12月31日(水) コルカタ〜デリー(観光)〜アグラ

起床(0330)・・コルカタ ホテル出発(0452)・・空港着(0530)・・搭乗(0630)・・<インディアンズエアライン IC−263 27AB>・1回目飛行(0719〜0738)・・2回目飛行(0915〜1117)・・デリー空港着(1117)・・ ラールキラー(1255〜1400)・・昼食(1450〜1548)・・アグラ ホテル着(2036)・・夕食(2130)

12−1 朝
 飛行機で移動ということで朝は早い。昨日も書いたが、この行程は無理があり、コルカタには来なくても良かったと思いながら準備をした。朝食は食べる時間がないので、お弁当。昨日の夕食から考えても、朝はここで食べたかった。
  ところで今日は2008年最後の日。この一年間曲がりなりにも生きてこられたことに感謝。

12−2 空港着(0530)
 国内線の移動なので、また荷造りが大変だった。とりあえず電池類はすべてしまった。入口でまたチェックを受けて入る。今度は誰の荷物も引っかからなかったようだ。ボディチェックも簡単だった。その上に、リュックの水も無事に通過した。これで2勝1敗。
 しばらく待つことになるのだろうからと、お弁当を開いたが、あまり食指の動くものではなかった。それから、ロビーで1時間近く待たされた。写真は今回の添乗員さんを含むメンバー全員。
 
12−3 1回目飛行(0719〜0738)<IC−263 27AB>
 7時の予定が、6時半には搭乗開始というので、びっくり。それから少し遅れて19分に離陸。やはり定刻出発は難しいか、などと思っていると、どうも電気の状態が良くない。そのうちガガガーと変な音もするようになった。どうしたんだろうと思っていると、離陸したはずなのにどんどん降下して、結局着陸した。それまで何の説明もない。最も説明されて不安感を抱くよりは良かったかもしれない。
 とりあえず修理するということらしいことがわかってしばらく機内待機となった。

12−4 2回目飛行(0915〜1117)
 しばらく待たされた後、どうやらそのままこの機で行くらしいことがわかった。ようやく飛び立つ。今度は電気の調子も良く、変な音もしないので大丈夫だろう。
 飛び立って直ぐに昼食が出た。ベジとノンベジ。両方ゲット。でも、あまり食欲はなかった。

12−5 デリー空港
 無事にデリーに到着。ほっとしてスーツケースを受け取り、観光用に必要なものを取り出した。ここから午前中は二人だけの観光になる。というのも、今日予定のクトゥブミナールとフマユーンは前回訪れてしまっているので、その後新しく世界遺産に登録されたラールキラーに行ってみたいと、特別にコースを組んでもらったのだ。と言っても、飛行機の到着が2時間も遅れてしまったので、時間が少なくなってしまい、今日もゆっくりと観光することが出来ない。このことから見ても、昨日のコルカタは余計なコースだった。
 空港から出て現地ガイドさんと顔合わせをした。何と、前回個人ガイドをやって頂いた人だった。junがもしかしたら、と思っているうちに、あちらの方が先に気がついて声をかけてきた。2年も前になるのに、良く覚えてくれていたものだ。ラビさん、よろしく。
 そこからは車に乗っていくのだが、今回はトヨタのいい車だ。

12−6 デリー市内
 車で町の中を走っていると、とても綺麗で洗練された町並みになっている。車は多いが、信号できちんと統率されているので、あまり危険は感じない。ただやはりオートリキシャは多いが、荷車や牛がいない。ことに牛は、野良牛が規制されて、というより禁止されているのだそうだ。高いビルも多く、どんどん風情が無くなってつまりません、とはラビさんの言葉。
 とは言っても、これはニューデリーの話。オールドデリーに入ると、やはり昔のままの騒然とした町になっていた。
 そうこうしているうちに目的のラールキラーに着いた。

12−7 ラール・キラー(Red Fort/Lal Qila)
                            (1255〜1400)
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 ラール・キラーとは「赤い城」という意味。そのためレッド・フォートとも言われている。名称の由来ともなった城壁の赤い色は、建材として用いられた赤砂岩のものである。
 ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンによって、それまでアグラにあった居城を1639年デリーに遷都し、それから9年の歳月をかけて1648年に完成した。当時はムガル帝国の絶頂期で、ムガル建築の集大成とも言われている。2007年に世界遺産に登録された。見学した当時(2008年大晦日)印度でもっとも新しい世界遺産であった。
 1857年のインド大反乱を受けてイギリスは軍の駐屯地としてこれを接収。兵舎が建設されるなど、城内は大きく造り替えられた。インドの独立後も近年まで軍の施設として使用されていた。
  車を降りて、ラホール門の前に立つ。そこから見える城は本当に赤い。そして大きい。道は、この門から現在はパキスタン領となっているのラホールまで続いている(ラホールの方を向いているの意味か?)。当時はそれほど領地が広かった。

