2、5月7日(土)晴れ 24度 走行距離約110km
散策(0540~0630)朝食(0700~0730)ショプロンホテル発(0800)ショプロン観光(0800~0856)ヨーロッパピクニック記念碑(0930~0940)フェルテー湖景観(0947~0958)エステルハージ宮殿(1038~1150頃)昼食(1340~1506)パンノンハルマ修道院(1508~1650)ジュールホテル着(1737)散策(1825~1920)夕食(1930~)散策(~2130)
2b フェルテー湖の文化的景観
256 と エステルハージ宮殿
2-5 「汎ヨーロッパピクニック」
記念公園(0930~0940)*1
1989年の東西冷戦中、東ドイツの人々に国境を開き、ベルリンの壁崩壊につながったエポックメーキングな場所。
ショプロンが第一次世界大戦後の旧ハンガリーオーストリア帝国の分割の際に、そのままいけばオーストリアになったのが覆されたことについてはすでに述べたが、このことが第二次世界大戦後の政治的な分布からポスト第二次大戦つまりは東欧の民主化を促進する役割を果たすことになったとは、誰も当時考えることすらなかったろう。時のいたずらなのかもしれないが、地理的にもショプロンはオーストリアの領土に突き出した半島のようなもので、その地形的にもここに必然を生んだ。
noriにとってはこの旅の中で一番の目的とも行って良かったことは、前説で触れたとおりだが、現代史に重要なその衝撃的な、その後のベルリンの壁崩壊に象徴されるロシア及び東欧の激変期の口火を切った町がショプロンであった。このことは日本ではそう知られていない。しかしながら、事件以前においても、ショプロンやこれからゆくバラトン湖周辺のリゾート地は、西ドイツ国民が東ドイツにいる人々との再会の場所にもなっていたらしい。同じ東欧諸国には当時の東ドイツやその他の東欧諸国のいくつかにおいては、比較的容易にビザが発給された。我々はかつてオーストリアに行った際にも、高速道路を通っただけなのに、いったんドイツ領内を走行した経験を持つ。道は国境を他と区別することなく利便性を追求して作られていた。ドイツからこのオーストリア国境から高々6キロ程度の町に赴くのは、当時の西ドイツの人々にとってかなり容易な移動であったことだろう。また逆に行えば、東ドイツの人々にとっても、より西側に近づける町でもあった。
ここにパンヨーロッパピクニックの計画がなされ、実行に移された、この町の郊外の国境でなければならないと言う必然があった。もちろん当時のハンガリー政府の決断によるところが、大であることには変わりはないところではあるが。
やはりこの地に立ちたかった。それはnoriにとっては、ポツダムを訪れた時と同じような感動をもたらした。我々夫婦の生きた時代というのは、一つには欧州においての第二次世界大戦後の地図が塗り直される時期と同期している。もちろんそこに自身の介在はないわけだが、やはり同時代を、駆け巡るニュースとともに過ごしたことの、個人史的な意味は大きなものがある。
さてそこは、殆ど今や(あるいは今も)何も無いところだった。そこがそこであるとするのは、むしろアクセスの道路にあった。そこだけが平原が広がっているこの国の道路とは趣が異なり、眺望がそう開けない、周りにやや高い木々がある、やや寂しげな道路だった。開けても、挟雑物といえば、かつての監視塔(記念のために保存している)があるのみだった。今でもそこは、「特別なところ」に誘ってくれるという感じがする道だった。到着したとろは、もはや観光地になりかけた場所であった。もちろん我々がここに建てたのも、それ故であるが、オーストリア国境へ誘った道よりは明るく開放的な場所だった。
もはやそこは国境を意味する物は、記念物以外にはなかった。国境を示す物や、かつてのゲートをイメージ化した美術品(?)や、かつてのゲートを模した物(本物かも?)を除けば、ただの道だった。ただの道の証拠に、我々がそこで写真を撮るためには、オーストリアとハンガリーを行き来する車の往来に気をつける必要があった。国境警備の兵士や税関の管理やあるいは付き物の両替所などもなかった。
あたりを見渡して、様々な記念や掲示板などを視野に入れることで、はじめて自分が今そこに存在するという認識にたてる場所だった。
