9、5月14日(土)
起床(0430)朝の散歩1(0525~0650)朝食(0700~)朝の散歩2(0825~0840)ブダペストホテル発(0900)イシュトバーン教会(0909~0945)王宮(1030~)マーチャシュー教会(1107~1125)漁夫の砦(~1145)土産物店(~1205)昼食(1250~1415)西洋美術館(1430~1703)英雄広場(~1720)地下鉄(1725~)スーパー(~1830)ブダペストホテル着(1850)
9a 哲学の庭・・・感動の対面(朝の散歩×2)
9-1 朝
起床(0430)
昨日結構動いたと思うのだが、目覚めは快調だ。元気薬(粉末のユンケル)を飲んでいないのに、不思議と疲れが残らない。
9-2-1 ゲッレールトの丘
女神像の下の方になるが、それでもしっかりと目立っているこのゲッレールトという人。
ゲッレールトはヴェネチアの宣教師で、布教のためにブダペストにやってきたが、1046年キリスト教に反対する人々によってこの丘からワイン樽に詰められてドナウ川に投げ込まれた。イシュトバーンの息子を教えた人であるにもかかわらずこういう結果になってしまったということは、イシュトバーンのキリスト教化も一筋縄ではいかなかったということなのかもしれない。後に聖人に列せられ、13世紀半ばに国王ベーラ4世によって建設された。ここの温泉の名前にもなっている。
が、今目指しているのはここではないので、写真だけ撮って通過。我々はその先まで車道を歩いてから丘に登った。
9-2-2 哲学の庭(哲学堂公園~東京都中野区)
前説でも触れたが、我が小宅のあるのは、東京都中野区。中野駅は、新宿から中央線の快速で最初に泊まる駅。戦前からの東京のベッドタウン。
その我が区の広報によると、
・・・「哲学の庭」とは、ワグナー・ナンドール氏が1994年に完成させた3組24体からなるブロンズ像です。
1組はハンガリー・ブタペスト市『ゲルトの丘』に、2組は栃木県益子町『ワグナー・ナンドールアートギャラリー』に建立されていました。今回、益子町の1組が哲学堂公園に寄贈されました。
彫刻は3つの輪で構成されており、
第一の輪 「アブラハム」「エクナトン」「キリスト」「釈迦」「老子」
第二の輪 「達磨大師」「ガンジー」「聖フランシス」
第三の輪 「聖徳太子」「ユスティニアヌス」「ハムラビ」
の計11体です。・・・
というものだ。
ワグナー・ナンドールはハンガリー出身の哲学者・彫刻家。1969年移住の為来日し翌年栃木県益子町にアトリエを建設。最終的に日本に帰化している。
この作品、つまり群像彫刻「哲学の庭」について、中野区でたてた解説では、作者ワグナー・ナンドールは次のような作品枝へのメッセージを綴っているとされている。
『私は長年研究していた分析的美術史の研究から幸せへの道を見出しました。その理論を彫刻の形で表現したのが、この「哲学の庭」です。
この道は人類共通の進歩を示し、考える道を開いています。問題がたやすく解決されるとは思いません。しかし私はこの方向に向かって進むべきだと確信するのです。』
作品には、「相互理解のために」というサブタイトルも付けられている。
で、何故に哲学堂にそれがあるかだが、「平成21年(2009年)が日本とハンガリー外交関係開設140周年・国交回復50周年にあたり、この記念事業の一環として中野区に寄贈された」とのこと。
9-2-3 哲学の庭
(ワグナー・ナンドールアートギャラリー~栃木県益子町)
ワグナー・ナンドールが1970年に栃木県益子町にアトリエを建設したことは先に言及したが、現在はこれが、ワグナー・ナンドールアートギャラリーとなり、この4月からは公益法人化された公益財団法人 ワグナー・ナンドール記念財団がその運営を担っている。
ただし、非常に残念なことに、先の地震でそれ以降、つまり公益法人化されてもなお、閉館が続いている。
そのホームページには、以下の文が載っている。
『大地震に続く様々な困難の中、皆さまいかがお過ごしかと心配致して居ります。益子町はかなり揺れが大きかったですが、私共は比較的ダメージの少ない方です。
いつもなら、桜の便りと共に、皆様にお目にかかるのを大変楽しみに春季展の準備をしいるところです。今回は誠に残念ながら休館とさせていただくことになりました。
これから修復作業を進め一層の安全と、より美しい環境を作り上げることに専念して、秋にはお目にかかるのを一同心からお待ちいたします。
なお、財団法人タオ世界文化発展研究所は栃木県の公益移行認定を受け、4月1日から「公益財団法人 ワグナー・ナンドール記念財団」となりました。これからも努力を重ね 前進して参りたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
皆様のご無事と、並びにご健勝を心から念じて止みません。』
当然我々もハンガリーへ行く前にこの益子のアートギャラリーを訪問する予定であったが、地震のためにそれもかなわぬことになり、現在に至っている。