12−7−1 ラホール門
 ラールキラーには全部で4つの城門があるが、西側に面しているのがこの門。現在では全ての観光客はこの門から出入りする。元々は普通の城門であったが、第6代皇帝のアウラングゼーブ帝によって現在のような要塞の様な門構えに改築された。

12−7−2 バザール(チャッタ・チョウク)
 ラホール門を抜けるとアーケードになっていて、両側に店が並んでいる。かつては宮廷の女性のためのバザールであった。ゆっくりと覗いてみたかったが、何しろ時間がないので急ぎ足で通り抜ける。

12−7−3 一般謁見の間(ディワーニ・アーム) (Diwan-I-Am)
 周りには沢山の寺院があったが、その先の広場に面している。民衆が、皇帝に謁見していろいろな問題を直訴する場だ。正面に9、側面に3つのアーチが連なる長方形の建物。80×40フィートの広さを持つ講堂部分は60本もの円柱によって小分けにされている。柱は、一番前は二本組、中は一本となっている。
これも赤砂岩で出来ている。屋根の四方にチャトリ(小亭)という装飾がある。屋根の下から斜めに突き出した庇は、雨の多いインドにおけるイスラム建築の特徴の一つ。内部は豪華な天幕や壁掛け、シルクのカーペットなどで飾りたてられていたそうだ。正面には透かし彫りと彫刻の入った大理石でできた玉座が置かれている。当時はサファイヤやルビー、エメラルドなど色鮮やかな宝石がちりばめられていたそうだが、ムガル帝国の衰退によりその後の略奪で今ではシンプルな玉座が残っているのみ。ただ、近づいてよく目をこらしてみると、わずかにその名残りを留めているのがわかる。台座の後ろの壁は大理石の象嵌細工の施されたパネル。
 その隣に裁判所のような建物が続いてある。裁判を行ったり処刑したりした。イスラム教徒が進入してきた際に破壊された。しかし、その中のいくつかの寺院からは予め神々の像などを避難させたために、一部が残されている。ただし、これらはその後、平和になったはずの時代に盗難に遭ってしまったという。そう言えば、同じような話はオルチャでも聞いた。

12−7−4 貴賓謁見の間(ディワーニ・カース) (Diwan-I-Khas)
 城壁などは赤砂岩で出来ているが、庭園内の建物は全て白大理石で造られていてる。
 これも正面に5つのアーチが連なる長方形の白亜の建物。長方形の大広間になっている。内部は豪華な彫刻の入った柱に支えられている。屋根の四方にやはりチャトリ(小亭)がある。シャージャハーンが造った建築物の中で最も豪華なもの。
 柱には、タージマハルと同じように色石を使って花模様の象嵌細工が施されている。各柱の彫刻は微妙に異なる。それぞれの間はアーチ型になっている。天井にも装飾が施されているのに注目。この美しさに夢中になった皇帝は『この世に天国があるなら、それはここだ』と言ったそうである。しかし、1739年にかなりの部分がナディール・シャーによって略奪されたそうである。

12−7−5 ラング・マハル(彩りの間)(Rang Mahal)
 後宮として使用された建物。皇太后の部屋として使用された。6つの部屋に囲まれた中央のホールがある。

12−7−6 ハマーム (Hammam)
 ディワーニ・カースの北側に位置する風呂場。残念ながら内部は公開されていなかった。仕方なく扉の細い隙間から内部を伺うしかなかった。

12−7−7 モーティ・マハル (モティ・マスジッドMoti Masjid)
 ハマームの西側に面しているモスク。真珠のモスクという意味。こちらはシャージャハーンの息子で第6代皇帝であったアウラングゼーブ帝によって立てられた個人用のモスクである。1659〜60年の建築。
建物は白大理石で作られており、礼拝堂は黒大理石によってムサラスMusallas(礼拝用の小さいカーペット)の輪郭に象嵌細工されている。屋根は三つの球根上のドーム型をしており、元々は銅メッキされていた。

