1月2日(金) 
   ジャイプール滞在(風の宮殿・アンベール城など)

起床(0500)・・朝食(0645)・・ジャイプール ホテル発(0735)・・風の宮殿(0750〜0800)・・アンベール城 象(0815〜0835)・・アンベール城(0842〜0945)・・水の宮殿(1010〜1014)・・ジャンタル・マンダル(1027〜1052)・・シティパレス(1054〜1237)・・昼食(1251〜1410)・・ジャイプール ホテル着(1450)・・ホテル発(1735)・・バザール(1806〜1903)・・夕食(1935〜2035)・・ホテル着(2105)

14−1 朝
 朝は皆で揃って朝食。これは前日のちらし寿司と、我が家の雑煮セットなどがあって、それを一同で会して食べる必要がったからだ。ともかく和食の売れ行きはよかった。別に食べなくても済むのだけれども、そこにあればやはり手を出す。日本人としてはこれは仕方のないことだ。
  我々が食べ始める頃、レストランを去っていく日本人の集団があった。添乗員さん曰く「多分、アンベール城に行くのでしょう」ということだ。最近は象の働き過ぎを避けるために、1頭の象が仕事をする回数が制限されているために、象乗り場には長い行列が出来るのだそうだ。そのために我々も一寸早く出発する予定でいる。
 ということで、7時35分にはバスの中。途中、ここからピンクシティーですと言われている旧市街地に入った。町並みがすべてピンクー色に統一されている。これはマハラジャ・マン・シン二世が、1876年にイギリス皇太子(後のエドワード7世)がジャイプールを訪れた時、都市全体をピンク色に塗り替えたのが始まり。

14−2 風の宮殿(0750〜0800)
 1799年に、ジャイプル5代当主プラタプ・スィンにより建てられたジャイプルのシンボル的な建物。当時、イスラムの影響を受け、外を歩くことができなかった宮廷の貴婦人達が、宮殿から続く細いトンネルを通って風の宮殿に来ては、世間の目に触れることなく街を見下ろし、街路で繰り広げられる祭やパレードを眺めていたと伝えられている。
正面から見ると幅広く大きく感じられるが、厚みのない屏風のような建物となっている。沢山の窓と美しい透かし彫りを施してテラスの風の吹き抜けが良いことから、「風の宮殿」と名付けられている。
 車の通りが激しい通りに面しているため、予定を変えて朝のうちに観光に来たのが正解だったようで、道路を横断して全景を写真に撮ることが出来た。が、逆に朝早いために、日が昇りきっておらず下半分が暗くなってしまった。
  ところで、この風の宮殿実はほとんど壁だけのように薄い。上の写真で、最上段とその下の部分のまどからは青空が透けて見えるのがおわかりになるだろうか。つまり奥行きはほとんど無いのだが、その裏側の写真が右のもの。あとで訪れたジャンタル・マンダル(14-6)から遠望したもの。
 
14−3 アンベール城の象(0815〜0835)
 アンベール城まではジャイプールから11qあるという。そのアンベール城へ向かう途中出勤する象さんとすれ違いながら象乗り場に着く。既に綺麗に飾りを付けた多くの象が行列をなして待っていた。反対に人間の方の行列は、予想したほどのことはなく、殆ど待ち時間もなく乗ることが出来た。やはり観光客は激減しているのだろうか。
 象の高さと同じに造られた台まで行って待っていると順番に象が来て客を乗せる。以前タイで乗ったときには、前向きに座ったのに、ここでは横向きにお尻から乗せていく。乗っている間何度も真ん中へ乗れ、と言われたのだが、お尻をずらしながら乗らなくてはならないので、これが結構難しかった。
 歩き始めると揺れる揺れる。「こえぇー・こえぇー」と叫びながら枠にしがみついた。城に行くまでの道は結構な急坂なので、更に怖さが増幅してくる。また、その道も曲がりくねっている。これは当時戦いに備えての事のようだ。途中にいくつかの門もあり、これも攻められたときには閉めるようになっていた。
 こんな道なので、とても写真を撮るなど出来なかった。その我々の様子を見て沿道の人が笑うが、笑われたってどうしようもない。途中に写真屋さんがいてその様子を写真に撮っていた。
  城に着いて下りるときにチップとして50ルピーを渡す。他には渡さなかったので、これが料金?それとも乗る前にチケット売り場のようなところでチケットを買ったのかな?すべてガイドさんに任せっきりだったので・・・不明です。
 我が家はすぐにお金を渡してしまったが、隣では下りた所にお金を置いて象に取らせていた。鼻でくるっと巻いて取り、主に渡す。上手なものだ。
 ところで象はどのような道を上ってきたかだが、後から行った建物の高い部分から俯瞰してみたのが最後の写真。こうしたジグザグ道を進む。当然にヘヤピンで曲がるとkろがあるので、そこでは象が大きくカーブをとる。捕まっていないと振り落とされそうだった。それからあまり広くない道を、からになった下る象が降りてくるので、それとすれ違うときにもお互いによけるからまた揺れることになる。因みに写真の左下にいる人が写真屋さん。
 さてそうこうして到着した場所は広場。パレードをやったりしたそうだ。ここから遠目に城壁が見える。万里の長城と比べるに値するほど長ーい城壁だ。これはこの後もよく目にした。

