4、5月9日(月) 晴れ一時小雨 走行距離約190km
起床(0430)朝の散歩(0605~0645)朝食(0700~0750)ヘーヴィーズホテル発(0750)ティハニ港着(0907)フェリー(0930~0940)昼食(1315~1415)ペーチホテル着(1438)散策(1515~1800)夕食(1930~2040)夜の散策(2045~2120頃)就寝(2230)
4b ペーチ
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4-8-1 セーチェニ広場(1518~)
ここには、ローマ時代にも町があり(ソピアネと呼ばれた)、初期キリスト教の礼拝堂が造られた。初代国王イシュトバーンがここに司教座を置き、大聖堂を建設するなど歴史的な町だ。
一番先に目に入るのが広場の南側に立つフニャデイ・ヤーノシュの騎馬像。マーチャーシュ王の父で、ベオグラードでトルコ軍を破った総司令官だ。彼もブダペストの英雄広場に立つ14人の銅像の中の一人。英雄なのに広場の中央にないのは、この像が造られたのは1956年と新しいので、そのとき既に広場の中央には三位一体の像が建てられていたからだそうだ。でも、そのおかげで、場所を選ぶと彼がモスクを叩いているような写真が撮れる。この時は人が多かったので、後でそのような写真を撮った。
その1456年の勝利を喜んだローマ教皇は、イスラム教に対するキリスト教の勝利であるとし、この時から世界中の教会の鐘を正午に鳴らすようにと命じたとか。
しかしその喜びもつかの間、ペーチは1543年からおよそ150年もの間、オスマントルコに占領されていた。
目立つのが「旧ガーズイ・カッシム・パシャ・モスク」。
ここには、11世紀に建てられた教会があったが、16世紀のトルコ支配下の時に壊されてしまい、モスクが建立された。ハンガリー最大のトルコ建築である
トルコ軍が引き上げた後にキリスト教の教会に改築されたが、20世紀になって再びトルコ時代の外観に造り替えている。ドームの上には、三日月の上に十字架があるが、それはキリスト教の方が優位にあることを示すためだそうだ。
また、入り口が広場の方を向いていないのは、モスク時代にメッカの方角の方を向いて造ったためで、そのままで使用しているから。入り口の上や壁はトルコ風の飾りがなされている。有料だが入ることができるので、自由時間にどうぞということだ。
三位一体の像はペスト流行の終焉を感謝して1710年に造られたもの。
南の角にある市庁舎は、4回ほど立て替えられた。今のはその4回目の建物で、100年前のバロック様式。1階に何故かマックがある。夜はライトアップが綺麗だそうなので、是非出かけることにしよう。(なんと市庁舎のセイチェニ広場に面する角にはマクドナルドがある。)
西側にあるのが、県庁舎。屋根はジョルナイのタイルで覆われている。ただ、残念なことに、下から見上げているのでその屋根の様子が今ひとつよく見えない。
広場に面して高等学校もあった。が、この地には,1367年、国の最初の大学が造られるなど文化的な町でもあるという。
4-8-2 大聖堂(1538~)
途中に鍵がグチャグチャというように折り重なってかけられている所がある。愛の鍵だそうだ。そういえば日本でもどこかの観光地で同じ様なことをやっていた。ここがその発祥の地だとか。どんな経路で伝わってきたのだろう。
そこからすぐの所に大聖堂はあった。
四隅にそそり建つ高さ60mの尖塔が印象的だ。
最初は11世紀(1040年)に建てられた。その後何度も火災に遭い,何度も建て替えられた。オスマントルコ時代には東半分はモスクとして、西側は倉庫として使用されたが、そのときもかなり破壊された。19世紀には殆ど壊され、4つの塔の一部と基礎部分だけを残された。1882年から1891年にかけて再建され、ネオロマネスク式の大聖堂となった。元々の教会と同じ様な形にしたそうだ。
この下にも初期キリスト教の遺跡がある。
司教座がここに置かれたのは、周囲に初期キリスト教の礼拝堂があったからで、この礼拝堂関係は、明日見学することになっている。
前庭の赤い部分は旧礼拝堂があった所を表している。
隣は司教の館で、そのバルコニーからフランツ・リストが身を乗り出している像がある。ガイドさん曰く、今日のコンサートに客が入るかなあと心配しながら見ている姿なのだそうだ。
それと向かい合っている同じ様な建物は、歴史博物館。
4-8-2-1 大聖堂の中へ
この教会は四隅にある4本の尖塔が印象的だ。全体のバランスがよい。
教会の正面上の方に並んでいる像は12人の弟子たち。ということはユダもいるのか。
教会の入り口は本当は西だったが、今は南にある。東にはステンドグラスがあり、そちらから朝日が差し込んで来るように設計されているということだ。
