12月26日(金) オルチャ〜カジュラホ観光

起床(0600)・・朝食(0700)・・オルチャ ホテル発(0803)・・トイレ休憩(958〜1012)・・カジュラホ駅(1149〜1201)・・カジュラホ ホテル着(1210)・・昼食(1310〜1418)・・カジュラホ寺院群 西群(1420〜1615)・・東群(1625〜1710)・・ホテル着(1715)・・夜の出発(1745)・・カジュラホ寺院群音と光のショー(1803〜1857)・・カジュラホ ホテル着(1905)・・夕食(1930)

7−1 朝
 今日は仕事納めの日。それは本来は28日があるが、27・28が土日にあたり、今年は今日で仕事納めとなる。片付けものなどを私の部屋ではしているのだろう。早めに休暇に入ってしまった身としては、何か申し訳ない気がしてくる。
  さてオルチャの朝は冷え込んでいる。一晩中心細い割には音が大きな電気温風暖房機が唯一の暖を取る手段だった。目が覚めても布団から抜け出せないままにいると、明け方アザーンが聞こえた。イスラム教徒が多い街と言うだけのことはある。
 起きてから昨日お湯がぬるくて風呂に入れなかったので、試しに出してみると十分に熱いお湯が出るので、朝風呂に入った。それから食事に行き、朝食を済ませてから建物の外庭へ出てみた。ホテルの建物はロの字型に作られている。炉の字の一辺一辺の中央にはホテル外壁に通じる切り込みがあり、そこから四方の風景を眺めることが出来た。それらからは、いくつかのチャトリ群が一望できた。朝焼けと朝靄に包まれたその光景は絵画的であった。
  今日は今回のコースのメーンの一つにもなるだろう、カジュラホに行く。カジュラホまでは175km、4時間から4時間半かかる予定になっている。(左の写真はジャンスィーからカジュラホへ向かう道で落ちちゃへ右折するところまで戻ってきたときの標識。)

7−2 道中
 長い道中、いろいろな物を目にした。
 インドには所々に水場がある。そこではよく体を洗っている人を目にした。また、水を金属製(たぶんアルミ製)の壺に汲んでいるのも多く目にした。その殆どは女性か女の子供だ。アルミの水瓶に水を入れて頭に乗せて運ぶ。慣れた人は2段にも3段にも重ねて運ぶ。手も添えない。頭に物を乗せて運ぶのは水だけとは限らない。この手法はここインドでも物を運ぶ手立てになっているのだ。
 また時期的に菜の花が満開になっていて、バスはしばらくの間菜の花畑の中を走った。バスの低い位置からはその雰囲気をなかなか上手く撮れなかったが、見渡す限り菜の花、といえるほどの広さがあった。これはまた他の地域でも見られた。菜の花の開花と我々の旅行期は完全に同期していた。菜の花の主な用途は油を摂っているとのこと。現地ガイドは「カラシナ」と表現した。
 途中、運転手さんの生まれた町を通過した。とたんに運転手さんは饒舌になり、交差点が多いとか古い教会があるとか、町の解説をしてくれた。
 しばらく行くとヒンドゥー教の寺院で停車。寺院と言うよりは、「祠(ほこら)」というべきだろうか。魔除けの寺だというので、早速noriはお賽銭を上げてお参りした。御利益があるといいのだけれど。
 インドならでは?のちょっとなぁ〜ということにも出会ったのは、警官に車を止められた時のこと。何だかんやと難癖を付けてお金を巻き上げるのだそうだ。強引に拒否して突っ切ることも出来るのだそうだけれど、後腐れのないようにと運転手さんは幾ばくかのお金を渡していた。払うとチケットをくれた。旧正月が近いので、祝宴のパーティー券を売っているという雰囲気らしい。日本の政治家のそれと同じで、上手いやり方なのかも知れない。
 