14−4 アンベール城(0842〜0945)
 アンベールは、当時この辺りを支配していたラージプート族の一氏族、カチワーハ家の王国の初めの首都が置かれて1727年ジャイプールに遷都されるまで続いた場所。
  元々あった砦を1592年ムガールのアクバル皇帝の軍司令官ラージプート族のラジャ・マン・スィン王によって大規模な築城が始められ、以後150年にわたって代々の王の時代に増築された。

14−4−1 入口
 さてさて象の興奮冷めやらぬ内に、アンベール城内の観光に向かう。
 場内へは広場からチャトリのある門柱?の間を通って初めの門に出る。上の写真の右手奥のところがそれに当たる。2階部分にベランダ付いている門で、その下の飾りは綺麗だ。


14−4−2 一般謁見の間
 門を抜けて出てきたところにある赤砂岩を使った建物。独立した感じがあり目立つ。1階は柱が並んだ吹き抜けの空間になっている。
 ここの柱の彫刻の模様はイスラム式の抽象的な装飾。そして柱の上の象は、ヒンドゥー教式。やはりここもイスラムヒンドゥーの両者が共存していた。彫刻が素晴らしいが、残念ながら柵(ロープ)がしてあって中に入ることは出来なかった。

14−4−3 ガネーシャ門
 当時は、一般人はここまでしか入れなかった。門にガネーシャの絵があることからこの名が付いた。2階部分の透かし彫りの窓からは涼しい風が抜けるように造られている。この窓からは王女が下を覗いていたらしい。ここには後で行って、実際に覗いてみた。
 天井にある飾りの模様はオリジナルのもの。入り口の所の門もそうだったのだが、象嵌というのだろうか、非常に手の込んだ細工が見て取れる。

14−4−4 鏡の間(勝利の間)
 ここもアンベール城のハイライトの一つ。色が白い所は修復の後で、城本体よりも新しく300年ほど前のもの。壁面に鏡をちりばめた幾何学的模様の装飾のあるのはイスラム式。ランプを付けると非常に綺麗に輝いたという。しかしながら今はやや色あせており、往事の姿は想像の域を出なかった。ただ、生活するには夏は暑く冬は寒いので適さないとのこと。
 ここに隠し絵があると言って紹介された。柱の下の部分にある花模様のレリーフがそれで、黒大理石の枠の中にある。いろいろな虫が隠れている。
 この隣の部屋には綺麗なステンドグラスの部屋があった。

14−4−5 他にもたくさん
 鏡の間と庭を挟んである歓喜の間は室内を水が回るように造られていて、たぶん王はここで涼しく暮らしていたというのだろう。庭園を取り巻くようにつながる廊下も素晴らしく、パステルカラーの色を使って彫り物が施されていた。足元には水を通したという水路があった。
 そこからハレムの方へ行く。そこへ行くときに抜ける部屋には綺麗に壁画が残されていた。ハレムはグルリと庭を囲むように造られている。それぞれの部屋は行き来が出来ないようになっていて、王が直接その部屋へ出入りできるようになっているのだという。つまり、王が今誰の部屋にいるのか他の女性にはわからない仕組みになっているのだそうだ。
  全体的な感想だが、像のタクシーという見せ物がある点を含めて、ここも世界遺産に登録されてもおかしくないほど充実していたと思う。
  そこから戻るときに、コブラ使いを見た。正面から写真を撮るとチップを要求されると聞いていたので、隠し撮りをした。随分とケチなこと。(でも添乗員さんがあとでチップを渡していた。)

