5、5月10日(火)晴れ27度 走行距離約200㎞
起床(0430)朝食(0650)朝の散歩(0715~0850)ペーチホテル発(0945)初期キリスト教の礼拝堂(1002~1055)モハーチ(1150~1230)昼食(1400~1520)カロチャ民芸の家(1531~1612)ケチケメートホテル着(1743)散策(1805~1910)夕食(1930~)就寝
5a ペーチ旧市街観光(続き) と モハーチの戦闘記念の丘
5-2 朝の散歩(0715~0850)
一歩外へ出るとそこがもう観光地という感じだ。ホテルの前は歩行者天国になっている。(だから我々もホテル前にバスを横付けできなかった。)
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5-2-6 市場
添乗員さんが朝食後希望者を案内すると言っていた所だ。
路上にもいくつか店が出ていた。その間を通り抜けて建物に入った。あまり広くはなかった。
野菜や肉などが主なもののようだが、パン屋さんも入っていた。
暫くウロウロしてから、蜂蜜を売っている店でプロポリス(600Ft×2)を買った。でも、本当の目的はパプリカの粉だったので、どこにあるか聞いてみると、店の人の手提げ袋のようなものから1袋だけ出して売ってくれた。というより他には見当たらなかった。パプリカ(1200Ft)。
それから,帰り際にまたシティバンクへ寄ってお金を下ろした。一度やり方を覚えると気が大きくなるというか、それもまた楽しくなる。そこにまたさっきの人がいた。どうも、ここの警備の人のようで、銀行の入り口で案内のようなこともしていた
5-4 初期キリスト教の礼拝堂(1002~1055)
ここにはローマ時代、2世紀初めからソピアネという町があった。原始キリスト教の重要な中心だった。当初はローマカトリック教は禁止だったが、313年に王が改宗し、その頃から墓が多くなったそうだ。
100くらい墓があるが、これだけ数があるのはローマ以外にはないとのこと。
大聖堂の右側に地下墓所の入口がある。地下墓所は何力所かに分かれており、場所によっては4世紀頃に描かれたフレスコ画も残っている。中は、順路をたどると一周できる様になっている。
もっとも重要な原始キリスト教の遺跡が、二階建ての原始キリスト教の墓地。地下部分が墓で、上が礼拝堂になっている。それを説明する模型もあった。
また、フレスコ画が初めに見つかったのは1780年、3世紀の物と思われるパウロとペテロの墓と言われるもの。残されたフレスコ画にこの二人が見られるからそう名付けられた。
前方の壁の窓の上にキリスト(キリストそのものの絵ではなく、イメージした物。ここでは丸い物がそれに当たる。)が描かれ、その左右にパウロ(刀を持っている)とペテロ(鍵を持っている)がいる。4つの丸いに描かれているのは地元の聖人だそうだ。
場所を変えると上からも見られるようになっていた。
1939年に見つかった墓のフレスコ画の模様には植物が多く見られる。これはパラダイスを表しているとか。これは、ピッチャーの墓と呼ばれる。正面の壁にピッチャーのフレスコ画が見られるからだ。この墓には、天井がないので、上からも見ることができる。
他にも大きいのやら小さいのやら、いろいろな墓が見られる。城壁もあったが、これはローマ時代のものではなく中世に入ってからのもの。
石棺もある。ただ、中は空っぽだそうだ。ミイラや人骨はない。後世、新しい家を建てる際に捨てたり壊したりてしまったそうだ。これは、見せるために置いてあるらしい。ただ、発見当時、副葬品などは見つかっており、その一部が公開されていた。
最後は、7つの半円形の礼拝堂(セラ・セプティコラ)を見た。
5-6 モハーチの戦闘記念の丘(1150~1230)
ハンガリーの歴史的悲劇である、「モハーチの敗北」を喫した1526年8月29日の戦いの舞台である。国王ラヨシュ2世率いるハンガリー軍はここでオスマントルコと戦い全滅した。この戦いで市民のほとんどが死に絶え、モハーチはトルコ軍の町と化したのだ。
ハンガリーは、この戦いに敗れた後、150年間にわたってトルコの支配下に置かれた。ハンガリー人は何か大変な問題に直面すると「モハーチはもっと大変だった。」といって乗り越えるそうだ。
圧倒的な戦力の違いが敗戦の理由か。2万5千人のハンガリー軍に対して9万人のトルコ軍、85の大砲に対して300も持っていたトルコ、と、戦力の違いが大きかった。その上、実は、ハンガリーは、その頃農民の反乱などもあり国力が弱っていたし王は若かった。だから和平交渉に持ち込みたかったそうだが、オーストリア・ハプスブルク家とローマ法王がこれを禁じた。当時ハンガリーはヨーロッパの防御線であったからだという。ハンガリーのおかげで他の国は大丈夫だったんですとガイドさんはやや口惜しそうに説明した。といって、今、トルコに対して遺恨の気持ちはないという。
戦いは開始してからわずか1時間半で終わり、20歳のハンガリー王ラヨシュ2世は逃げる途中で亡くなった。彼の人型もあった。彼には跡継ぎがいなかったため実質的な最後の王となり、ハンガリーは、以後ハプスブルク家とトルコの占領下に置かれ、国土は3分割される。博物館前のチューリップの花びらが3つに分かれているモニュメントはそれを表している。
博物館の向かい側の森がそのまま残されているが、そちらの方向がトルコ軍が攻めてきた方向なのだそうだ。
黒い棒の立っている所が実際の戦場となった所の一部で、ここから1960年に集団墓地が2つ発見され、頭部のない遺体も多数見つかった。そのモニュメントもある。ネットに首を入れて持っているのはトルコのスルタンだそうだ。他に100本以上の細いトーテムポールも立っている。多分墓標なのだろう。
1976年にこの丘が整備された。その際、新たに3つの集団墓地も見つかったという。
我々の前に先客があった。修学旅行生で、みな神妙に現地のガイドさん(語り部のような人か)の話を聞いていた。