5、9月25日(土)
起床(0500)グラーツ・ホテル発(0820)列車(0926~1158)昼食(1230~1335)シェーンブルン宮殿(1406~1530)免税店(1554~1635)美術史美術館(1653~1740)シュテファン寺院前(1750~1810)ホイリゲ(1900~2010)ホテル着(2050) ホテル:ルネッサンス 320号室
5-6 シェーンブルン宮殿(1406~1530)
「シェーンブルン宮殿」内部の写真は撮影できないためありません。従ってやむを得ず、各部屋の写真はオフィシャルサイトからの引用です。
かつてここにあった城館を1569年にマクシミリアン二世が買い取り、ハプスブルク家の所有となった。マティアス皇帝の時にこの敷地を猟場とし、その際に美しい泉(シェーナー・ブルネン)を発見したことからシェーンブルンの名が生まれた。やがて、エレオノーラ皇后の時に、華やかな社交の場として1642年に敷地内に離宮を建設してからは、全施設の呼称もシェーンブルンとなった。
その後マリア・テレジアが、豪華な居城に増改築し今日の外観となった。更に庭園も完成させた。
一時期は無人のまま放置されたこともあったが、フランツ一世二世の時に再び皇帝の夏の居城となった。
1805年と1809年にはナポレオンに占領されたこともある。
建物の黄色は、マリア・テレジアカラー。権力と富の象徴ともいえる。
5-6-3-1 青の階段
1745年に豪華な階段ホールに改築した。天井のフレスコ画は1700年の物がそのままに保存されている。この名の由来は、マリア・テレジア時代に仕上げられた壁面のブルーによる。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
SKB / Alexander Koller
5-6-3-2 大広間
長さが43m、幅が10mもある。ここでは宮廷の大規模な催しを行った。
天井にはフレスコ画が3枚あるが、そのうちの2枚は修復中ということで、実物を見ることができなかった。
見られなかった2枚はオリジナルのまま残っており、色がくすんできたための修復らしい。その1枚、中央にあるのは、ハプスブルク家の繁栄を表した物、西側の1枚は、寓意的に平和を表した物だそうだ。
実際に見ることができる東側の1枚は、1945年4月に爆撃を受けて破壊され、1947年から48年にかけてコピー修復された物。
修復は、これから2年ほどかかる。覆いに実物の絵が映し出されているが、やはり本物を目にしたかった。東側の修復は、財政的に余裕があれば引き続き行われるそうだ。
その東側には次の小広間を通ってから入る。
暖炉があるが、これは造った当初はなかった。というのもここは夏の離宮だったから必要がなかったのだが、エリザベータ(シシィ)が気に入ってずっとここで暮らすようになったために後から付けられた。
室内の装飾は、白い壁に金の模様。植物とそこから延びるツタのように金が壁を這っている。壁から天井へかかる辺りには、兜や刀や軍旗の交差した模様が付けられている。やはりこれも金。装飾に金以外の色はない。
ここが、有名な「会議は踊る」の会場となった部屋。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-3 小広間
長家族的催しが行われたロココ調の部屋。1870年頃の改修で、白とバラ色の漆喰が壁から取り除かれ、これに替えて磨き上げられた純白の壁に黄金と白の漆喰装飾が施された。天井のフレスコ画は、修復の際もそのままに残され、オリジナルである。
木彫りに金メッキ、白壁に金だけの装飾、シャンデリアの台も金、と金がふんだんに使われている。床は寄せ木細工。
ここの両側にはそれぞれ、中国の小部屋があり、左側は楕円形、右側は円形をしている。マリア・テレジアは、当時流行していた中国や日本の美術品を愛好していた。2つの小部屋では、極めて高価な中国製の漆塗りパネルが、白い化粧板にはめ込まれ、金箔の装飾フレームから張り出したコンソールには、青と白の磁器が置かれている。床は、芸術的な象嵌細工の手法で仕上げられている。
2つの小部屋は、カード遊びや、小規模な会議に用いられた。とりわけ円形の小部屋では、マリア・テレジアと宰相カウニッツ侯爵の、国事に関する重要な秘密会談が行われた。
ここには、ガラス張りで入れない。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-5 儀式の間
