12月30日(火) ガヤ〜コルカタ〜コルカタ観光
ブッダガヤ・ホテル出発(0030)・・ガヤ駅着(0048)・・列車:ガヤ駅発(0325)・・コルカタ:ハウラー駅着(1406)・・昼食(1425〜1500)・・インド博物館(1538〜1630)・・マザーハウス(1645〜1707)・・カーリー寺院(1748〜1816)・・コルカタ ホテル着(1900)・・夕食(2000)
11−1 ホテル出発(0030)
日付が変わった頃添乗員さんから連絡があった。やはり4時間遅れ到着するらしいということで、とりあえず駅へ向かうことになった。用意をしてホテルを出た。
外はかなり寒いので、たくさん着込んだ。
11−2 ガヤ駅着(0048)
駅へ着いてびっくりした。こんなに遅い時間なのに、駅は人出あふれかえっていたのだ。勿論列車を待っている人が多いのだろうが、そうとは思えないような人もたくさん見かけられた。つまり、駅舎がねぐらになっているのだ。わずかに人が通れるくらいのスペースを残して、人々がびっしりと横になって寝ている。駅にはドミトリーもある。
ふきさっらしのホームにも寝ている人がいた。
11−3 列車 ガヤ駅発(0325)
<列車番号3010 車両番号B2 座席 5・6>
ようやく列車が着いたのは、3時15分。我々が駅へ着いてから、実に2時間半も経っている。寒かったぁー。
急いで乗り込む。我々の番号は5・6というのは三段ベッドの上と中になる。60歳以上は上には乗せないと聞いていたのだが、席が取れなかったのだろうか。何しろ、インドの列車は座席を取るのには名前をきちんとわかってからでないと取れないと言うことだ。皆がバラバラの席なのも、はっきりわかった人から席を押さえたから、と言っていた。つまりはキャンセルが出来ないと言うことなのだろうか。でも、前回の時に、我々はキャンセルしたのだが。
そうして乗り込んだ席だが、ベッドの下はもう荷物が入っていたので、これまでのように詰め込むことが出来なかった。それでも終点の駅まで行くので、降りるときに慌てなくていいので気楽だ。
junが一番上に、noriが中段に席を取った。他の人の席は複数で寝取られていたそうだが、我が席は勝手に乗り込んでいる人がいなかったので良かった。ただ、寝ていた人はいたようで、枕とシーツは乱れていた。そこで新しい物を毛布と共にもらって、ベッドを作り睡眠に入った。
11−4 車内騒動
junはそれから直ぐにぐっすりと寝込んだのだが、明け方ややうるさくて目が覚めた。
11−4−1 うるさい夫婦
noriの向かい側と下に寝ている夫婦がとんでもない輩だった。まずは大きな声で話している。ことに携帯電話で話すときなど耳をふさぎたくなるほどの大声だ。次に荷物をnoriの枕元にぶら下げてあって結構邪魔なのだが、noriは文句を言うこともなくいて、そこに自分の靴もぶら下げようとしたらその大声で文句をまくし立てる。思わずnoriが怒鳴り立てるとやっとおとなしくなった。(写真はその子ども)
それからしばらくして今度は旦那が怒鳴りだした。何事かというともう朝だからベッドを座席に直せと言う。そちらは我々より早く列車に乗ってゆっくり寝ただろうが、我々が乗り込んだのは3時を回ってからなのだ。まだ眠いのに、全くそんなことはお構いなくしつこい。そこでまたnoriが切れる。それでまた少しおとなしくなる。・・・もっとおとなしくなったのは我々が朝食を食べ出したときだった。我々の朝食はホテルメイドで、明らかに彼らの貧しげな車販の買い食いとの内容の差は歴然としていた。その差が明らかに彼らの動揺を誘ったようだ。我々が食べるのを盗み見ていた。何とも複雑な思いの駆られた。
11−4−2 ゴミ処理
仕方ないので、junも下に降りる。その後、あきれたのは、ものを食べると出たゴミは下へぽんぽん捨てるので汚い。いや、これはこの夫婦だけではなくインド人みんな。掃除する人がいるのだから構わないのだという。この考えにはついていけない。我々はきちんと自分で処理しましたよ。
確かに終点が近づいた頃、少年が床を這いつくばるようにして素手でゴミをかき集めていた。その少年は、最後にチップを要求して回る。我々の分は添乗員さんが払ってくれた。が、ゴミを出し続けたインド人は払わなかった。
11−4−3 身分格差(生きているカースト制度)