12−7−8 ナガール・カナ Naubat Khana
 別名ドラムハウスとも呼ばれた。ラホール門からかつて宮廷女官達が利用したチャッタ・チョウク(アーケード)を抜けディワーニ・アームとの間に存在する、3階建て長方形の建物。日本風に言えばここで下馬させられた場所らしい。下馬と書いたが下象だったかも知れない。ここでは客人が到着時セレナーデが演奏されたという。ここから先はプリンスだけが馬で進めたらしい(以上は主にユネスコの世界遺産評定時の評価レポートから)。時間が無くて見学することは出来なかったが、ここは現在は階上部分が戦争記念博物館War Memorial Museumになっている。

12−7−9 その他
 他にもいろいろな建物があったが、どれがそれにあたるのか良くはわからなかった。というのも、時間が少ないせいもあるのかもしれないが、ガイドさんが早くて、また日本語が今ひとつ聞き取りにくくて、あまりよくわからなかったというのが正直な所。
とにかく後で調べようと写真ばかり撮りまくった。帰国後資料を探したが、あまりいいのは見つからなかった。
最後にもう一つ重要なことを付け加えておかなければならない。ラール・キラーは実は現代インドでも行き続けている。1947年8月15日、ネールはここで独立宣言をし、そして現在に至るまで毎年印度首相は8月15日にはここで演説を今でも行うという。この独立の歴史には日本も幾ばくかの影響を与えている。

12−8 昼食(1450〜1548)
 他の人とはフマユーンで合流した。一ヶ所だけだった我々の方が少し早かったので、待っている間に、周辺などの写真を撮ったりして待った。
それから昼食場所へ移動。うちのガイドさんとはここでお別れ。添乗員さんに「チップは渡してくれましたか?」と聞かれた。当然用意はしていたが、イギリス人(というか西洋人)が支配していた地域はすっかりチップ社会なのだろうが、これが我々にはかなり厄介者。どこでもそうかな?と思っていたら、どこだったかの空港では「NO、チップ」と書かれていた所もあったけれど。
昼食のレストランは日本人を相手にしている所のようで、日本人の団体が他にも入っていた。味的にはかなりおいしかった。noriはここで、トイレの電気をショートさせた。ごめん。

12−9 ホテル着(2036)
        CLARKS SHIRAZ  ★★★★★ 121→202号室

※ジーヒーセット有り、シャワーのみ、ミネラル無し
すっかり暗くなってからホテルに入った。初めに入った部屋は、バスタブ付きのいい部屋だったのだが、うるさいなんてものじゃないくらいうるさい。というのも、今日は12月31日。ガラディナーの日だからだ。これについては、出発前にこのS社が開いている説明会で確かめた所、「インドにそういう風習はない」というので安心していたのだが、実はあった。それもどうやら庭にテントを張っただけの所でやるらしい。それがちょうど我が家の前に当たる。スピーカーからガンガンと生演奏と歌の音が響いてくる。これはたまらないと、直ぐに添乗員さんに苦情を言った。当初は、ホテルもなかなかうんと言わなかったようだが、ここは印度だという思いから我が家もしつこく申し出て、ようやく部屋変わりとなった。閑古鳥が何処でも鳴いていた今の印度だから満室などと言うことはあり得ない。変わったのは我が家ともう一部屋だ。そのもう一つの部屋の人も、バラナシで我が家と同じように夜の騒音に悩まされた人だったのだ。移った部屋にはバスタブがなかったが、それまでで疲れていたので、それで妥協した。静かなことがホテルの重要な条件の一つだと言うことを改めて言いたい。

12−10 夕食(2130)
 狭いテントの中にひしめくようにテーブルが並んでいた。おそらくはデリーで働いている外国人などが退去して大晦日の夜に押し寄せていると言うことなのであろう。食事はビュッフェ式なので、そこをぬうようにして食べ物や飲み物を取りに行った。飲み物は、ビールやワインなどが飲み放題だったので、我が家は赤ワインを飲んだ。
今年最後の夜ということで、年越しそばの代わりにインスタントラーメンが添乗員さんによって振る舞われた。この旅行社にしてはこれも細やかなサービスの一つだった。
  踊りも始まって、メンバーの一人もその輪に加わって、更にヒートアップしてきたのを潮時に、我が家は部屋に戻った。若い時代はともかくとして、もう旅も終わりの方なのでがんばれないこともなかったが、自重して深酒をすることもなく2008年最後の夜を過ごした。