7−3 カジュラホ駅(1149〜1201)
 新しく駅が出来て、本日開通式という。その列車はデリーから来るそうだ。既に開通していて、列車の運行自体は始まっていたらしい。何という日にぶつかったのだろうか。道々にも記念のゲートなどが出来ていて活気を見せていた。運行鉄道大臣を迎えての式典があるとかで大勢の人が見に来ていた。
 我々はオルチャからバスできたが、この列車を使うことになると益々オルチャを通過してしまうことが多くなるのではないかと皆で心配した。
 Wikitravelによれば、一番都合のよいスケジュールはデリーを22:50に出る Dakshin Express に乗ってジャンシーまで行くことらしい。Dakshin Express は5:00にジャンシーに到着する。Jhansi-Allahabad 間の229列車にカジュラホ行きの229A列車が連結されていて?、ジャンシーを7:20に出て、12:10にカジュラホに着く。帰りは12:25に出て17:30にジャンシーに着く。この連絡列車は上下ともオルチャに途中停車する。デリーからの直通列車も計画されているとのこと。また、ムンバイやベナレスからの列車にも229Aは接続しているらしい。

7−4 ホテル(1210〜1300)
      RADISSON JASS HOTEL ★★★★★ 124号室

※ミネラル有り、コーヒーセット有り、バスタブ有り、衛星放送あり、無料インターネット有り。
 一旦ホテルに入って荷物の整理。勿論直ぐに洗濯。楽で助かる。

7−5 昼食(1310〜1418)
 ホテル近くのレストランへ。予約をしてあったのだが、なかなか食事が出てこない。日が暮れるのが早いので、やや焦り気味になる。添乗員が文句を言いに行く。どうやら我々の分を先に来ていた他の客に出してしまったらしい。カレーなので、大量に作ってあるのを温めて出すのかと思っていたが、そうではなかったらしい。

7−6 カジュラホ寺院群 200
 入口でセキュリティーチェックを受ける。持ち物の中身もオープンチェック。右の google map のオレンジ色が西群、黄緑が東群、クリームが南群。水色は施設を表示。
 カジュラホとはヒンディー語でナツメヤシの木という意味。この地方にはナツメヤシが沢山育っていたので、この名がついたという。より現地に近い発音で言えば、「カジュラーホー」らしい。10月から3月には村人の80%が観光業に携わっているそうだ。4月5月頃は気温が48℃にもなるため観光客は少なくなるという。ちょうど今は気候的には観光しやすいシーズンと言うことろうか。
 ここカジュラホは9〜13世紀にチャンドラ王朝の首都として栄えた。チャンドラとは月の神のこと。300年の間に22人の王が85もの寺院を造ったが、14世紀初頭にイスラムの勢力に全領土を支配され、大部分が破壊されて、現在は22の石積み寺院が残るのみ。王朝は完全に滅び、以後この辺りは森に覆われた。1838年にイギリス人により発見された。このイギリス人もアジャンタ同様、狩りに来ていて発見したという。
  カジュラホ遺跡群は西部、東部、南部に分散しており、東部にジャイナ教寺院がある他は、すべてヒンドゥー教寺院。これらの寺院は砂岩で出来ている。階段部分は花崗岩。砂岩は35km離れたパンナから運んできた。

7−6−1 西群(1420〜1615)・・・ヴァラーハ寺院から
 西群の寺院群はインド・アーリア様式でこれはヒンドゥー教の造り。全体が5つの山の形を現し、入口は洞窟の形となっている。外の彫刻が見物で、神と女神、天女の彫刻が有名。シバ神とビシュヌ神の寺院が多い。
 入り口から入ってまず向かったのはラクシュマナ寺院。ラクシュマナ寺院の前には小さめのビシュヌ神の奥さんラクシュミーを祀ってある寺院とイノシシの像がある寺院(ヴァラーハ寺院)が並んでいる。イノシシはビシュヌ神が3回目に化身した動物。つまり二人揃ってここに並んでいることになる。