その夫婦とは別にもう一組の家族が向かいの上中の席を占めていた。この旦那は、先の4−2の争いの時に、自分たちの一番上の席を使ってくれと言ってくれたのだが、子供を二人連れていた。上の子は下の子の世話をとても良くしていたのでjunは感心しながら見ていたが、服装の違いには戸惑っていた。後で添乗員さんにきくと、上の子は兄ではなくて召使いなのだそうだ。12,3歳にしか見えない子が、既にそんな役割を果たしているのかと驚いた。そういえば、先ほどの掃除の少年もそんな年頃で、着ている物はとてもみすぼらしい物だった。それに対して文句を言う夫婦の子どもたちは、別の席にいたのだが、二人ともとても綺麗な服を着て、いい靴を履いていた。
11−5 コルカタ ハウラー駅着(1406)
終点のハウラー駅に着いたのは、予定の7時を大きく回った14時6分。実に7時間の遅れに拡大していた。疲れたの一言に尽きる。
ようやく着いた駅は大混雑。人をかき分けてスーツケースのあとを付いていくのも大変なほどだ。ずいぶんと大きな駅だ。
これでこれから昼食と観光というスケジュールになっている。
11−6 昼食(1425〜1500)
とは行っても、町中のレストランへ行っている時間はとうていないというので、日本風に言えば駅ナカのファーストフード店のような所で昼食を摂ることになった。
これが意外と良かった。というのも、これまで見たこともないような食事だったからだ。春巻きのものすごく巨大な物の中にジャガイモのような具が入っている。皮はパリパリしていてなかなかいける。どうやら皮を使って中の具を救い、更にカレーを付けて食べるという趣向らしい。・・・この食べ物、「ドーサー」という名前のものらしい。中に入っているものがジャガイモのカレーの場合、「マサラー・ドーサー」となるらしい。(地球の歩き方05-06版)
が、いかんせんjunはあまり食欲は出なかった。一方noriは完
食した。ともかく最小の時間で食事にありつけたのはよしとしなければならないだろう。この計らいには感謝だ。
それからバスは市内へと急いだ。街の中心部は駅を
挟んで大きな川(Hooghly川)が流れていて、旧市街地へは橋を渡らなければ行けない。我々が降り立った駅はハウラー駅という駅で、かつては鉄道が川を渡すことが難しかったので、川で行き止まりみたいな駅を作ったものと思われる。ともかく観光する場所もホテルも全て対岸なので、渋滞の中を橋を渡るという迂回を最初にしなければならない。
googleの地図は今回訪れたところを中心としたコルカタの地図。ピンクの目印がハウラー駅。一番右端の青い目印がマザーハウス。一番下が「カーリー寺院」と「死を待つ人の家」。その上がホテルで更にその上が最初にめざした、「インド博物館」。
11−7 インド博物館(1538〜1630)
インド博物館は、1814年創設のインド最古にして最大の規模を誇る多目的博物館。絵画、彫刻をはじめ、民族学、地質学的な展示品も多い。2階にはミニアチュール絵画、更紗、衣装、部族民の民具などが展示されている。収蔵物は全部で5万点にも及ぶ。
ゆっくり見ると2日は必要、最低でも半日はいる、とまでいわれる博物館をたったの1時間弱で見る事になる。何しろ閉館時間が4時半となっているからだ。
急いで説明をしてもらった。仏像が並んでいる廊下を通って初めに行ったのはトラナの並んでいる部屋。イスラムよってバラバラにされていた物を1875年に発見して組み立てたという。これにも釈迦の誕生から始まる生涯が、大乗仏教と小乗仏教の混在した彫刻で飾られている。
その後自由時間ということだったが、直ぐに閉館の知らせがあって結局これだけ。4時半の閉館なのに、その5分前から鐘が鳴り出して追い出しがかかった。
11−8 マザーハウス(1645〜1707)
1979年ノーベル平和賞を受賞したご存じマザーテレサが晩年を過ごした家。1997年に亡くなるまで活動の拠点だった。そして彼女は今でも見守るようにここに安置されている。
靴を脱いで入る。写真撮影は禁止だが、彼女の墓とブロンズ像だけはOKだった。
墓はやや広い部屋の中にあり、そこには祭壇と祈る場所が設けられている。常にここでお祈りをしているらしい。
実際に生活していた部屋も見ることが出来るのだが、これも時間切れで見る事は出来なかった。
帰りに資料をもらった。
11−9 カーリー寺院(1748〜1816)
コルカタ(カルカッタ)は以前首都だったということもあって、開けた町だ。市電が走っていたのには驚いた。それでも車は容赦なく走り回っている。
