12月28日(日)
ベナレス市内観光〜サールナート〜ベナレス
起床(0500)・・ベナレス ホテル発(0603)・・ガンジス川着(0617)・・船(0647〜0717)・・ヴィシュワナート寺院・・ドゥルガー寺院・トゥルシーマーナス寺院(0820〜0845)・・ホテル(0905)・・ホテル発(1030)・・サールナート ムルガンダクティー寺院(1055〜1130)・・ダメークストゥパ遺跡公園(1140〜1245)・・博物館(1250〜1350)・・ムルガンダクティー寺院(1400〜1215)・・昼食(1420〜1500)・・ベナレス ホテル着(1530)・・夕食(2000)
9−1 朝
結局夕べはずうっとうるさかった。週末ということで何かのパーティーでもあったらしい。いや、結婚式かもしれない。今がシーズンらしく、これまでにも何度かその場面を目にしていたから。
そんなことはともかく朝はやっぱり早起き。それから、朝風呂に入る。どうも夕方はお湯が出ずらい。皆一斉に使うせいかもしれない。朝は熱いくらいのお湯が出るので、快適だ。
今朝は朝食前にガンジス川へ行き周辺の散策もする。寒さ対策をばっちりして出かけた。
9−2 ガンジス川(0617〜0717)
今朝はリキシャではなくバスでガンジス川に向かう。朝早いせいか道は昨日とは打って変わって閑散としている。これなら大丈夫だ。快調に走っていった。
前回の時には、沐浴へ向かう人であふれかえっていた道も、今日はそのような人を殆ど見かけない。理由を尋ねると、寒いのでもっと暖かくなってから来るのだそうだ。
時間調整と暖をとるために、夕べと同じ店で、またチャイを飲む。
その後、ダシャーシュワメード・ガートから舟に乗ることになる。付近には夕べの名残がまだ残っている。大きな取水塔?にはラクシュミーとシバ神の絵がいっぱいに描かれていた。シバ神の頭部には、ガンガー降下の場面がある。(天界から落下する激しい水流をシバは頭髪で受け止め、ガンガーは地上に降りてきた。)
舟に乗って川を上ったり下ったりしても、殆ど沐浴をしている人を見かけなかった。確かにこの寒さでは二の足を踏むのだろう。日本のような寒行というような風習はヒンディーにはないのだろうか。おまけに霧が深いということもあって、見通しもあまりよくない。残念。
やはり物売りの船が近づいてくる。同乗の人が、花の舟(灯籠)を買った。そしてそれに火を付けて流した。舟は葉っぱで出来ているので、やがては沈んで消えていく物なのだろう。それを流す前に三度ほど自分の前で回しながら願い事をするのだというので、5ルピー(邦貨10円)を惜しんで買わなかった我が家はそれに便乗させてもらって、願い事だけした。と、その願い事が重すぎたのか、一人の人の花の舟は直ぐに沈んでしまって申し訳なことをしたと思った。
そのうちに太陽が昇ってきた。霧の中にぼやっと浮かんでいる姿が見えるだけで、前回の様な切れの良さはなかったが、これはこれで神秘的とでも思えば絵になる。
我々の乗った舟は、マニカルニカー・ガートへ着いた。ここは火葬場の一つで、写真は厳禁。マニカルニカーとは、「宝石の耳飾り」ということ。シバ神の耳飾りが落ちたところだという。薪がうずたかく積んである横を通り過ぎていった。写真は駄目という上に、物売りがしつこくつきまとうので、それを払うことにのみ気を奪われ、このガートの様子をよく見ることが出来なかったが、今日は薪に火が付いていなかったような気がする。立ち上る煙が見えなかった。霧のせいか?
