12月21日(日) デリー → オーランガバード
朝食(0545)・・出発(0630)・・デリー国内線空港着(0650)・・濃霧・・搭乗(0910)・・離陸(1000)<ジェットライト S2−6171>・・飲み物有料・・オーランガバード空港着陸(1145)・・空港発(1205)・・ホテル着(1215)・・昼食(1300)・・観光出発(1430)・・オーランガバード石窟寺院(1500〜1545)・・ビービカマクバラ(1555〜1625)・・パンチャキ(1630〜1645)・・ヒムロ織り工房(1700〜1735)・・ホテル着(1745)・・夕食(1930〜)
2−1 出発
例によってnoriは3時過ぎには起きた。インターネットの端子があったので接続すると、1時間325R一日925Rとあった。だいたい金額は2倍すれば邦貨になる現在のレートだったので、結構高め。あきらめる。仕方なく、日記を完成させる。今朝の出発は飛行機が出るということで、早い。日記を完成させた後、5時半過ぎに荷物を部屋の外に出してから、朝食をしにレストランに行くと、朝食は6時半からだという。添乗員さんが5時45分から簡単な食事をさせてくれるという話だったと言うが、取り合ってくれない。今はアラカルトでしかだめという。勝手に食べてしまうと面倒なので、退散して帰ろうとすると添乗員さんが来た。彼女はこのデリーに家があるので、昨日は帰宅していたのだった。どうも結果的には、彼女が昨日リクエストしておいたことが伝わらなかったらしい。まぁ少し時間がかかったけれども、朝食に無事にありつくことが出来た。
6時30分にホテルを出発。前の車が見えないくらいのかなりの濃霧だ。これは、この時期のデリーでは日常的なことだそうで、飛行機が飛ばないことも多々あるのだそうだ。8時半のフライトだが、少し不安になる。
2−2 デリー空港
国内線の空港は昨日のインディラ・ガンジー空港の場所とは異なる。これは前回も利用した。最初に出会ったのは、濃霧のためのテレビ局の取材。今日はそれほどひどい霧らしい。
それからまず簡単なチェックを受けて空港内に。スーツケースのエックス線検査を受けてチェックイン手続き。手続きが終わり待合室へ向かう。ここの入口でまた手荷物検査とボディチェック。手荷物は手荷物用の荷札にスタンプが押される。
ここで、noriが杖を忘れたことに気がつく。添乗員さんが探してくれたが、見つからなかった。不注意だ。noriはそっと杖に「今までありがとう」とお礼を言った。
濃霧でやはり6時台の飛行機さえ飛んでおらず、だいぶ待たされる。ようやく8時過ぎになって、少し動きが出てきた。いくつかの飛行機が飛び始めたらしい。盛んにボーディングのアナウンスが流れ始めた。だがそれでも順番なのだろう、我々の便の番号はなかなか呼ばれない。まだまだと言うことで、チャイ(マサラ・ティー)をご馳走になる。こうしてまったりとしていると案外アナウンスがあることが多く、慌てさせられることがある。今回もそんな感じで、飲み終わらないうちに便名のアナウンスがあり、バスで飛行機に向かう。
2−3 機内 <ジェットライト S2−6171> 20AB
飛行機は3列3列並びの長さ25列くらい。我が家は20AB。
9時10分に搭乗するも順番待ちのためしばらく機内待機。10時にようやく飛び立つ。まず水が配られる。100mlのよく食事の時についてくるタイプ。その他のものは全て有料。特に飲みたいということもなかったが、マサラ・ティーを頼む。インスタントコーヒー並みの袋入りで、それをお湯の入った紙コップに自分で入れる。これで20ルピー。これはお土産によいと思い、添乗員さんに聞くが、街で見たことはないという。飛行機はしっかり1時間45分かかってオーランガバード空港に到着する。
2−4 オーランガバード空港
飛行機からは歩いてバゲージのところまで行く。荷物は直ぐに出てきた。降りると少しムッとした。気温は27度。冬のままの格好でいた我々にとってはかなり暑い。