既に日も落ちてしまい、すっかり暗くなってしまった中、カーリー寺院近くに着いた。両側にお土産物やさんが広がる中を進んでいくと、参道へ入る所には警備員がいる。チェックはなかったが、ここからもう写真は禁止だ。外観も写せない厳しさだ。と言っても、暗すぎて肉眼でもよくわからない。したがって一番最初の写真以外の二枚の掲載の写真はWikiPediaからの引用。
狭い通路を通って寺に近づいたが、勿論中には入れない。夜だというのに参拝客で賑わっていた。参拝者の多くは手に手に赤い花を持っている。特にハイビスカスの花が好まれるという。赤は血に通じるということのようだ。ここでも「赤」が大流行。
シバ神の妻パールヴァティーの化身であるカーリーはコルカタの守護神とされている。カーリーは血を好む女神として知られており(12月28日のドゥルガー寺院を参照)、境内では毎朝、生け贄として山羊の首がはねられる。それをやらないと人々の祈りは始まらないのだという。
かつてお祭りの時には、すぐ前のカーリーガートで、3日間で7,800頭の山羊の首がはねられ、その血が捧げられたという。コルカタ、というのはこのカーリーガートにちなんだものと言われている。左はご神体?のカーリー神であるが赤で飾られているのがここでも判る。ただ寺は上の写真から判るようにドゥルガー寺院のように赤色で塗られてはいないようだ。
何故この様になったのかというと・・(ガイドさんの説明による)・・破壊の踊りを始めたカーリーを止めるために、シバは彼女を殺してその遺体をバラバラにして撒いた。それは52カ所にもわたり、ここにはかかとの部分が落ちた。そのカーリーを慰め供養するために生け贄をするようになったとのこと。神様って死ぬの?って思ったが、それはちょっと聞きそびれた。52ヶ所というのは、全部場所が判っているのかということは聞いたが、それの答えは「Yes」だった。その全部がこう言うような場所になったかと更に聞いたが、そこの答えはあやふやだった。
一回りしてから狭い通路を通って外へ出て、最後の見学場所の「死を待つ人の家」へ向かった。
11−10 死を待つ人の家
カーリーガートも観光コースに入っていたのだが、何しろもう真っ暗なので行かなかった(と思われる・・・割愛説明はなかった)。代わりに直ぐ目の前の「死を待つ家」へ行った。
マザーテレサが作った家だ。もともとはヒンドゥー教の朽ちかけた寺院だったところを改修して現在のあの形にしたらしい。男女別になった部屋にはベッドが並べられ、その殆どが人で埋まっていた。が、瀕死の重病人のような感じではなく、自分で歩いていたりする人もいた。が、外からだけではわからないそれぞれ事情があるのだろう。家の門の外には、そこに入れなかった人なのか順番を待っている人なのか、そのような人がたくさんいた。
あの、死を待つ人の家については、「KOG」さんの旅行記を見ると詳しい。彼はここでボランティアとして旅の途中に従事した経験を語っている。
11−11 ホテル着(1900)
HINDUSTAN INTERNATIONAL ★★★★★ 311号室
※ミネラル有り。ウエルカムフルーツ・チョコレート有り。シャワーのみ。シャワー室から水があふれる。一応クレームをホテルの人に言うが、勢いが強すぎるのだろう、で終わり。要するにあまり水を出すなと言うことらしい。トイレの水が流れない。他と同じ形態なのに流し方が違っていたのでわからなかった。
食事の時に添乗員さんに立ち会ってもらって係の人に来てもらったのだが、帰った後シャワー室からあふれた水の上を汚い靴で歩いたのだろう、トイレの床が汚く汚れていた。バスタオルで拭き取った。サービスが悪い。その意味では5つ星とは言い難い。
11−12 夕食(2000)
夕食は良かった。ビュッフェなのだが、オープンキッチンのように調理場が客から見えるようになっている。できあがった料理も、客席との仕切りの部分に大皿に盛りつけて並べてあり、常に残量をチェックしている。品数も多くてとても全種類は食べられなかった。その上にデザートの豊富なこと。食事に関しては最高だった(ただそれだけに我々は飲まなかったが、アルコールの料金は飛び抜けていたようだ)。
11−13 雑感
長い列車の旅を終えて、大急ぎの観光だった。それほどまでにして来るだけのものであったかというと、否、である。博物館などひどいものだ。まったくただそこによっただけという感じだった。カーリー寺院も殆ど見えなかったし。しかも明日の出発は朝の4時45分。一寸無理な日程ではないか。
それに列車はテロとまでは言わないものの、線路状態も悪くかつ遅れを取り戻そうとするので、危険もつきまとう。実際に帰国してから大きな脱線事故があった。