フランツ一世に謁見に際して第二の控えの間として使用されたが、主に、家族的なセレモニーの場であった。そこでは、洗礼や、誕生日などのパーティー、宮廷の貴族の結婚式やパーティーなどが行われた。
豪華な内装は、1760年頃の物で、天井には、装飾彫刻がなされている。白い化粧板の壁には、大広間同様金箔の飾り漆喰が施されている。
ここはかつて、「戦いの間」と呼ばれ、装飾に槍や盾、軍旗など戦争に関するモチーフが見られる。
壁三面に大勢の人の絵がある。1760年に行われたヨーゼフ皇太子の婚礼の式典の様子を表している。
最大の物は、花嫁が王宮前のミハエル広場に到着したときの馬車行列を描いている。
そのほかにもアウグスチノ教会での結婚式、王宮ホールでの昼の正餐、晩餐、結婚式の後に行われたオペラ座でのコンサートの上演場面などがある。
昼の正餐には金の食器を、晩餐には銀の食器を用いたことなど、忠実に描かれているのだが、ただ一つ現実とは違った物が描かれている。
それはオペラ座の上演部分の一部、観客の中にあどけない表情をした少年期のモーツァルトがいることだ。このとき、モーツァルトはまだ4歳で出席できるはずはないのだが、天才少年の噂が広がるにつれて描き加えられた物だそうだ。
中央にあるマリア・テレジアの肖像画は、もっともよく知られた彼女の姿。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-6 中国の青い間
1806年に中国製の高価なライスペーパーで内装された。これもマリア・テレジアが18世紀に手に入れておいた物で、5つの部屋に使用されたが、残っているのはこの部屋のみ。
壁面には、明るい地(黄色に見える)に花模様をあしらった壁紙が用いられ、そこに上の方には長方形、下の方には円形の青い絵がある。これは、藍色の下地に墨とブロンズカラーで、養蚕や米作り、陶磁器の正餐などの様子を描いた物。中国の人々の生活の様子が分かって面白いが、かなりくすんできている。蝋燭を灯りとしていたせいらしい。
青いのは絵だけではなく、壷も青、窓に掛かるカーテンのスカート部分も青だ。
また、この部屋は、歴史的に極めて重要なものになっている。1918年11月11日、王朝最後の皇帝カール一世の統治権放棄に関する交渉が行われ、その翌日、オーストリア共和国樹立が宣言され、600年以上に及ぶハプスブルク王朝の歴史に終止符が打たれたのだ。カール一世は退位することを望まず、家族とともに国外追放となり35才で亡くなった。1912年生まれの長男は存命だそうだが、一切政治に関与することはできないとのこと。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
SKB / Edgar Knaack
5-6-3-7 漆の間
フランツ一世急逝後に、マリア・テレジアによって夫の思い出の部屋として改装された。黒漆のプレートは、北京で制作された物で、彫刻に金箔を施した枠の中にはめ込まれている。
壁、天井共に黒地に貝の模様で、まるで蒔絵のようだ。風俗、風景、花や鳥なども描かれている。床も寄せ木細工のようで見事な作りになっている。
また、ここには何枚かの肖像画がある。フランツ一世の肖像画は勿論のこと、次男のヨーゼフ二世と三男のレオポルトが並んでいる物、レオポルトと妻と3人の子供たちのもある。この子供たちの時にナポレオンが攻め込んで来たのだそうだ。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-8 ナポレオンの間
その攻め込んで来たナポレオンの名が付いた部屋がある。ただし、オーストリア人には好かれていなかったので肖像画はない。
では、なぜこの名が付いたかというと、攻め込んで来たときにこの宮殿は総司令部となり、ナポレオンはこの部屋を気に入って寝室として使用したとか。
彼とフランツ二世の娘との間に産まれたナポレオン・フランツ(後のライヒシュタット公)は、ナポレオン失脚後2歳でウイーンへ移り住み、外界からは隔離されて育てられ21歳で死亡した。庭園で庭師として描かれた6歳の時の肖像画とデスマスク、実際に使ったベッドが残っている。
題材は分からないが、壁三面が続き絵のような大きな絵で、壁を覆っている。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-9 陶磁器の間