入り口の上にマリアのレリーフが見られる。両側にいるのはハンガリー人。マリアはハンガリーの守護神だ。入り口のブドウの葉は新しく造られたもの。
中に入ると壁も天井もフレスコ画で埋められていた。金も輝き、素晴らしい内部になっている。ガイドさんが料金を払って灯りを付けてもらうといっそう引き立った。
壁にペテロとパウロのフレスコ画があるのでペテロとパウロの教会とも言われるそうだ。前方の左右にもあるということだが、なかなか確認はできなかった。
高い天井には新約・旧約聖書の物語が描かれている。字の読める人が少なかった時代、こうして聖書の教えを広めることは重要なことだった。
16人の予言者のフレスコ画や、洗礼者ヨハネのフレスコ画もあった。
そんな説明を聞いているうちに、ちょうどパイプオルガンの練習が始まったので、しばらく聞き惚れた。
4-8-2-2 宝物館
小さい礼拝堂は、宝物館になっている。神父の服や金・銀製の十字架などがある。神父はマリアの日には青、または白の服を、キリストの日には赤い服を着、他の日は緑色だそうだ。ここにあるのは金糸を織り込まれた立派なものだ。古い聖書(ラテン語)もあった。
ガイドさんが難しいからと漢字で書かれた物を見せてくれた。「聖体顕示台」とあった。これはキリストそのものを表し、中央の穴にはパンを入れて信者に示したのだそうだ。周りの光はキリストの体から発している。布教するための工夫の一つなのだろう。カトリック教会ならどこにでもあるものなのだそうだ。
聖杯もあった。赤ワインを入れて飲むそうだが、それは神父のみ。信者はパンを分け与えられる。
大理石のレリーフはキリストの生涯を表しているそうだ。
ここにもイシュトバーンが王冠をマリアに捧げる場面がある。
4-8-3 町歩き(1615~)
博物館通りと言われる通りを歩く。確かにジョルナイ博物館を初めとしてハンガリーの画家や彫刻家の作品を展示した小さな館が沢山並んでいる。が、正直あまり良く分からない人ばかりだ。
わざと壁が壊れたようになっているジョルナイの博物館は、以前のフレスコ画が分かるようにしてあるとか。
そこから繁華街の方へ行く。
道路にかつてのトラムの線路跡が残されている。記念として残しているそうだ。町の保存に関してのきめ細やかさが見られる。
また、軒先に店を表す鞄などがあったが、ワタリガラスの看板は本屋のマーク。マーチャシュー王の紋章だが、彼が図書館を作るなど文化的な方面でも貢献があったことから、本屋のマークとして使用されることが多いとか。
それからジョルナイ本店の前を通る。小さな入り口で、いわれないと分からない位地味だ。ジョルナイ焼は、ジョルナイによって開発された玉虫のいろというか、独特の風味のある焼き物。ハンガリー三大焼物の一つ。
4-8-4 ジョルナイ噴水(1633~)
1900年に亡くなったジョルナイ・ヴィルモシュを偲んで建てられた。一見鉄のように見えるが、ジョルナイ特有の玉虫色のような不思議な光を放つ陶磁器で造られている。確かに、光にきらきらと輝いているように見えた。この色が特徴で、人気があるとか。
1912年に造られ、ここには1930年から置かれたそうだ。
ハンガリーが誇る名窯として、ジョルナイはヘレンドと双璧をなしているが、外国には一般にヘレンドの方が知られている。しかし、ハンガリーではジョルナイの方が一般になじみがある。値段が比較的安いのだとか。
世界にジョルナイの名を高めたのは建築家レヒネル・エデンの作品にジョルナイのタイルが使われたことによる、と解説書にはあるが、この一連のことを我が家は全く知らなかった。
4-8-6 自由散策
その後は自由行動。特段考えを持たなかった我々は、行く当てもなくどうしようかと思ったが、添乗員さんとガイドさんが郵便局へ切手を買いに行くというので,付いていくことにした。我が家恒例の手作り絵葉書のために、添乗員さんからもらえる6枚分の他にも6枚ほど必要だったからだ。
郵便局で切手を手に入れるのはなかなか大変で、あちらこちらと指示される所を回ってようやく手に入った。
日本のように窓口でハイ、というわけにはいかず、売店の中の奥のカウンターで注文をいい、それをまた別の所から持ってきて・・・という手順だった。それに加えて、いろいろな図柄の切手が欲しいという人がいたので、かなり混乱した。
この、郵便局も美しいジョルナイの瓦屋根で覆われている。本で知ってはいたが、自分たちが行く郵便局がそれだとは知らなかったので、ものすごく儲けた気分。
その後、添乗員さんたちと分かれてスーパー(生協)に行く。そこで買ったのはウニクム。養命酒のようなお酒だ。売り場が分からなかったので警備員の人に聞いたら売り場まで連れて行ってくれた。売り場の人も身振り手振りで対応してくれて、何とか2本買うことができた。
この頃ぽつんと雨が落ちてきたので、急いでホテルへ戻った。