14−4−6 写真
 全ての観光を終えて、帰りは象ではなく、ジープだった。そのときに、象に乗ったときの写真を持って売り手がやってきた。ちゃんと我々を見つけて持ってくるのは偉い、と思ったが、特に欲しいわけでもないので初めは断った。が結構しつこい。それはそうだろう、我が家の分に限っては3枚もある。それが無駄になるかどうかなのだから向こうも必死なのだろう。1枚50ルピーだったが、我が家も粘って3枚で50ルピーで妥協した。
  邦貨で100円3枚は可哀相な気もしたが、こちらも欲しくない物を買うわけだから、それだけでも手に入ると満足してくれ。(14-3の縦の象に乗っている写真もその時買った3枚の内の一つ。)

14−5 水の宮殿(1010〜1014)
 ジャイプールへ戻る途中、湖の中に浮かぶようにある宮殿を見るためにバスストップ。
 夏用別荘として建てられた宮殿。水の少ない時にはその姿が地上に出るらしい。
 ここを出て再びジャイプール市内へ戻る。

14−6 ジャンタル・マンダル(1027〜1052)
 ジャンタルというのは機械、マンダルというのはお経とか教えとか言う意味だと言うが、ここは天文台。1730年頃、ジャイプルの町を築いたマハーラージャ、ジャイ・スィン2世は、天文学者より天文学に凝っていた人だったらしい。その背景は占いを深く信じていたためで、それ故にこれらを造った。ここを含めて、デリー、ウッジャイン、バナーラス、マトゥラーなど計5ヵ所に建設した。
 大きさや形はいろいろだが、日時計になっている。
  入ってすぐ左にあるのは、真ん中にある階段の影で、20秒の動きまではかれるのだそうだ。左側半分が6時から12時、右半分が12時から6時を観測する。目盛りは北極星を向いている。ただ、インドの標準時刻とは時差が出るそうだ。
 一番大きいのは、その隣にあるサムラート・ヤントラと言われるもの。高さ27.4mもある。これは、2秒までわかるという。すごいものだ。(一番最初の写真)
 他にも丸形の観測儀や地下式になっている物などがある。この地下式になっている物など、北半球と南半球になっているというのだから驚きだ。既にこういう知識があったと言うことなのだから。ただこの王様本当に興味があったらしく、ペルシアやヨーロッパの書物を集めたり、中央アジアのウルグ・ベクの天文台なども参考にしたりしたというからかなり勉強もしたようだ。
 一番面白かったのは、星座ごとの観測儀。自分と同じ星座のところで記念撮影しようとしたら、何とnoriと同じ蟹座の人がガイドさんも含めて他に3人もいたのだ。つまり、7人中4人が蟹座。そのうちの一人の人はnoriと同じ誕生日。こういうこともあるのだなあ。

14−7 シティパレス(1054〜1237)
 サワーイー・ジャイ・スィン2世により1726年に造られた、ジャイプルの町の中心に位置する建物。イギリスの植民地時代の物で、初めて平地に造られた城。このマハラジャは上納金を払ってイギリスとは戦わなかったそうだ。ガイドさんによると各地でイギリス人が入ってきて仕事を無くして困っていた職人達を集めて仕事をさせたという。更紗、象牙、宝石などを扱う技術者が集まり、よい仕事が出来たそうだ。その言葉通り、あちこちに素晴らしい装飾が見られる。
  旗の立っている7階建ての建物は、現マハーラージャの住居。かなり高いお金を払うとその一部に上れるらしいが、そうでなければ見る事は出来ない。
  門を入ると大きな木があった。アショカ王の名から来て、そのままアショカの木というのだそうだ。
建物はムバーラク・マハルという館。元々は客用の建物だったが、今は織物の博物館となっている。おもに歴代のマハーラージャたちが使っていた衣類や宮中で使われた楽器などが展示されている。9kgもの金糸を使ったマハーラーニーのサリーやマハーラージャが寺参りに行くときに着たサンガネール染めのローブなどがある。展示品のなかで特に目を引くのが、シタールの後ろに展示されている真紅のガウン。残念なことに撮影は禁止なので、記録はない。右の写真はパンフレットから。
 ここを出ると、同じ中庭には絵画や写真が展示されているアートギャラリー、武器博物館がある。ここには、昔から使われてきた武器が展示されているが、刀で歓迎の文字を作っていたり、武器だらけで圧倒された。ここも撮影禁止。ただ、飾られているのは、武器だけではなく、壁画や天井画も素晴らしい。金も豊富に使われていた。左もパンフレットから。
  博物館がある中庭からラージェーンドラ門を通って行くと、正面に豪華な建物がある。これがディーワーネ・カースと呼ばれる貴賓謁見の間。入口に衛兵がいて、盛んに写真を撮れと言うが、またチップなどと言うことになると面倒なのでやめた。中に入ると二つの大きな銀の壷がある。また、衛兵がポーズを取るので、写真が撮りにくくてしょうがなかった。これは1902年、エドワード7世の戴冠式に出席したマハーラージャがイギリスに旅行に行く際、持って行ったといわれるもの。これで沐浴したのだそうだ。
  それからサバニワースという建物に入る。絨毯が敷かれ、椅子が周りに並べられている。ここも内部が立派で、透かし彫りのある柱や金をふんだんに使った壁画など、天井や壁も見応えがある。シャンデリアはベルギー製。ここも撮影禁止。左はパンフレットから。
  外に出て戻る途中、また蛇使いがいた。