いつの日にか、右の空白を埋める写真を撮ってきたいと思う。
上記写真は、公益財団法人 ワグナー・ナンドール記念財団から引用
9-2-4 哲学の庭(ゲッレールトの丘~ブダペスト)
さてその目的地だが、少し迷った所もあったが、ほぼ無駄なく着くことができた。
まあ、我々もハンガリーへの旅行が決まっていろいろ調べている課程で、今回偶然にその存在を知りここまでやってきたわけだが、ブダペストに住んでいるガイドさんは、ナンドールや哲学の庭についても全く知らなかった。
先に我が区の物を見てきたので、それを確かめに来たというわけだが、実際同じ物を目にしたときにはこんなにも離れた所でもつながっているというある種の感慨を感じた。
が、聖徳太子像はなかった。第二の輪までは確認出来たが、第三の輪は確認出来なかった。勝手にあれは日本だけものだね、と探しもしなかった、今になってはその根性のなさが悔やまれる。・・・と思ったが、もともとブダペストのものは8対であったようだ。奥様である、千代(ちよ)夫人は、平成17年に以下のような文章を綴っている。だから、8対しかここにはなくて正解だった。
『ワグナー・ナンドールが分析美術史の研究を始め、思想を深め、その哲学理論の表現として「哲学の庭」を彫刻の形で制作し完成するまで約半世紀かかりました。
平成13年10月18日母国ハンガリーの首都ブダペスト市に「哲学の庭」が建立されました。ニューヨークの惨事の直後でもあり、このワグナー渾身のライフワークにこめた民族、宗教を超え、世界平和を願うメッセージが大きな反響を呼んで居ります。
始めからの構想によって8体の彫刻がハンガリーに建ちました。日本の「哲学の庭」11体の彫刻は大切に保管されて居ります。日本でも同じ思いで「哲学の庭」建立が実現されることを私共も心から願って止みません。 』
この思いが通じて、哲学堂に建立されたというわけだ。
ただ、ナンドール氏は既に1997年に永眠されており、何れの建立にも立ち会えてはいない。彼は生前このライフワークの集大成ともいえる作品について次の言葉を書き残している。
今混乱のさなかにある日本において、この一人のハンガリー出身(正確には現在ではルーマニア領)の彫刻家の言葉をかみしめることも必要かもしれない。
『科学の発達の成果を正しく有効に用いる為には、健全で平静な精神の人間が必要です。落ち着いた心を持つ人間なしには、今日のように進歩した科学の成果も、破壊的であり、役に立ちません。
科学の知識とその応用は、もうずっと以前に、世界中のどんな人でもが、賢い平和な生活が出来るような道を開いています。それを妨げているものは、政治的と経済的との性格を持っています。双方共に、原因は法律と法の適用の違いから始まっています。
世界の異なった場所の人々が、より相手に近づくことが出来るようになるためには、プラス・マイナス・ワン(±1)の原点に立ち返ることが必要です。
もし我々が、倫理と法の原点を受け容れるならば、全人類のために共通の法律を作ることがよりたやすくなります。
「哲学の庭」はこの方向への歩みです。哲学の庭は一つの点から発して作られています。この一点の回りに三つの輪があります。
第一の輪は、中心点に集まる完全な輪で、これは異なった文化を象徴する人々で、思想を作り世界の大きな宗教の祖となった人物像です。各宗教の中心は、それぞれ、神、仏、イシュタール、アラー等々、名は異なりますが、それ自身違いはありません。
第二の輪は、文化、時代は違っても同じように悟りの境地に達して同じようにそれぞれの社会で実践し同じように成果を得た人々、すなわちガンジー、達磨大師、聖フランシスがこのグループです。
第三の輪は、法の輪で、異なった時代に於いて各々法を作り、現存する法律の主流を作った人物、ハムラビ、ユスチニアヌス、聖徳太子像です。
この道は人類の進歩を示し、時代と共に新しい人類共通の法を作る問題を投げかけ、考える道を開いています。私は悲観論者ではありませんが、21世紀になってもこの問題は解決されるとは思いません。
しかし私はこの方向に向かって進むべきだと確信するのです。』
9-4 朝の散歩2(0825~0840)
今日は市内観光ということで、まだ少し時間があったので、鎖橋まで出かけた。
ブダとペシュトは洪水のたびに流される危険な浮き橋で結ばれ、たやすく横断できる状態ではなかったのを変えたのが最初の橋、鎖橋。イシュトバーン・セーチェニー伯が鎖橋を発想し、計画を作り、資金調達を行い実現まで漕ぎつけた。そのため鎖橋は、正式にはセーチェニー橋と呼ばれる。
1849年に完成した。鎖橋は延長375m、幅16mで、歩道もあるので歩いて渡ることも出来る。
左右のライオンがまず出迎えてくれる。それからしばらく王宮の方へ向かって橋の上を散策した。が、やはり富士山同様、美しいものは遠くから見るに限る。当たり前といえばそれだけのことだが、歩いてみた所でどうということのない普通の橋だった。