12月29日(月)
バラナシ〜ブッダガヤ〜スジャータ村〜マハーボディ寺院

起床(0500)・・朝食(0700)・・バラナシ ホテル発(0807)・・<260km>・・ブッダガヤ 昼食(1358〜1454)・・スジャータ村(1513〜1612)・・マハーボディ寺院(1630〜)・・ガヤ ホテル着(1805)・・夕食(1900)

10−1 朝
 日本では一昨日あたりからふるさとへの帰省ラッシュが始まっているらしい。しかしながら事故や大雪の影響だろうか、JR東日本の新幹線は始発から動いていないという。昨日も相当乱れたようだ。これを書いている時間は日本時間8時過ぎ現在。さぞや混乱していることだろう。
 さて印度の我々の今日の日程は260kmの大移動が最初にある。予定では5時間半くらいかかるとのことだ。ということで8時とやや早めの出発となった。
 それでも早起きの我が家にとってはどうということのない時間だ。

10−2 バラナシ 出発(0807)・・<260km>
 これから260kmの長旅に出る。気温は23度前後。寒い中の出発だ。
  整備された高速道路など無い中を、突っ走る。ただ、高速道路ではないのだろうが、バイパスのような道があって、そこは結構走れるので、運転手さんの腕に期待。
 
10−3 道中
 出発して直ぐにバラナシ駅を通過。洒落た作りの駅だ。この頃になると学校へ行く子供や働いている大人を見かけるようになる。
 ガンジス川は今日も霧の中で視界がはっきりしない。
 テントで生活している人たちもいた。季節労働者だという説明だったが、やけに子供の数の多さが目に付いた。
 レンガ工場や畑の中のかかし、列車などを見ながら、車は快調に飛ばし、トイレ休憩となる。綺麗なホテルの食堂で、台湾の人の集団と一緒になる。この人達の中に、僧が一人混じっているのを見ると、単なる観光ではないのかもしれない。ここで現地のお菓子などを食し、お土産の参考とする。
 車は更に進む。途中大型車の横転事故を見かけたがさもありなん。とにかく運転が荒っぽい。おまけに日本ならとうてい認められないほどの荷物を荷台からはみ出してまで積み込んでいるのだ。そして、クラクションを鳴らしまくって走っているのだから。
 我が運転手もかなりクラクションを鳴らしまくって走り、無事に昼食場所のブッダガヤへ到着。6時間近くかかった。

10−4 ブッダガヤ 昼食(1358〜1454)
 先ずはかなり遅めの昼食。もちろんカレーであるが、その前に添乗員さんがインスタント味噌汁を供してくれた。このレストラン、日本語でホテルの名前が書かれているのを見ると、かなりの日本人がここを訪れているようだ。
 食後、日本寺というのを外から見てスジャータ村へ向かった。途中、尼連禅川を渡った。乾期ということで水がなかったが、代わりに洗濯物が干してあった。

10−5 スジャータ村(1513〜1612)
 ここには日本語学校があるが、今は機能していないという。だいたい前来たときも、日本語学校=日本人から金をむしり取る子どもの養成所のような感じだった。今回も日本語で話しかけてくる子供が大勢いる。
 他にもあのバスで抜きつ抜かれつしてきた台湾の観光客がいた。急にそちらの方へ大挙して押しかけていた。子供にお金をあげたらしい。大騒ぎになっていた。
 ここにはストゥーパがある。これは修行中で弱っていた仏陀に乳粥をあげたスジャータを記念して5世紀に造ったのだそうだ。その後しばらくは土に埋もれてしまったらしい。
 ところで、この乳粥で命拾いをした釈迦は、その後修行はただ過酷にすれば覚醒するものではないとの悟りの境地にブッダガヤで覚醒するというわけだ。
  ここの説明はさっとあっただけで、畑の向こうにある菩提樹の所へ行くことになった。狭いあぜ道を通っていくと菩提樹の下に小さなヒンドゥー教の寺があった。このあたりで仏陀が瞑想し、スジャータと出会った所だという。目の前には前正覚山が見える。ここにもたくさんの信者達がいた。junも敬意を表して祈りを捧げた。線香代にしては金額の大きな紙幣しかなかった彼女は、再選が置かれたサラからしっかりおつりをいただいた。これは印度では珍しいことではない。そろそろ日が落ちかけてきた。