7−6−1−1 ラクシュマナ寺院
 この大きい寺院は18年間で造り上げたそうだ。足場があって、修復中のように見えるが、これは汚れを落とすためのもので、5,6年に一度行うとのこと。これは他の寺院も同じこと。
  カジュラホでもっとも有名な彫刻群で、その85%がオリジナルである。寺院建築的にも重要で、中央の(下図@〜E)主堂と四隅のある(同F)副堂を合わせて五堂形式と呼ばれる建築様式。
 神と女神が彫られている。シバ神は三つ叉のほこを右手に持ち、クビにはコブラを巻き、頭には三日月をいただき、牛に乗っている。ビシュヌ神は、ホラ貝などを持ち、ガルーダに乗っている。シバ神の息子、ガネーシャは象の頭部を持つ。シバ神と二分するほどの人気があるそうだ。
 両手が二組あるのが神と女神で、愛の交歓像(ミトゥラ像)は夫婦神が中心。周りにアシスタントがいる。これはカーマスートゥラという性愛の教示本を元にして作られている。これには84の愛のポーズが描かれている。
また、ラブレターを書いている娘や髪を洗う娘、鏡を持って化粧する娘の像などもある。下部に象が沢山並んでいるが、これは寺院を支えている。
  靴を脱いで中にはいる。入口は一つの岩から出来ており、彫刻も石堀となる。中にも彫刻があるが、外側比べて質素。一番奥に祀ってあるシバ・リンガの周りは日本の寺のような胎内巡りのように回ることが出来る。
  外へ出て、建物を取り巻く外壁を見ると、そこにも沢山の彫刻が並んでいる。体の柔らかさ、表情の豊かさが見物。ここには交歓像だけではなく、狩りの様子や楽団、戦士の行列などもある。白い数字は修復のためにつけたもの。

7−6−1−2 カンダーリャ・マハーデーヴァ寺院
 正面の階段を上がると広間・拝殿・本殿と続く。本殿にはシバリンガが祀られている。
 11世紀半ばに建てられた。建築的にも有名で、カイラースという山を表している。屋根は玄関から本殿へと順に高さを増し、シカラと呼ばれる本殿の屋根の高さは約31mになる。入口は洞窟になる。全体のバランスがよく、内外壁から天井、シカラに至るまで殆ど隙間なく彫刻が施されている。特に、拝殿と本殿をつなぐ外側の彫刻はだいたいラクシュマナと同じだが、1つ1つが大きく、おびただしい数の神々や男女の彫像が彫られている。やはりミトゥナ像が多いが、首のないガネーシャや死に神などの像もある。
 ここはブーゲンビリアの花を一寸取り入れて全体を撮るのが撮影ポイントになっているらしい。当然我々もそれに習った。ここでの二人の写真はWoldHeritage Site 200 の達成の記念となった。

7−6−1−3 デーヴィ・ジャグダンベ寺院
 シバ神の奥さんパールヴァティーの寺院。壁面を埋める男女像やミトゥナ像とともに、シバ神とパールヴァティーの寄り添う姿もある。ビシュヌ神とその奥さんラクシュミーの像もある。蠍座の女(と現地のガイドが表現した)もいる。

7−6−1−4 チトラグブタ寺院
 11世紀初頭に建てられた。カジュラホとしては珍しく太陽の神スーリヤを祀っている。ただ、80%は修復したもの。

7−6−1−5 ヴィシュワナータ寺院
 1002年に建てられた。細部を別にすると構成や装飾はカンダーリャ・マハーデーヴァ寺院と大体同じで、5つの塔の並びがきれい。この寺院も外壁はミトゥナ像で飾られている。シバ神を祀っている。前には乗り物の聖牛、ナンディを祀ったお堂もある。