空港は小さい。ターミナルビルも小型だ。ターミナルビルを出て振り返ると、かつてここに降り立ったときのことがよみがえってきた。ここから印度大陸を小型の乗用車に乗って疾走したのであった。懐かしくもあった。
現地のガイドさんと合流してバスに乗る。日本語をよくしゃべる人で駄洒落まで言うから驚き。都市名の後に「バード」とついていればイスラム教の街。「ブル またはプール」とついていればヒンドゥー教の街。と言うわけで、オーランガバードはイスラム教の街だったところと言うことになる。第六代のアウラングゼーブに因んで名付けられた街。後にパンチャキのところで触れるMalik Ambar(族長アンバー?)が基礎を作った街。
町はいかにも印度に来たぁ!と言う感じで我々を迎えてくれた。もちろんご覧の通り牛は町を闊歩していた。
2−5 ホテル
一旦ホテルへ行って直ぐにチェックイン。ホテルに入るのに、厳しいチェックはなかった。飛行機の移動では電池類のチェックが厳しいというので、カメラ類は電池が豊富で取られてしまってもかまわないnoriのカメラ以外はスーツケースに入れていたので、荷物の整理をする必要があり助かる。部屋は401号室。しばらくすると荷物が来たので、早速洗濯をした。
2−6 昼食
同じホテルで、カレー料理。ナンを作っているのを興味深く見ていたら中に入れと言うのでありがたく入れてもらう。すると作って見ろと言われたので、junが果敢に挑戦。当たり前のことだがなかなかうまくいかない。1つめは破れてしまって失敗。2つめは少し厚めだったが無理にOKにしてもらって焼いてもらう。それは後で自分が食べた。形は少々悪くても味に変わりはない・・だろう、たぶん。と言うわけで結果は写真の通り。ずいぶんと分厚いナンができあがった。
生野菜が出たが、添乗員さんからは、生野菜と生水には手を出さないようにと厳重注意があった。このあたりはどうもS社らしくはない。我々はこのお達しを帰国までかなりきちんと守る。病院騒ぎや帰国してから入院の騒ぎを経験している我々は、そう言われれば慎重にならざるを得ない。
2−7 オーランガバード石窟寺院群 (1500〜1545)
ムンバイが1ヶ月ほど前のテロで今回のコースから外れたために、代替として急遽挿入された所。あまり外国の人はここまでこないようだ。高台にあるので見下ろすと景色がよい。遠望できる水辺は人造湖とのこと。これから訪れる、アジャンタ・エローラの事前学習にはもってこいの場所だった。
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オーランガバード中心部から北方約5キロの場所にある。この石窟は玄武岩の岩山をまずは上から下に、前から後ろにと掘っていって造り上げたもの。中を掘るときは暗いので、鏡で太陽の光を反射させて明るくしたと言う。実演して見せてもいただいたのだが、それにしても暗い。精巧な像を彫るのには光は足りたのだろうか?後の石窟寺院でも同様の説明を聞いたが、この手法のみということは考えづらく、おそらくは松明なども利用したのではないかと思う。
全体は向かって左右二つに分かれて窟がある。
ここの一番の見所は第7窟。左手部分にある。中に入ると左に蓮華菩薩、右に金剛菩薩が掘られている。蓮華菩薩は八難救済の菩薩で、その両側には災難とそれらから守る動物(獅子・蛇・象など)が掘られていた。金剛菩薩の頭上には飛天が飛んでいた。更に右の方には鬼子母神や大黒様が掘られているが、暗くてあまりよくは分からなかった。一歩入った更に奥の正面には仏が鎮座していた。ここは僧院なので、その仏を取り巻くように坊さんの部屋がある。偉い坊さんの部屋にはベッドがあると言われるが、ここには残されていない。敦煌のようなものかと想像する。
ここは仏教が衰えた後の長い間、人々が生活していたので、痛んでいる。火を焚いたすすの後などもあった。それでもあまり破壊されることもなく今日に伝わっているのは、今日のような宗教観の対立が激しさを迎えることがなかった近世までの事情を映し出しているといえる。信仰の対象にはしなかったが、それを積極的に破壊するといったこともなかったようだ。