10−6 マハーボディ寺院(1630〜)
 釈迦が修行と瞑想の後に悟りを開いたのは、ピッパラ樹の下であった。 ボーディ(菩提、悟り)を得たゆえに 釈迦はブッダ(覚者)となり、この樹は菩提樹と呼ばれ、仏教徒にとって最も重要なこの聖地は ボードガヤー(ブッダガヤー)と呼ばれるようになったと言うわけ。
  その後ここには寺院をはじめとして多くのストゥーパや僧院が建てられ、大巡礼地となる。 ブッダが座した場所の金剛宝座と、周囲の石造の欄楯 は前2世紀に遡るが、大寺院が菩提樹の横に建てられたのは7世紀頃のことである。
  けれどもインドにおける仏教の衰退によって、15世紀には放棄されてしまう。その廃墟が修復されるのは英領時代からで、19世紀末にはミャンマーの仏教徒が大改修をして、今の形となった。寺院は四方に小塔を従える 「五堂形式」 をとっているが、小塔は19世紀に付加されたものである。(『インド建築案内』 (TOTO出版) より)
  さすがにここは人が多い。その人達をかき分けるように中へ入る。
  まずは本殿へ。塔の高さは52mもある。レンガ積みの表面を漆喰で固めている。中には10世紀に造られた黄金の仏像が安置されている。人の後ろに付いて順番にお参りに行った。その前には何とシバリンガがあって、花で綺麗に飾られていた。以前はお互いの聖地として争いをしていたようだが、現在は共存している。
  それから外へ出て、右回りに見て歩いた。
 仏陀は瞑想していたという菩提樹の前ではお坊さんの読経があり、皆で祈っていた。これは、当時の木の末裔とされている。菩提樹の下に石の台座 (金剛宝座) が造られた。
 次に悟りを開いた仏陀が歩いた道には、仏の足跡が残されている。足跡というより蓮の花をかたどった石だ。歩いた後に蓮の花が咲いたのだという。これは3週目の出来事。その前が飾り棚になっていて綺麗に花で飾られていた。一つ一つは小さなカップなのだが、すごい数だ。米の上に花が置かれている。
 少し行くと、小さな寺院がある。といっても屋根はない。瞑想している仏陀に宇宙を形成している5つ(地・火・水・風・空)の光が差し込んだという。これが4週目の出来事。心臓に反射した5色の色がタルチョとして飾られている。またこのあたりには五体投地をしている僧がたくさんいた。それはこの場所だけではなく、これから歩いて行く広場のような所には更に大勢いた。体の下に置いている板はどうやらレンタルらしい。こうした光景は、以前は全く見られなかった。
 2週目に仏陀が自分の悟りを開いた所を瞬きもせずに見続けた所や、5週目にヒンドゥー教の祭司に出会い彼らに説教をした所なども通過した。
 次は6週目にいたという池。本当に悟りを開いたのかどうか神々が試そうとして嵐を起こしたが、仏陀は瞑想を続け、危険が迫ったときには蛇が現れて仏陀を守った。このことから神々は本当に悟りを開いた物と確信したという。そこで仏陀の光背は蛇の頭部になっているのだそうだ。ここの池の魚に食べ物を与えると願いが叶うというので、修行僧が大量の食べ物(パンくずのように感じられた)を池にまいていた。
  アショカ王の柱(これも本物だという)を通過して7週目、ミャンマーの商人と出会った所に来た。二人の名前を記した板もあった。この二人が仏陀に出会ったとき、すでに悟りを開いた仏陀は神々しく見えたので、お米を奉じた。それ以来お米をお供えするようになったのだとか。実は、この二人に対する説教がサールナートの初転法輪よりも早かったのだが、僧ではなかったために認められなかったと言うことだ。この辺りも五体投地の地となっていた。
 この様にガイドさんの説明では、菩提樹の下で過ごした1週目から7週目まで、都合49日間をここで過ごしたということになる。が、本によっては菩提樹の下で49日間瞑想をしたと書いてあるのもある。

10−7 ガヤ ホテル着(1805) ロイヤル レジデンシー  205号室
 今日は夜行列車に乗るので、一端ホテルで休養することになった。ここも以前泊まったホテルだ。部屋が取れるかどうかと言っていたが、幸いなことにそれぞれで部屋をゲットすることが出来た。
 現地手配会社の系列なので便宜を図ってもらったようだ。・・・ということは手配会社は今回と前回は同じ所だと言うことになる。

10−8 夕食(1900)
 夕食の時に、列車は今の段階で4時間遅れとの情報があり、部屋で連絡があるまで休んでいるようにと言われた。何しろデリーから来るので時間が結構いい加減らしい。それならと夕食時に、寝酒と称してラム酒を飲んだ。これが存外おいしかった。
 部屋に戻って最終荷物のチェックをした後、目覚ましをかけて少し休んだ。