9−3 散策(0717〜0845)
その後町を散策する。足元には牛の糞が大量にあるので要注意だ。しつこい物売りもそんな所は「大きなうんこ」と叫んで注意してくれる。
道の途中途中に、日本でいう祠になるのだろうか、そのような物があってヒンドゥー教の神が祀ってあった。宗教が生活にしっかりと根付いている様子が見て取れる。
9−3−1 ヴィシュワナート寺院
少し歩いて行くと、ここから先は写真は駄目という路地に来た。そこは今までとは様相が一変し、銃を持った人が複数立って見張っている感じだった。どうして?と思いながら進んでいくと、ある店(サリー用の布を売る店。ベナレスは絹のサリーの生産地として有名。)に着いた。そこで持っている物すべてを預けるように指示された。カメラも財布もすべて預けた。
これからヴィシュワナート寺院へ行くためだ。聖都ベナレスの中心地として、またシバ信仰の中心地として、全巡礼が目指すのがヴィシュワナート寺院。開基は5世紀に遡るが、12世紀以降イスラム教徒の攻撃によって数回破壊されており、大伽藍はアウラングゼーブによって破壊(1669)され、モスクに改造されてしまった。この破壊した残骸を使ったモスク(Gaynvapiモスク)は現在もそのそばに立つ。現在のものは18世紀後半(1776年?)にAhilya Bai Holkarという人(地方豪族?女帝)によって再建されたもので、ローカルガバメント(ウッタル・プラデーシュ州)によって1983年1月28日より管理されているらしい。別名黄金寺院と呼ばれ、本殿ともう一つのドームは金箔で覆われているが、これは1839年に金1000sを使ってMaharaja Ranjit Singhによって装飾されたもの。政府によって三番目の建物も現在黄金化の計画があるようだ。ということで、イスラム教徒の襲撃から守るために警戒が厳しくなっているのだそうだ。写真は Varanashi City Guide から。
門へ近づく入口では厳重なボディチェックがなされる。ポケットに物が入っていれば、これは何か?と説明を要求されるほどだ。
そんな厳しいチェックを通過しても、門の所まで行って戻ってくるだけ。あっという間の時間だった。何が何だかよく分からなかった・・・しかし、このお寺実はwebサイトを持っているのだ。ちょっと驚き。このページの表紙を見ると、黄金寺院とは言うけれども後から行ったコルカタの「カーリー寺院」のドームの輝きほどはない。我々も黄金寺院というので金ピカを想像して塀越しに見たわけだが、認識に至らなかった。あの尖塔が寺だったのだろうという印象しかない。真鍮の鈍い輝きという感じ。
さて寺院の中で何が行われているかだが、リンガ(高さ60センチ円周90センチ)は一辺1メートルくらいの池の中にあり常にガンジス河の聖水がかけられ、そこに信者たちは花を供して祈っている・・・これをDARSHAN(聖なるものへの接近?ダルシャン、聖なるものを見ること近づくこと触れること)というらしい。写真は寺へ向かう途中の祠で撮影したものだが、おそらくはこういうものなのだろう。この模様は実況中継されている。恐るべしインドヒンドゥー魂。
9−3−2 ドゥルガー寺院
大通りに出てバスを待ち、ドゥルガー寺院へ向かう。
ドゥルガー寺院はかなり大きな人造と思われる池の畔にある、シバ神の妃パールヴァティの化身ドゥルガーを祭った寺院で、18世紀にベンガル州のマハラジャの妃ラニー・バによって建立された。血を好むドゥルガーを祭っているため外壁は赤く塗られている。本当に何もかも朱色に塗られているという感じだ。神の求めるものなら、好むものなら何でも・・・というすさまじい宗教観と、それに応じることによる現世或いは次の世の利益追求のすさまじさを感じる。かつては生け贄として山羊などの動物を捧げていた。その首切り台もあった。最近では殆どそのようなことはなく、ココナツの実を割ることで代行しているのだそうだ。
ここはモンキー寺院という別名が付くくらい寺の周辺にはたくさんのサルがうろついているという事前情報があったが、全くお目にかからなかった。
そしてここも中に入るのは当然として、写真も一切駄目、ということで、少し離れた所から外観だけ撮影。
9−3−3 トゥルシー・マナース寺院
「ラーマーヤナ」の主人公である王子ラーマと妻のシータを本尊とする寺院。白大理石でできた本堂内部の壁には、「ラーマーヤナ」の詩とさまざまな場面の絵がびっしりと書かれている。1964年(つまりは東京オリンピックが開催された年)建立と言うからかなり新しい部類の寺院。もちろんヒンドゥー教の寺院だが、誰でも入ることが出来る。ただし、外観も含めて一切の撮影は禁止。右の写真は flickr.com から。
9−4 ホテル(0905〜1030)
朝の散策を終えてホテルへ戻った。これから遅い朝食となる。レストランはさすがに人が少なかった。軽く済ませてから荷物の整理をする。といっても、連泊なので簡単。