第5窟には入って直ぐの天井に曼荼羅が残っている。よく見るとかすかにではあるが彩色の跡も分かる。往時はさぞや艶やかなものであったのだろうと想像される。ここも僧院窟で、坊さんの部屋の方へ回るとそこはコウモリのすみかになっていた。
自由時間に右手の(左手よりもやや高い位置にある)石窟に行く。杖を失ったnoriには階段がきつい。ここの石窟は制作途中といった感じで柱なども完全には掘られていない。石窟によっては仏教が衰えた後に入ってきたヒンドゥー教の影響でガネーシャが掘られているところもある。剃り落とした感じはないので、放棄された部分に掘ったのだろうか。
外には野生のインコやリスが沢山いた。この後も印度を旅行している間、インコとリスには多数遭遇した。なかなか被写体として狙うのには苦労を必要とした。また、ピクニックに来ていた大家族の中の女性が寄ってきて、いっしょに写真を撮っていいかときくので承諾した。屈託のない家族だった。サンダルも高級そうであり、男性は靴を履いており、裕福な家庭であることが判る。
2−8 ビービー・カ・マクバラー
ここは「ミニ・タージ・マハル」とも「貧乏人のタージ・マハル」とも呼ばれる墓(霊廟)。その意味は、ビービー=奥さん、カ=の、マクバラー=墓・・・と言うことで、奥さんの墓。こう解釈されると少し違和感が残るのだが。「奥さん」とはアウラングゼーブ帝の第1妃ムガール帝国の第6代皇帝アウラングゼーブの妃、ディルラス・バーヌー・ベーガムのことで、そのお墓。
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その息子アーザム・シャーが1660年に造った。この墓が、デカン高原におけるムガル王朝最後の霊廟型建築としての墓となった。皇帝に着いたわけでもない息子が母のかような建築物を何故建てられたかというと、それはたぶん父のアウラングゼーブ帝が生きていたからだろう。この王様長生きで、90才まで生きている。アウラングゼーブが幽閉したタージ・マハルを建てたその父のシャー・ジャハーンも74才まで幽閉され嘆きながらも生きていたのだから、長生きの家系なのかもしれない。
ところで母の死に対して父のアウラングゼーブはなかなか許さなかったらしいが、最終的にはその熱意に負けて建設が認められたらしい。何れにせよ、父帝のバックがあればこそ建築されたものとも言えるだろう。貧乏人のタージ・マハルというよりは、愛情込めて地元ではミニ・タージと呼ばれている。因みに、父帝の墓はオーランガバードにあり、白壁に囲まれた質素なものということだ。
まぁこれから見に行くタージと順番が逆だとどういう感想になるかは判らないが、地元民が胸を張るだけのことはある立派な建物だ。おまけに青空とのコントラストがそれを更に引き立たせる。これは、タージ・マハルもそうだがその背面に建物を置かないことにより、建造物を青空に浮き上がらせようとするにくい演出だ。
(http://www.pib.nic.in/feature/feyr2003/fmay2003/f060520031.html)
上の方(ドーム)と一部が大理石で、あとは漆喰を固めて造ってある。上または右の写真で、壺を逆さにしたような穴がああいているが、そこは少し奥行きがあることが判るだろう。そことあと掘られていない部分は漆喰で、正面や左壁面奥(写真では左上)の部分は大理石とのこと。大理石はこの地では採掘できないので、遠くから運ばれてきた。その分お金もかかり、結果的に資金不足となった。ムガール朝の交流衰退のバロメータとも言うべきであろうか。と言っても、写真のように少し透かし彫りのところがあり、そこは大理石で出来ている。基壇部分にも、さわってそれと分かるように少し大理石があった。
霊廟内部は靴を脱いで入る。内部は八角形になっている。イスラムでは8というのは縁起のよい数字とされているらしい。地下部分(ここも大理石だった)には緑の布が中心に敷かれ、そこに埋葬されているのが分かった。現地の人たちは小銭を投げ入れている。何か御利益があるのだろう。ここでは子供達の一団と遭遇した。激しくホイッスルを引率している人が吹くので、junは教師は何処も同じだと感想を述べる。日本の子どもが鎌倉や奈良京都の寺に社会科見学で無理矢理連れてこられているようなものだから、騒ぐのもまぁ仕方がない。