当時のハンガリー政府にとって大きな決断だったその場所は、今静かにまた歴史の中での評価を待っているようであった。あまりにも少ない見学時間だったが、多くの人には興味の対象ではない場所だろう。同行者も、あまり興味を示すという風では無かった。したがって、そして時間的にも押していたこともあり、我々のバスもほんのひととき停まって、また来た道を引き返した。命を賭してここを渡った人が大勢いたことも、心の中で感じるほかはすべはなかった。
現在ここには、開かれた国境のモニュメント、オーストリアとの国境線、鉄のカーテンの再現された物、日本が贈った四阿風の建物などがある。
ガイドさんは何故関係の無い日本からプレゼントがあったのか分からないと話していたが、糸見偲(いとみ しのぶ:在ハンガリー日本文化センター代表)の力添えがあったからだ。 (参照 http://www.geocities.jp/nikolett777/information.htm) また、福島県の三春の滝桜の子孫もこの地に植わっているという(ウィキペディアの滝桜のページ)。
ここで、junはゲートをくぐり、noriは国境を跨ぎ、今や自由に往来できることを証明した。
2-6 フェルテー湖景観(0947~0958)
フェルテー湖は、大きさ309k㎡で、ユーラシア大陸の最西端にある塩湖。深さは60cmから160cmくらいしかない。が、約 280種の鳥類や数多くの植物が生息している貴重な湖となっている。
ガイドさんからアオサギのレリーフのある5Ftをプレゼントされる。本物は見られないからせめてこれで、ということらしい。
採石場の近くの展望台から遠めにみる。ここから切り出した石灰岩は、ウイーンやショプロンへ運んだそうだ。
靄がかかっていてはっきりとは見えない。もっと近くに行かないのかと思ったが、葦が多すぎて足場が悪くてバスでは行けないとのこと。(でも望遠で見ると湖畔には家の陰が・・・)
遠くからの見学となったが、世界遺産なのだから、もっと近くに行きたかった、と後の食事の時に他の人とも話した。
なお、鉄条網の一部のモニュメントは、国境のフェンスを表している。やはり汎ヨーロッパピクニックの舞台となったこの地を記念するものなのだろう。
2-7 エステルハージ宮殿のあるフェルテードへ
エステルハージ宮殿のあるフェルテードへ向かう。
周りにはブドウ畑が広がる。ここは赤ワインが有名だそうだ。
また、高い電柱の上にコウノトリの巣があった。コウノトリは渡り鳥で、4~8月まで湖や川の近くで見られるそうだ。ハンガリーには1万羽位来るとか。ここで雛がかえり、やがてアフリカへ戻っていく。そして再び、同じ巣に戻ってくる。修理して使うので、巣は毎年少しずつ大きくなっていくのだそうだ。
またメイポール(独マイバウム)とか花に飾られた墓地を見た。おおむね新しい墓地では、日本の特に西の地域のようにきれいな花に彩られていた。これらは、コウノトリの巣を含めて色々なところで見ることができた。
2-8 エステルハージ宮殿(1038~1150頃)
ハプスブルク家に忠誠を誓うことで栄華を極めたエステルハージ家の夏の宮殿。
そもそもエステルハージ・ヨーゼフ公爵が1720年に造営した、2階建て20室の狩りの館だった。それを〝ハンガリーのベルサイユ〟と呼ばれるまでに改築したのは、エステルハージ家の黄金時代の当主、ミクローシュ公爵で、1767年には3階建ての126室という大宮殿になる。
エステルハージ家はハプスブルグに忠誠を誓うことで地位を得て富を築いたので、この宮殿は、かつては「ハプスブルグの黄色」と呼ばれる象徴的な濃い黄色をしていた。
また、芸術を愛したミクローシュは、劇場も建設し、ここを音楽と芸術文化の中心とした。現存するハンガリー唯一のロココ宮殿である。
冬の宮殿は現オーストリアのアイゼンシュタットにある。ショプロンにも見られたように、他にも小さな館は各地に持っていたらしい。
ここで押さえておかなければならないのは、エステルハージ家とフランツ・ヨーゼフ・ハイドンは切っても切れない関係ということ。ハイドンはおよそ30年間エステルハージ家に使えた。エステルハージ家(当時の当主はニコラウス・ヨーゼフ・エステルハージ)は彼のパトロンであり、彼に最大限の援助をした。そのハイドン活躍の舞台こそがここと言うことになる。