9−5 サールナート
仏教における四大聖地(*)の一つであるサールナートまではバラナシからはそう遠くはない。というか、サールナートはその郊外と言ってよい位置にある。ここは仏陀の時代は著名な瞑想の地であったらしい。
ここも2回目の訪問となる。まだ記憶が残っているうちの再訪は懐かしい感じがする。
*仏教四大聖地・・・釈迦生誕の地ルンビニ、悟りを開いた地ブッダガヤ、初めて説法をした地サールナート、入滅の地クシナガラを言う。
9−5−1 ムルガンダ・クティー寺院(1055〜1130)
初転法輪寺と訳されることも。1931年にスリランカの人によって再建された。中にはびっしりと釈迦の生涯が壁画として描かれている。それを描いたのが日本人の野生司香雪。日本寺とも呼ばれることも。実際寺の入り口には日本から持って来たとおぼしき釣り鐘があった。ということで日本人が多いかと思ったら意外と現地の人の方が多かった。台湾在住の同行の人は、台湾人もいると話していた。
ところで、野生司香雪がどのようにしてこの壁画を描いたかだが、そのいきさつはここに詳しい。
建築様式(外観)的には、主殿は大菩提寺の形式を採用しているように思われる。三蔵法師(玄蔵)の大唐西域記では高さが60メートルを超えると記載されている(ムルガンダ・クティー寺院跡で言及)から、元の高さほどはなさそうだ。ただ形式的には尖塔形式にでもしなければ稼げないだろうから、まぁ巨大なレプリカを作ったと思えばよいかも知れない。
noriは早速釈迦をまねて瞑想してみたが、悟りはムリムリ。
9−5−2 ダメーク・ストゥーパ遺跡公園(1140〜1245)
以前ここは森林だった。仏陀が初めて説法をした所(初転法輪の地)であり、仏教徒にとっての重要な聖地だ。先に書いたように仏教四大聖地の一つ。
ブッダ・ガヤーで覚りを得た仏陀は、当時多くの宗教者が集まっていたベナレスを目指した。そして市の郊外の鹿野苑(現在のサールナート)に着いた後、かつてともに修行していた5人の修行者に出会い、自分の覚った真理を初めて語った。耳を傾けたのはこの5人と、森に住む鹿たち。ここで初めて「言葉」になった教えはその後世界へと広まっていくことになる。その意味で言えば、仏教が宗教として出発した場所と言うことになるだろう。
9−5−2−1 ダメーク・ストゥーパ
5世紀に造られた。中にはもっと小さなストゥーパがある。これは前3世紀に造られている。その頃から12世紀にかけてたくさんのストゥーパが造られたが、イスラム教徒が攻め込んできたときに破壊された。33mの高さがあり、そのうち9mがまだ地下に残ったまま。すべて掘り起こしてしまうとバランスを崩して倒れる危険があるのでそのままにしているという。1840年発見当時はすべてが埋まった状態だった。
表面には数々の文様が刻まれ、それが現代の仏教建築に用いられている。周囲の小さい8つの窓には仏像があったというが今はない。
周りにはチベットからの仏教徒達がたくさん来ていた。前で五体投地をしたり、ストゥーパの周りをぐるぐると回っていたりした。仏教の聖地の一つであるというのを目の当たりにした。
9−5−2−2 アショカ王の柱
柱頭までの長さは15.25mもある物だが、折れて柵の中に収まっている。砂岩で造られているが、磨きが入っているのはこれだけという珍しい物。
ここでアショカ王の柱について一寸。アショーカ王(在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。アショーカ王の柱、アショーカ・ピラー、アショーカ塔、阿育王塔はアショーカ王が建立したとされる柱あるいは塔。表面にサンスクリット語やギリシャ語が刻まれていることが多く、仏教の歴史の解明にかかせない貴重な資料である。釈迦の生誕の地(ルンビニ)は石柱が発掘されたことから特定された。石柱には、ここがブッダの誕生された地であることと、租税を免除することが書かれていた。これによって、釈迦が伝説上の存在ではなく、歴史上実在したことが認められた。また石柱にはさまざまな文章が書かれているが、現存する仏典と一致しないものも多く、仏教思想の変遷の跡が認められる。また、漢訳の仏典で菩薩に相当する部分が、石柱ではブッダとなっており、大乗の菩薩思想が登場する以前の資料としても注目されている。(以上『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
9−5−2−3 住居跡
赤煉瓦の色が残り、彫刻もある。これは1200年前の物。住居跡と説明された気がするのだが、宿坊か僧院跡なのかも知れない。
9−5−2−4 MULGANDHA KUTI(ムルガンダ・クティー寺院跡)