他の部屋から比べるとかなり小ぶりの部屋。マリア・テレジアの遊戯室兼仕事部屋だった。
清楚な青と白で磁器のように見える木彫枠が、天井に至るまで壁面を埋め尽くしている。いかにも焼き物のように見えるが、マイセンを真似して作られている。ただ、中央にあるシャンデリア(蝋燭立て)は本物のマイセン。
213点ある作品は、いずれもフランツ一世と子供たちが制作した物。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-10 百万の間(鏡の間)
当時のお金で100万グルデンという大金を使って造った部屋。全体で1600万グルデンというから、この部屋にいかに大金をかけたかが分かる。
紫壇の化粧板を用いてある。寄せ木細工の化粧板に、彫刻に金箔を施したロカイユ装飾で、17世紀にインドやペルシャで描かれた細密画がある。これは、現在はオーストリア国立図書館に保存されており、コピーが壁を飾っている。
ただ、寄せ木細工の壁が茶色で落ちついいた雰囲気になっている。
中央にあるシャンデリアの花の飾りは七宝。
また、狭いので鏡を多用し、奥行きがある広い部屋に見えるようにしている。
そこの奥に、ミニチュアの部屋がある。
テーブルに置かれた磁器の朝食セットは、19世紀に作られたオリジナルの物。壁に飾られた数々のミニチュア絵画は、フランツ一世と子供たちの作品。フランツ一世は一切政治に関わらなかったというが、良き父としてこういうことを楽しんでいたのか。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-11 タペストリーの間
元々の清楚な内装が取り払われて、1873年にゴブラン織りが取り入れられた。
18世紀にブリュッセルで生産されたゴブラン織りで、壁面には市場や港の風景が描かれ、椅子の布地には、12の月と黄道十二宮が表現されている。
ここにも3m位のストーブがあるが、元々タペストリーのあった部分を壊して造られているので、その部分のタペストリーは切り取られた形になっている。
召使いの部屋は、これらの部屋の裏側にあり、隠し扉のようになっている小さなドアから出入りした。ストーブの焚き口もその裏側にある。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-12 赤いサロン
壁が赤地で、4枚のハプスブルク家の肖像画がある。
かつてはマリア・テレジアの図書室だった。
左側に見られるのが、レオポルト二世、フランツ二世一世。右側にあるのがフェルナンド一世、マリア・アンナ皇后。
天井の高さは梁から1mちょっとだが、隣の部屋は、同じ作りであるにもかかわらずだまし絵によって3mもあるように見える。
ちなみによく登場するフランツ二世一世とは、神聖ローマ帝国の最後の皇帝で、そのときにはフランツ二世を名乗り、ナポレオンによって神聖ローマ帝国が消滅されるとオーストリアのみを統治しフランツ一世を名乗った。長女はそのナポレオンに嫁がせ、次女はブラジル皇帝へ嫁がせた。
マクシミリアンの「結婚せよ」という政策はしっかり引き継がれている。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-13 寝室
マリアテレジアの寝室。ベッドは4畳くらいある。 が、このベッド、実際に使用されたことはない。様々なセレモニーの舞台装置としておかれていた。20kg以上もあるという天蓋、金糸銀糸で刺繍されたベッドカバーをはじめ、カーテンや布張りの壁面など、内装は当時のままのもの。
その保存のためにガラス張りになっている。その分、通路が狭くなっている。
マリア・テレジアと夫フランツ一世の肖像画がある。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.
5-6-3-14 肖像画の部屋
フランツ一世とマリア・テレジアの家族の描かれた絵がある。このときまだマリーアントワネットは生まれていなかった。
他にはマリア・テレジアに関係した女性たちの肖像画がある。たくさんあるこれら肖像画の中にマリー・アントワネットのもある(一番下の右から2番目だそうだ)。
冒頭にも書いたように右の写真は、オフィシャルページに掲載されているものです。
© Schloß Schönbrunn Kultur- und Betriebsges.m.b.H.