周りに4本あるミナレットも八角形でドームはミナレットよりも低い。この点が本物のタージ・マハルとは違う。ただ、全体の姿は青空に映えて綺麗だった。また正面右側には礼拝用の建物があり、ミハラブが設置されているので、この建造物群がイスラム教に属することが判る。
2−9 パンチャキ
山から水を引いてきた。水車を回して石臼を回している。前の池には魚が沢山いた。大きくして食べるのだそうだ。1624年に、かつて聖人を祭るためにアウラングゼーブ帝が建てた祠の場所に、Malik Ambarが施設を作ったらしい。6キロメートル先から引かれてきている。
山から引いてくるのには何度かサイホンを使ったらしい。サイホンを使うのは水圧を弱める(土管を保護する)と言うことだと現地ガイドさんは説明してくれたが、いかがなものか。物理学的には疑問が残る。水圧は維持したいだろう。本来の目的である障害物を越えるためだったのではないか。
ここでインドの二重価格に気づく。現地の人は5Rの入場料だが、外国人の我々は20R。少しひどい気がする。因みにタージ・マハルは外国人価格?は750ルピーという法外な値段だ。もっとも多くの場合このおかげで、切符売り場に並ばなくても空いている外国人用窓口でチケットを買うことが出来るが。
ここはデートスポットになっているようで、結構アベックの姿が見られた。水辺で涼しく恋で燃え上がった熱せられた体を冷やすのにはちょうどよいかも知れないが、恋を語らうには少し喧噪の中にある。
ここには水車があることで有名。水車は日本のそれを想像してはいけない。むしろタービンを想像した方がよいだろう。ただ水力発電所のように、水を横から当てるのではなく、落下する水をタービンの回転力に換えている。ここの部分はいささかロスがあるように思うが、回転が直接動力として使えるので秀逸だ。実際石臼がそこでは活躍していた。これはウズベキスタンのブハラから持ってきたものらしい?
上の写真は写し方が悪くてごめん。水平に何かが水しぶきを上げて回っている雰囲気だけは感じてもらえるだろうかと思う。この力はベルトで石臼などの動力として利用できる。
ここには樹齢500年以上という巨大な菩提樹が木陰を作っていた。気根がすごかった。周りにいる小さな人影と比べていただければ、あるいは奥の建物と比べれば、その巨大さが判るだろう。
2−10 ヒムロ織り工房
この地の特産というヒムロ織りを見る。細かい作業ですばらしい作品を仕上げていた。その作業は細かいにつきる。例えばサリー用の布は、8000本の縦糸を使い、一日にせいぜい数センチしか織ることが出来ない。サリーの布はおよそ6メートルあるので、完成までには半年近くかかるという。その他の布は曼荼羅などエローラの飾りをモチーフにしているものが多かった。観光客向けなのだろうか。
説明の後、完成品を見せてもらったが、noriがしきりに勧めるのに、junは何故か財布のひもを堅くした。目の保養のみ。ここでの商売の手法は、絨毯屋などと同じだ。チャイを勧め、織物を何十枚と出してきて、幾重にも放り投げるように広げてゆく。我々一行5人のうち一人しか買わなかったが(値段は決して高くはない)、これら広げられたものを片付けるのを心配して誰かがつぶやくと、添乗員さんはこれを片付けることを生業としている少年がいるのだとか。巨大化する印度の人口をこうしてワークシェアリングすることで印度は吸収しているのだと学んだ。
2−11 ホテル THE AMBASSADOR AJANTA ★★★★★ 401号室
帰ってからまたjunは洗濯。
noriは昼にコック三人にせがまれて撮った写真の印刷をした(我が家はミニフォトプリンターを持参している)。そのあとしばらく二人して休養。
鍵はホテルの紋章入りで豪華な感じ。
※ミネラルサービス、バスタブ有り、ドライヤー無し、無線ランOK(無料)
2−12 夕食
7時半より。ビュッフェ。
印刷した写真をコックに渡すと喜んでくれた。