玄奘の記述にもでてくるムルガンダ・クティー寺院(初転法輪寺)は元々はここにあった。金箔の付いている所が本堂にあたり、そこからダメークストゥーパの方へ行く道が、今は階段となっている入口まで続いている。その両側には小さなストゥーパがたくさん並んでいる。これらを見るとかなり大きな寺だったようだ。三蔵法師(玄蔵)の大唐西域記では高さは200尺で僧徒は1500人と書かれている。
9−5−2−5 PANCHAY TAN
5人の僧が集まって協議した所ということで、柵に囲まれた石の形は卍型になっている。
右の写真の金色に光っている部分、更に一つ前のムルガンダ・クティー寺院でも見られる鈍く光っている部分は金箔が貼られている部分。敬虔な仏教徒(主にタイからと言う)が貼っていくらしい。
9−5−2−6 ダルマラージカ・ストゥーパ
ダルマラージカという名前は実はここで聞くのが初めてではない。前回来たときもそのことには気がついていた。実はタキシラ(現パキスタン)でこの名前のストゥーパにはお目にかかっているのだ。
現地のガイドさんにその意味を尋ねたが、添乗員さんの通訳を介してだからだろうが、どうもあまり伝わってこない意味だった。ダルマは仏教では「法」ということだろう。
9−5−3 考古学博物館(1250〜1350)
サールナートは北インドでガンダーラ、マトゥーラと並んで仏像制作が盛んになった所。この博物館はこの周辺から発掘された前3世紀〜12世紀の仏像などが所蔵されている。リュックに加え、カメラも持ち込み禁止なので、写真はない。入るときには勿論ボディチェックがある。
なお右の写真は前回訪れたときに撮影したもの。
9−5−3−1 入って直ぐの部屋
正面にアショカ王の柱頭に置かれていた4頭のライオンの像がある。これは前3世紀の物で、4頭のライオンは4人の僧が口を開けて四方に教えを説いている姿を象徴的に現しているのだという。足元には象や牛、馬、ライオンが彫られている。それぞれ、母、星座、出家、王家の紋を意味している。更にその下にあるのは蓮。これが柱の上に乗っており、高さは15.2mにもなるという。ここにある物は2300年前のオリジナルで、こうした物が他に7つある。(写真はWikiPediaより)
菩薩の像は紀元1世紀の物で、上野の西郷さんのようにがっしりとした体格だ。広げた足の間にライオンがいる。他にも大ストゥーパの両側にあったという菩薩が2体ほど置いてあった。すごかったのは直径が3mもあろうかと思われる大きな石の輪。菩薩の上の天蓋なのだそうだ。1枚岩で造られている。ただ、どの菩薩の物かは不明。
9−5−3−2 仏教の部屋
仏像がたくさん並んでいたが、中でも初転法輪印坐像は、穏やかないい顔をしていた。これはイスラムの攻撃を無事にかわしたらしい。光背の所に飛天がいる。5世紀頃の物で、仏陀の下には5人の僧と城に残してきた仏陀の妃と息子がいる(右の写真ではそのうちの一人は花で隠れている)。仏陀の家族ではなくてこの像を寄進した王妃とその息子という説もあるそうだ。
他にもTARAの女神やサンスクリット語の板?、祇園精舎を描いた板?なども展示してあった。
右の写真はレプリカ。これは何処のものかと言えば、最初に見学したムルガンダ・クティー寺院のご本尊。これは金ピカというか、輝いたものだが、実際のものは石像仏と思われる。偶然に残されて今に至る、グプタ朝時台の傑作と言えるだろう。博物館のものは、たとえばここで見ることが出来る。
9−5−3−3 ヒンドゥー教の部屋
当然のことだが、ヒンドゥーの神様達が並んでいる。ここのデータは残念ながらネット上でも見つけることが出来なかった。従って写真はない。
9−5−4 ムルガンダクティー寺院(1400〜1215)
またムルガンダクティー寺院に来た。先ほど来たときには、午前の見学時間が終わってしまって、釈迦の初転法輪の像を見られなかったからだ。釈迦を中心に5人の僧が話を聞いている場面を現している。周りにはいろいろな国から寄せられた仏像が並んでいる。たくさんの人がお参りに来ている様子もうかがえる。なのに、今まさにこれらの僧の色の塗り替え作業中。興ざめだ。
9−6 昼食(1420〜1500)
昼食は近くのレストランへ。おや?なんか見覚えがあるなと思って中へ入ると確信した。そう、前回もここで食べた。そのときにビールを飲むのに、他の人に見られないようにグラスをピンクの紙で包んで飲んだのを思い出した。
そのときは我々だけだったのだが、今日は結構込んでいたので、ビールの話は無し。黙々とカレーを食べた。
9−7 ホテル(1530〜)
RADISSON HOTEL ★★★★★ 103号室
連泊。暖房が入らず寒かった。旅も後半に入ってきて、洗濯もそろそろおしまいだからよいがちょっとした誤算。
それでも貴重な時間で、ゆっくりと休養をした。
9−8 夕食(2000)
junはそば(焼きそばのようなもの)があったので大喜び。パスタと違ってそばに近い感触なのでこの後も見つけると食べていた。