた。
一つ目の部屋には、モーツァルト一家の肖像画。父母や姉、女帝から贈られた服を着ている6歳のモーツァルト、19歳のモーツァルトなどが壁にあった。中央には、直筆の譜面がガラスケースに収められていた。
二つ目の部屋は、モーツァルトが産まれた部屋。中央のケースにある子供用のバイオリンは、モーツァルトが使った物。髪の毛が二種類あるが、一方は赤子の時の物。他にも指輪やたばこケースなどが置いてある。
三つ目の部屋には、奥さんの肖像画や彼の作品・手紙などがある。ところで、モーツァルトには6人の子供がいたが、成人したのは二人だけ。その二人にも子供がいなかったので血筋は途絶えてしまったそうだ。
そこまでガイドさんと一緒に説明を聞いて、後はフリータイムとなった。
徐々に下に下りながら、音楽の資料や土産物店をのぞいた。ゆっくりと音楽を聴ける所があったのでしばしそこで休憩。
3-6-3-3 散策
その後、モーツァルトの家の裏に出るために、中庭を通った。庭に面したバルコニーには、花が飾られて綺麗にしてあった。抜け出た所で市を立てていて、野菜やパンなどを売っていた。ここでは野菜類はとれないので、すべてイタリアやスペインからの輸入に頼っているとか。それにしては品数が豊富だった。
生家は黄色。元々黄色というのは、女性に好まれる色だったそうだが、モーツァルトが女帝の前で演奏したことからこのアパートは黄色に塗られたそうだ。アパートの上の数字は、完成した年や修復した年を表している。
この辺りの壁が隣とくっついているのは寒さ対策の一つだとか。また、高さが統一されている。
3-6-3-5 祝祭劇場
ビール祭り(オクトーバーフェスト)ということで、町には民族衣装を着た人たちが沢山歩いていた。日本で言えばお祭りに半被や浴衣を着るようなものか。
着いた所のある長い建物は、ザルツブルク音楽祭のメーン会場。ウイーンフィルとベルリンフィルの演奏が行われる。
6千人の収容ができる。正面は普通の建物に見えるが、会場は岩盤をくり抜いて造ってあり、音響が素晴らしいそうだ。
大劇場、小劇場、メンヒスベルク山の岩肌を削ってつくられたフェルゼンライトシューレよりなる。このフェルゼンライトシューレはかつて夏季乗馬学校として利用された。また、映画「サウンド・オブ・ミュージック」のコンテストの会場になったところ。
ここは許可のない車は入れない。そのため道路には車止めがあるが、許可者はセンサーを使ってそれを下げて通ることができるようになっている。初めて目にしたときには皆一様に驚いた。
3-6-3-7 大聖堂
この大聖堂は、774年に建てられ、12世紀に後期ロマネスク様式に、17世紀にバロック様式に改築された。
その後、第二次大戦の時に米軍の爆撃に遭い、大きな被害を受けた。ちょうど正面前方に被弾したそうだ。ヒトラーがここの出身だったので、ここにいると思われ狙い撃ちされたようだ。1959年に修復されたが、ステンドグラスまでは手が回らなかったので、無いままだ。前と後ろの色が違うのはその修復のため。
モーツァルトはここで洗礼を受け、カラヤンの葬儀はここで行われた。洗礼盤が残されていたが、当時蓋はなかったそうだ。
6千本のパイプのパイプオルガンが後方に見えるが、オルガン奏者としてモーツァルトが弾いた物。これは今でも、日曜日のミサの時には弾かれる。
ここもザルツブルク音楽祭の会場となっていて、今年は、モーツァルトなど宗教音楽が演奏された。パイプオルガンが4台あるので、その連弾なども行われたそうだ。
3-6-3-8 レジデンツ広場
ここもオクトーバーフェストのテントが沢山並んでいる。移動遊園地も設置されていて、観覧車や回転木馬などもある。ここもサウンドオブミュージックの舞台となったところだが、肝心の噴水がそれらに隠れてしまってよく見えない。普段は何もない広場なんですよ、ということだから、このお祭りがいかに人々の楽しみになっているかが分かる。
子供から大人まで民族衣装を着ている人が多い。