門を入る。雰囲気がシェーンブルン宮殿によく似ている。しばらくはその全体を写真に収める。バロック式の庭園は芝だけしかないが、いずれ花壇を整えて元のように修復するのだそうだ。
内部の写真はチケット代に含まれているのでOK。ここは専門のガイドさんが付く。ダビッドさんというなかなかのイケメンだ。
中央が博物館として公開され左右は学校やホテルとして使用されている。3階建てになっていて、1階は侯爵家が、2階は客を迎えたとき、3階は使用人たちが使用していた。
その部屋は126室あり、そのうちの20室が公開されている。まだ修復中で、2025年まで続く予定だそうだが、ガイドさんによれば、ということは30年までは続くでしょうということだ。
第二次大戦でロシアが進駐してきたときにトラクターや馬でどんどん入り込み、家具や絵画を全て持ち去っていった。また倉庫などとして使われたために痛みがひどい。近年になって旧ソ連から返還されたものやオリジナル家具のコピーを含め、館内部は修復が進み、再び古の豪華さを取り戻している。
本来なら中央の階段から入るのだが、現在修復中で閉めきりになっているので、教会の入り口の鍵を開けて中にはいる。鍵はガイドさんが持っていた。
2-8-2 内部見学その2
ここから使用人の通路を通って先へ進む。何故かこの先は撮影禁止。
①エステルハージ侯爵の肖像画
木のようになっている家系図。現在もこの家系図の最後の人は、ここに住んでいるのだそうだ。社会主義国家が終了したときに土地や家は元の持ち主に戻された。ただ、すべてを返されても修理や管理に困るということで、一部分だけ返してもらったのだそうだ。
また武器や様々な宝石で飾られたカップ、先ほど見たような時計などの展示もあった。右に示したのは、、撮影禁止だったので、ウィキペディアから。
②マリアテレジアの直筆サイン
マリアテレジアのサインの残る書類が2通あった。古いハンガリーの地図。領地が広い。
③マリアテレジアの肖像画
彼女の王冠はハンガリー国の物。右手にしゃくを持ち、左手に二重十字架を持つ。エステルハージ家が繁栄したときはハンガリー=オーストリア帝国の時代、マリアテレジアの戴冠式の時の大司教はエステルハージ家の者だったそうだ。
他にも貴族の肖像画があった。
④かつての宮殿の絵
オペラ劇場や人形劇場もあった。大きな庭園も広がり噴水もあった。オペラ劇場などは大火で消失したが、現在復元中。そのときに残ったハイドンの住居は移築されてある。
⑤オペラ劇場の絵
踊り子達の絵や庭園を描いた扇子などが展示されている。この扇子は、マリアテレジアが訪問したときの記念として配布されたものだそうだ。ほかにも肖像画などがあった。
⑥コンサートホール
20畳くらいの広さ。先ほどのよりは広いがそれでも狭いと思う。ステージにはバイオリンが4台置かれていた。その程度の広さで、周りの壁には、招かれた客達の肖像画が並んでいた。ここで、ハイドンのCDがかけられた。曲名はわからない。
今では暖房設備も整い、ハイドンの記念コンサートなどを開くそうだ。
⑦おまけ(臨時展示?)
スクリーンに宮殿の写真が写されていた。そこで花火の様子を見せるという。コンサートの後、舞踏会を開き、さらにはこのような花火が打ち上げられました、ということで、その部分はCG映像で映し出された。ものすごく盛大だった様子が見て取れた。華やかな世界だったようだ。
2-10 昼食(1340~1506)
ミックスサラダ、魚(フォガシュ)の唐揚げクリームソースポテトご飯添え、フルーツサラダのせチョコプディング、コーヒー
パンノンハルマの町に入って昼食。レストラン「BORBIRO DALOM」にて。
飲み物のリストは日本語だった。ワイン600Ft(2、5ユーロ)×2
大体、今回の食事は前菜(サラダ)、メーン、デザートの3種にコーヒーか紅茶が付くというパターン。コーヒーは、こちらで言うとエスプレッソになる。初めこそそれを飲んだが、あまりにも濃いので、後ではnoriはカプチーノ、junはアメリカンになった。ワインは、飲んだり飲まなかったり。グラスに1杯というところで、以前のように昼からボトルということはなかった。
この店は自家製ワインも作っているようで、その販売もしていた。ちなみに、売っている値段とボトルで飲んだ値段は同一であった。おとく。