14−8 昼食(1251〜1410)
 またもやカレーの昼食です。
  写真レストラン内部ですが、ブレブレのものしかなくてすみません。ここは外国人相手のレストランの風でした。

14−9 ホテル休養(1450〜)
 今日の夕食は外のレストランへ行く。その時間までまだ余裕があったので一端ホテルへ戻った。今日も結婚式のようなことがあるらしく、入口には花びらがまかれ、楽隊の生演奏が行われていた。
  今夜も賑やかなのか?・・・「賑やか」恐怖症になっている我々。
休養時間を利用して絵はがきを作成投函した。因みに印度からの絵はがきは全て届いた。

14−10 バザール(1806〜1903)
 夕食会場へ行く途中にバザールへ寄った。そこはちょうど風の宮殿の辺りなので、まずは宮殿の写真を撮る。三日月の明かりに照らされて、朝とはまた違った趣があった。ライトアップされるといいのにねえ、などと贅沢なことを言ってバザールへ行った。
  バザールと言っても商店街のような所。道に面してお店が並んでいるのを見て歩くのだ。雑然とした感じはなかった。
 ここの目的は一つ、「たまりんどう」の飴を購入するためだ。これがなかなか手に入らない。というか市場には存在していないようだ。ちょうど合流した添乗員さんが何軒もの店の人に聞いてくれたのだが、結局は希望したような飴は手に入らず、代わりの物を購入した。たくさん買ったので、おまけもしてくれた。他の店ではカレンダーを買った。これは交渉しても負けてくれなかった。
店の人は皆気がいい人で、店を訪ねるときにも親切に教えてくれたが、我々の飴を目当てに近づいてくる物乞いの少年達には厳しかった。私にくれた分くらいのあげてもいいのにと思うが、多分毎日のことであろうから、それでは商売にならないのだろう。日本では決して目にすることのない光景だ。
  バスへ戻るときにまた風の宮殿の前を通ると、何と一部ではあるが明かりが灯されていた。そこのステンドグラスが綺麗に光っていた。オオッーと言いながらも、もう少し光を!と願った。

14−11 夕食(1935〜2035)
 夕食はインドの伝統舞踊を見ながら、という触れ込みだったが、たいしたことの無い舞踊だった。
  踊り手はたったの二人。そのうちの一人がメーンで一人は助手のようなもの。華やかさは感じられなかった。というより頭に壺を乗せて、立ったり座ったり踊ったりと曲芸まがいのことをチョコッとしただけだった。ウズベキスタンのホテルのレストランで普段は給仕をしているおばさん二人が民族舞踊と称して踊ったのを思い出した。適当な間隔で何度もショーは繰り返されるらしく、食事が終わる頃にはまた同じ出し物を、新しく来た日本人の団体30名くらいの方に向かって躍りを繰り返していた。
 一方食事の方はやはりカレーだったが、見せ物がまぁまぁだった割には味は悪くはなかった。ちょっと惜しい気もするが、食事に専念してもよかったように思った。明日は帰国日なので、アルコールの方は差し控えた。

14−12 ホテル着(2105)
 ホテルに戻ってくると中庭のプールサイドでパーティーが行われていた。またか・・・と思ったが、存外静かだったのでほっとして部屋に入った。
明日はもう帰国することになるので、荷物の整理をした。今回、酒類がなかったので他にあまりお土産を買っていないので、荷物の点では重量の心配はないと思うのだが、資料が増えているか・・・。