そこに面してレジデンツが建っている。いや、こちらの方が先。
レジデンツとは大司教の館のこと。ここに大司教が居住し執務に当たった。
ここもまた6歳のモーツァルトの演奏の場となった所。
また、モーツァルトがよく通ったという「トマセリ」というカフェもここにある。カラヤンも来ていたそうだ。花がいっぱいに飾られた2階席もあって、なかなかお洒落。
その少し先で集合時刻を決めてフリータイムとなった。
我が家はすぐに高いところを目指す。
3-6-3-9-3-1 歴史の部屋
はじめは、その塩の貯蔵庫だった部屋。今は城塞の建築に大きく関与した17人の大司教の肖像画と、改修されてきた様子が分かる模型が置かれている。これによって中世の城が難攻不落の城へと変わっていった様子が分かる。はじめは本当に壁だけの小さなものだった。このようになっていったのは、兵器技術の進歩と国内外の紛争が続いたことによる。
ここは備えが十分で、大きな被害にあったことはない。かのトルコですら、攻め入ることができなかったという。
1800年12月、ナポレオン軍に明け渡すまで陥落したことはなかったそうだ。そして、1816年、ハプスブルク帝国に編入され、その後は兵舎となり、1861年には一般に解放された。
3-6-3-10 集合場所へ
人でごった返す中を、祭りの一員のような顔で歩く。いろいろな店が出ている。大きなテントの中をのぞいてみると、人でいっぱいだった。テントの外にもテーブルが並べられており、そこも賑わっていた。こちらの人は陽気だから結構盛り上がっていた。ここでは今日一日だけらしいが、ミュンヘンも近く、オクトーバーフェストの真っ最中だった。
その仲間になることには二の足を踏んでしまったので、途中のスタンドで、採り立てワインのシュトゥールムを飲む。確かに濁酒だ。この時期の2週間程度しか飲むことができないそうだ。いいときに来た。得した気分になる。そこでjunは一気飲みのようにぐいっと飲んでしまったので、ふらふらに酔っ払ってしまった。アルコール度が強いと言っていたとおりだった。
そのときちょうどパレードが来た。といっても、民族衣装を着て、練り歩くという程度のものだ。
飲み終えてから露店の中を通って集合場所へ向かった。
3-7 夕食(1800~1850)
夕食は市内の中華レストラン。往路でもいくつかの中華料理屋を見た。全世界に広まっているので、ここにもあるのは当然だが、チャイナタウンがあるわけでもないのに多い感じがした。
行きに見たそのうちの一つのレストランにはいる。
品数はあまり豊富でなく、内容的にも豪華さはなかったが、久しぶりの東洋食と言うことで、ご飯などほかのテーブルでは空になったところもあった。我々のテーブルではキャベツの炒め物が一番人気だった。鶏肉を食べられない人が二人いたので、鶏肉は余った。麻婆豆腐も気の抜けた味だった。日本の中華とはだいぶ違っていて、欧米人ナイズされているのかとも思うが、美味しかったという感想はない。
とはいえ、食は進んだのは懐かしの味に近かったからにほかならないだろう。
3-8 ザルツブルク・ホテル着(1915)
ホテル:アレーナシティ 112号室
今日も郊外のホテル。見本市会場用のホテル。見本市の季節には料金が3倍にも跳ね上がると言うことだ。駅からは3キロほどだが、やけに遠回りして、高速まで使って到着した。どうも運転手が市内の混雑をいやがったためらしいが、やけに走って到着した。
見本市会場近くというので、ネット接続に期待した。ロビーにこの近くのエリアだったら、無料のコードを教えるよと、書いてあったので、部屋に入ってから接続すると、どうも部屋からでも使えそうだった。ロビー階の上なので、何とか繋がるらしい。
部屋について、junは細々としたことや風呂の準備をし、noriは写真の整理をした。ほかの人たちが使わぬうちにと、風呂に入ってから絵はがきの印刷をした。印刷を終わると、junはもう限界と寝てしまった。noriも仕方なく寝た。