7−7 カジュラホ寺院群 東群(1625〜1710)
 こちらはジャイナ教の寺院群。3つの寺院と多くの小祠堂が建ち並んでいる。 最大のものは第23代ティールタンカラ (ジャイナ教の祖師) に献じられた パールシュヴァナータ寺院。西群と同じ王朝、ほぼ同じ時代に造ったためによく似ている。
 ジャイナ教は神とか女神を信じるのではなく、24人の予言者を信じ祀っている。初代はマディナート。24代目のマハビーラの時に最盛期を迎えた。これは仏陀と同じ時代になる。が、その死後次第に衰えていった。現在は700万人の信者がいる。2派に分かれ、一方は白い服を身につけるが、もう一方は何もつけず裸。土の中のものは食べない。これは根の部分は虫が食べるから。また、マスクをしている。これは飛んでいる虫が口の中に入ってこないようにするため。孔雀の羽をまとめた箒を手にしているのは、足下の蟻を殺さないため。勿論肉類は食べない、完全なベジタリアン。いやあ、すごい。

7−7−1 パールシュヴァナータ寺院
 塀の中に入ると寺院が2つ並んでいる。向かって左が1代目、右が23代目。共に11世紀頃のもの。他は、150年位前のもの。外壁の彫刻にはヒンズー教とジャイナ教のが混在している。
 この寺院はやや単純でバルコニーがないが、本殿のシカラを見ると本体の周囲に小さなシカラが張り付くようにあるのはカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院と同じで、三段の帯状に区切られた外壁は隙間なく膨大な量の男女像で埋め尽くされている。男女像にはミトゥナ像はないが、それを思わせるヴィシュヌとラクシュミーの像や手紙を書く女性像、足首に鈴を付ける女性像、化粧する女性像など。また、キューピットに似た弓矢を持つ像やビシュヌ神、猿のハヌマーンなどもいる。勿論ジャイナ教の予言者の姿も見られる。チャンドラ朝の盛期を代表するものひとつ。
 中に飾ってる神像は大理石だが、他は砂岩を使っている。

7−7−2 シャーンティナータ寺院
 この寺院は16代目を祀っており、1028年に設立された。白い大理石で出来ている。今でもジャイナ教巡礼の地として多くの信者が集まる。
 入り口にはかわいいライオンが座っていた。靴下も脱いで中に入ると案内の人があちこち連れて行って、写真や立像が誰のものなのかを説明してくれた。ここは裸派らしく、それらはいずれも裸だった。以前テレビで見た時には女性も一部を隠す小さな布を付けることで解脱を認めると言っていたような気がするが、帰国後資料を見ると女性は認められていないと書いてあった。

7−8 ホテル着(1715)
 ホテルへ戻って少し休み、夜の部の出発の準備をする夜はカジュラホ西群の区域内で「音と光のショー」がある。エジプトのそれを期待しながら向かった。

7−9 カジュラホ寺院群音と光のショー(1803〜1857)
 寒いというので沢山着込んでカジュラホ寺院群へ向かう。西群で行うのだが、入口は先ほどの所とは違っていた。やや早めについたので、未だ明るい。通常なら6時30分開始なのだが、今日は鉄道開通を記念して鉄道大臣が来ているというので、30分早くなった。着席するとだんだんと夕暮れになってきて、夕焼けにシルエットで浮かぶ寺院がきれいだった。
 定刻より3分ほど遅れて開始。英語による解説なのでよく分からないが、カジュラホの成り立ちと発見の歴史を周りの寺院を順番に照らしながら開設している感じだった。
 ゆったりとした重みのある口調で心地よい語り口だった。ただ、光は普通の光の色に時折緑が入るくらいで、しかも下から照らすことがほとんどで、レーザー光線を使ったような派手さは見られなかった。
 大臣の席は空白のままだった。どうやらこの後、専用で行われるらしい。

7−10 夕食(1930)
 実は「光のショー」へ行ったのは我々と後一人だった。あとの二人はエステなど思い思いに過ごしたようだ。旅行会社の用意したメニューを我々のようにをただただこなすようなことをせず取捨選択しているところは流石に旅慣れている感じだ。
 だから再び顔をそろえたのは食事時になってから。食事はビュッフェではあるが、結局はカレーが中心です。